ヨシフ・スターリンの死と国葬

スターリンの国葬
オホートヌイ・リャートロシア語版を進むスターリンの葬列
日付1953年3月9日 (71年前) (1953-03-09)
場所ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦, モスクワ, 赤の広場
関係者ニキータ・フルシチョフ, ゲオルギー・マレンコフ, ヴャチェスラフ・モロトフ, ラヴレンチー・ベリヤおよびその他のソ連国内外の要人

ヨシフ・スターリンの死と国葬(ヨシフ・スターリンのしとこくそう)では第2代ソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリン1953年3月5日脳卒中が原因となったクンツェヴォ・ダーチャ英語版における74歳での死と国葬、4日間の国民的服喪の経緯について述べる。その後、スターリンの遺体は防腐処理され、1961年までレーニン=スターリン廟に安置されていた。ニキータ・フルシチョフゲオルギー・マレンコフヴャチェスラフ・モロトフラヴレンチー・ベリヤが葬儀を取り仕切った。

病と死[編集]

プラウダに掲載されたスターリンの病状に関する初の報道。脳卒中発症の3日後で死の前日にあたる1953年3月4日付のプラウダ63号(12631)。
3月1日の脳卒中発症の4日後から没する7時間前に至るスターリンの病状に関する報道。1953年3月5日付のプラウダ64号(12632)。

スターリンの健康状態は、第二次世界大戦の終わり頃から悪化していった。慢性的な喫煙によるアテローム性動脈硬化により1945年5月の戦勝パレードの時期に軽い脳卒中が起こり、1945年10月には重度の心臓発作に見舞われていた[1]

スターリンの葬列
葬列の花環

スターリンの人生の最期の3日間は、ソ連当局による最初の公式発表の媒体となった「プラウダ」で詳細に記述され、その後すぐに「ソビエト報道の最新要約」で完全な英訳版が発表された[2]。ヴォルコゴノフの記述によれば、1953年2月28日、スターリンと、マレンコフ、ブルガーニン、ベリヤ、フルシチョフら少数の側近が集まり、夜間の宴会を楽しんだ[3]。翌3月1日午前4時頃、客たちは解散し、スターリンは自室に戻った。「呼び出されるまで、邪魔をしてはならない」という厳しい指示が出された。その日は一日中呼び出しがなかった。午後11時頃、家政婦が注意深く彼の部屋に入ると、パジャマ姿のスターリンが床に横たわっていた。 意識はなく、息も荒く、失禁しており、呼びかけても反応がなかった。呼ばれたベリヤは、スターリンを見るなり、意識不明は酒が原因だと言って去っていった[要出典]

ソ連空軍による分列飛行

3月2日午前7時、ベリヤと医学専門家たちが召集され、スターリンの診察を行った。診察の結果、血圧110-190、右半身麻痺が認められた事から、高血圧症の既往歴があったスターリンは、左中大脳動脈の出血性脳卒中を起こしたと診断された。 その後、スターリンは様々な治療を受け、120-210まで上昇した血圧を下げるため、2日間で8匹のヒルを2回に分けて首と顔に当てられた。しかし、病状は悪化の一途をたどり、3月5日午後9時50分に死亡した。

その後、遺体は詳細不明の場に運ばれて解剖を受け、その後、公開安置のために防腐処理が施された。解剖報告書の原本は最近まで発見されなかった[4][5]。 しかし、最も重要な所見は、1953年3月7日の「プラウダ」の特別速報で、次のように報告されている。

"イー・ヴェー・スターリンの遺体の病理学・解剖学的調査"

病理学的検査により、左大脳半球の皮質下中心の領域に限った大きな出血が認められた。この出血によって脳の中枢領域が破壊され、呼吸と循環に不可逆的な変化をもたらした。 脳出血に加えて、心臓の左心室の著しい肥大、心筋、胃や腸の粘膜に多数の出血、血管のアテローム性動脈硬化が認められた。動脈硬化は特に脳動脈において顕著だった。これらは高血圧症の結果である。 病理検査の結果、イー・ヴェー・スターリンの病は、脳出血の瞬間から不可逆的な性質を持っている事が判明した。したがって、すべての治療の試みは、好ましい結果を導き出し、致命的な結末を防ぐ事ができなかった[6]

赤の広場に向かう装甲兵員輸送車

ベリヤとの関係[編集]

モロトフに「私が彼をやっつけた[7]」と言った事でベリヤに疑惑の目が向けられたが、スターリンの治療を故意に遅らせたと思われるベリヤの陰謀を示唆する物はなく、検死の際に見られた身体的変化は、以上の通り脳卒中患者に一般的に見られる脳の変化と一致していた。ベリヤの息子であるセルゴ・ベリヤロシア語版はスターリンの死後、母のニーナが夫に「あなたの立場は、スターリンが生きていた時よりもさらに不安定になっている」と伝えたと後に語っている[8]。数ヵ月後の1953年6月、ベリヤは逮捕されてさまざまな罪で起訴されたが、スターリンの死に関連した罪はなかった[9]。その後、彼はかつての政治局の同僚たちの命令で処刑されたが、それがいつ、どこで行われたかについては、相互に食い違う異説が存在する[10][11]

国葬[編集]

映像外部リンク
Official Soviet documentary on Stalin's funeral
Part of Soviet footage of Stalin's funeral

3月6日、スターリンの遺体が入れられた棺は労働組合会館英語版の円柱の間に安置され、3日間そこに留まっていた[12]3月9日、スターリンの遺体は赤の広場に運ばれ[13]フルシチョフマレンコフモロトフベリヤが演説を行い、その後、要人たちによってレーニン廟に運ばれたスターリンの遺体は、ウラジーミル・レーニンの遺体の横で1961年まで安置された[14][15]。 モスクワ時間の正午にスターリンの遺体が安置され、クレムリンスパスカヤ塔英語版の鐘が時を告げると同時に、クレムリンからは21発の弔砲が発射され、ソ連全土でサイレンとクラクションが鳴り響き、黙祷が捧げられた。他の東欧諸国、中国モンゴル北朝鮮でも同様の行事が行われた。黙祷が終わるとすぐに軍楽隊がソ連国歌を演奏し、その後、スターリンを称えてモスクワ軍管区の部隊による分列行進が行われた。 スターリンの棺に告別するため集まった市民たちが将棋倒しになり、押しつぶされたり、踏みつけられたりして圧死する者が相次いだ[16]。後にフルシチョフはこの事故で109人の群衆が死亡したという数字を出しているが、実際の死亡者数は数千人に上る可能性もある[17][18][19]

国葬に参列した外国要人[編集]

アガニョークによれば、国葬の参列者には以下の外国要人が含まれていた[20]

チェコスロバキアの指導者ゴットワルトは、スターリンの葬儀に参列した直後の1953年3月14日に、動脈が破裂して死亡した[22]

その他の外国からの反応[編集]

アルバニアエンヴェル・ホッジャ首相やメフメット・シェフー副首相はアルバニア労働党内の政敵の動きを恐れ、葬儀に出席するためにモスクワに出向く危険を冒さなかった。その代わりにホッジャは故人となったソビエトの指導者に永遠の忠誠を誓った[23]グアテマラハコボ・アルベンス・グスマン政権はスターリンを「偉大な政治家、指導者であり......その死はすべての進歩的人士によって嘆かれている」と賞賛する談話を発し[24]、グアテマラ議会は「1分間の黙祷」でスターリンに敬意を表した[25]

脚注[編集]

  1. ^ Medvedev, Zhores A. (2006). The Unknown Stalin. London: I.B. Tauris英語版. p. 6. ISBN 978-1-85043-980-6 
  2. ^ “Announcement of Stalin's Illness and Death”. The Current Digest of the Soviet Press V (6): 24. (1953). 
  3. ^ Volkogonov, D. (1999). Autopsy for an Empire. The Free Press 
  4. ^ Chigirin, I (2018). Stalin, Illness and Death. Moscow: Publisher Veche. ISBN 978-5-4484-0279-1 
  5. ^ Barth, Rolf F.; Brodsky, Sergey V.; Ruzic, Miroljub (2019). “What did Joseph Stalin really die of? A reappraisal of his illness, death, and autopsy findings”. Cardiovascular Pathology 40: 55–58. doi:10.1016/j.carpath.2019.02.003. PMID 30870795. 
  6. ^ Pravda, vol. 66, no. 1264, p. 2, March 7, 1953 (translated by S. Brodsky and M. Ruzic)
  7. ^ Radzinsky, E (1997). Stalin. Anchor Books 
  8. ^ Beria, S (2001). My Father: Inside Stalin's Kremlin. Gerald Duckworth, and Co. Ltd. 
  9. ^ Knight, A (1993). Beria: Stalin's First Lieutenant. Princeton University Press 
  10. ^ Knight, A (1993). Beria: Stalin's First Lieutenant. Princeton, NJ: Princeton University Press 
  11. ^ Beria, S. (2001). My Father: Inside Stalin's Kremlin. Gerald Duckworth & Co. Ltd. 
  12. ^ Ganjushin, Alexander (2013年3月6日). “Joseph Stalin's funeral: how it happened”. Rossiyskaya Gazeta. 2018年1月17日閲覧。 “3月6日、スターリンの遺体を納めた棺が、労働組合会館の円柱の間に安置された。”
  13. ^ The Manhoff Archive: Stalin's Funeral - Part One”. Radio Free Europe/Radio Liberty. 2019年8月17日閲覧。
  14. ^ Ganjushin, Alexander (2013年3月5日). “Russia on the day of Stalin's funeral: A photo look back”. Rossiyskaya Gazeta. 2018年1月17日閲覧。 “3月9日、防腐処理が行われたスターリンの遺体は、レーニン廟に安置され、1953年から1961年にかけてレーニン=スターリン廟の名称に変更された。”
  15. ^ Rosenberg, Jennifer. “Why Did Russia Move Stalin's Body?”. ThoughtCo. https://www.thoughtco.com/body-of-stalin-lenins-tomb-1779977 2017年8月6日閲覧。 
  16. ^ Evtushenko, Evgenii (1963年). “Mourners Crushed at Stalin's Funeral”. Seventeen Moments in Soviet History. 2018年5月5日閲覧。
  17. ^ Khlevniuk, Oleg (2017). Stalin: New Biography of a Dictator. Yale University Press. ISBN 978-0-300-21978-4 
  18. ^ Langewiesche, William (2018-01-09). “The 10-Minute Mecca Stampede That Made History”. Vanity Fair. https://www.vanityfair.com/news/2018/01/the-mecca-stampede-that-made-history-hajj 2020年3月22日閲覧。. 
  19. ^ オレグ・エゴロフ (2019年3月5日). “なぜスターリンの死が多数の市民を死に追いやったか:告別式に際しての大量圧死事件”. ロシア・ビヨンド. https://jp.rbth.com/history/81692-sutarin-no-shi-tairyou-asshi-jiken 2021年4月11日閲覧。 
  20. ^ “Mourning of millions”. Ogoniok 11 (1344). (1953年3月15日) 
  21. ^ Tikka, Juha-Pekka (2017年10月18日). “Kun Josif Stalin kuoli – näin Urho Kekkonen ryntäsi tilaisuuteen” [When Josef Stalin died - Urho Kekkonen rushed to the event] (フィンランド語). Verkkouutiset. 2017年12月10日閲覧。
  22. ^ “Czechoslovakia: Death No. 2”. TIME. (1953年3月23日). http://content.time.com/time/magazine/article/0,9171,806605,00.html 2019年8月17日閲覧。 
  23. ^ Pearson, Owen (2006-09-08). Albania as Dictatorship and Democracy. I.B. Tauris. p. 454. ISBN 978-1-84511-105-2. https://books.google.com/books?id=D4wx7kQp4bgC&q=hoxha+at+stalin%27s+funeral&pg=PA454 
  24. ^ Gleijeses 1992, pp. 141–181.
  25. ^ Gleijeses 1992, pp. 181–379.

参考文献[編集]

関連項目[編集]