ユニオン・パシフィック鉄道

ユニオン・パシフィック鉄道
Union Pacific Railroad

ロゴ

路線地図
路線図(薄紫は使用権を持っている線路)
報告記号 UP
路線範囲 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
シカゴおよびミシシッピ川沿岸から太平洋沿岸までの都市
運行 1862年–
軌間 1,435 mm(標準軌
本社 ネブラスカ州オマハ
ダグラス通り1400
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ユニオン・パシフィック鉄道本社

ユニオン・パシフィック鉄道(ユニオン・パシフィックてつどう、Union Pacific Railroad, UP, NYSE:UNP)は、アメリカ合衆国最大規模の貨物鉄道会社1862年設立。本社はネブラスカ州オマハ2016年現在の社長CEOはLance M.Fritz。

ユニオン・パシフィック鉄道の線路網は、アメリカ合衆国の西部から中部の多くをカバーし、シカゴ西部やニューオーリンズにまで達する。2007年現在、営業範囲は32,205マイル (51,829km) におよび、そのうち26,354マイル (42,413km) は自社所有である。この規模はアメリカ国内での展開する鉄道で最大である。これらの路線は、ミズーリ・パシフィック鉄道 (MP)、シカゴ・アンド・ノース・ウェスタン鉄道 (C&NW)、ウェスタン・パシフィック鉄道 (WP)、ミズーリ・カンザス・テキサス鉄道 (MKT)、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道(DRGW。のちサザン・パシフィック鉄道)などの買収によって成し遂げられた。ほかにも、メキシコ合衆国におけるフェロメックス株を26%保有している(残る74%はグルポ・メヒコが保有)。

競合他社の筆頭としてBNSF鉄道があり、ほぼ同一の地域をカバーしている。ダウ輸送株20種平均の構成銘柄のうち、前身のDow Jones Average時代を含めて、算出開始以降、現在も選出されている唯一の企業である。

歴史[編集]

1862年太平洋鉄道法英語版を受けて、同年7月1日に法人化された。太平洋鉄道法は当時の大統領であったエイブラハム・リンカーンによって承認されたものである。太平洋鉄道法は南北戦争中の連邦の維持の目的で、ミズーリ川から太平洋までを鉄道でつなぐというものであった。

サンフランシスコ湾から東方へ構築されていたセントラル・パシフィック鉄道と接続するために、主要出資者であるトーマス・デュラント英語版の指導のもとでアイオワ州カウンシルブラフスから西へ構築した。路線は内戦時にはアメリカ人労働者から技術を学んでいたアイルランド人労働者の手によって主に構築されていた。ついに2つの路線はユタ州オグデンの西53マイル(約85キロメートル)にあるプロモントリーサミット英語版1869年5月10日に繋がり、北アメリカ最初の大陸横断鉄道となった[1]

ラスト・スパイク(1881年) トーマス・ヒル

その後、UPはモルモン教が敷設した3つの鉄道、即ちユタ・セントラル鉄道ユタ州オグデンからソルトレイクシティへ南下する鉄道)、ユタ・サザン鉄道(ソルトレイクシティからユタ・バレーへ南下する鉄道)、ユタ・ノーザン鉄道(オグデンからアイダホ州に北上する鉄道)を吸収。さらに路線を建設、あるいはローカルな鉄道を吸収しつつ、東はコロラド州デンバー、西はオレゴン州ポートランドを経て太平洋岸北西部へと延伸した。さらに1880年、デンバーとカンザスシティを結ぶカンザス・パシフィック鉄道(KP。この区間の開業によりアメリカ大陸両岸を結ぶ鉄道が全通した)を買収した。

1872年、 クレジット・モビリエ社のスキャンダル (en:Credit Mobilier of America scandal) に巻き込まれ倒産。「ユニオン・パシフィック・レールウェイ」と会社名を改め、1880年1月24日、主要出資者としてジェイ・グールドを戴いて社を更生した。新会社は1893年に再度倒産するも、1897年7月1日に会社名を「ユニオン・パシフィック・レールロード」に戻して再発足している。こうした会社名のマイナーチェンジはアメリカ鉄道会社の倒産後の更生の結果としてはありふれたものだった。その間、UPは資産売却を進め、1870年、UPの中央支店はミズーリ・パシフック鉄道 (MP) のそれとなり、南部支店は新たに組織されたミズーリ・カンザス・テキサス鉄道 (MTK) に譲渡されている。

再生した会社はすぐに業績を回復し、1901年にはサザン・パシフィック鉄道 (SP) の経営権を獲得できるほどに体力があったが、1913年合衆国最高裁判所により経営権を切り離された。最終的には1996年、活動上の思惑からSPを買収した。1980年代には、MPとMKTを再び吸収した。

1936年、UPはアイダホ州サンバレーにリゾートを建設。その夏にはオマハの技術部門が初めてのチェアリフトを設計した。

1948年から1970年代初期にかけて、世界でも類を見ない大規模な編成からなる電気式ガスタービン機関車 (GTELs) を運用した。GTELsは一時、鉄道輸送における10%以上を運んだが、70年代の燃料コストの増大によって使用は停止された。

保有車両[編集]

現有車両[編集]

2007年の年度報告書[2]によれば、UPが運用する車両数は下記のとおりである。車両によっては、UP所有だったものをリース会社に売却し、そこからリースを受けているものもある。

ディーゼル機関車
種別 自社所有 リース車両 合計  平均経年
ロード・スイッチャー 4,330 3,704 8,034 14.8
スイッチャー 488 32 520 30.5
その他 112 55 167 20.6
合計 4,930 3,791 8,721
貨車
種別 自社所有 リース車両 合計  平均経年
ホッパ車(有蓋) 13,864 21,573 35,437 28.8
ホッパ車(無蓋) 13,431 5,216 18,647 28.6
無蓋車 7,639 6,141 13,780 26.6
有蓋車 8,132 4,140 12,272 27.1
冷蔵車 3,309 5,291 8,600 22.3
長物車大物車 3,687 1,149 4,836 30.2
その他 127 585 712
合計 50,189 44,095 94,284

比較用に2014年度報告書に記載されている車両数も併記する[3]。数字は2013年度末のものである。

ディーゼル機関車
種別 自社所有 リース車両 合計  平均経年
ロード・スイッチャー 5,431 2,348 7,779 18.0
スイッチャー 344 14 358 33.9
その他 72 57 129 34.1
合計 5,847 2,419 8,266
貨車
種別 自社所有 リース車両 合計  平均経年
ホッパ車(有蓋) 13,362 14,531 27,893 20.0
ホッパ車(無蓋) 8,271 4,284 12,555 28.1
無蓋車 6,367 4,711 11,078 23.7
有蓋車 3,765 1,400 5,165 28.2
冷蔵車 2,651 4,192 6,843 24.9
長物車大物車 2,690 1,181 3,871 28.9
その他 21 329 350
合計 37,127 30,628 67,755

保存車両[編集]

過去の旅客列車[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 軸配置4-8-4(Four-Eight-Four)であり、製造区分上3次車に当たることから。

出典[編集]

  1. ^ Ceremony at "Wedding of the Rails," May 10, 1869 at Promontory Point, Utah”. World Digital Library (1869年5月10日). 2013年7月21日閲覧。
  2. ^ http://www.up.com/investors/attachments/annuals/2007/annual_report.pdf
  3. ^ http://www.up.com/investors/attachments/secfiling/2014/upc10k_020714.pdf

関連項目[編集]

外部リンク[編集]