モントルー条約

千九百三十六年七月二十日「モントルー」ニ於テ署名セラレタル海峡制度ニ関スル条約
通称・略称 モントルー条約
署名 1936年7月20日
署名場所 スイスの旗 スイス モントルー
発効 1936年11月9日
現況 有効
締約国
寄託者 フランスの旗 フランス共和国政府
文献情報 昭和12年2月26日官報第3043号条約第1号
主な内容 ボスポラス海峡等の通航制度について
関連条約 国連海洋法条約ローザンヌ条約
条文リンク

官報.1937年2月26日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション

英文条文仏文条文
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1936年スイスモントルーで調印された海峡制度に関する条約(かいきょうせいどにかんするじょうやく、: Convention concernant le régime des Détroits: Convention Regarding the Regime of the Straits[1])は、トルコ領内のボスポラス海峡マルマラ海ダーダネルス海峡の通航制度を定めた条約である。通称モントルー条約(モントルーじょうやく、: Montreux Convention)。

概要[編集]

エーゲ海と黒海とトルコの海峡の位置
  • 商船の自由航行の原則(条約第2条)
  • 黒海と地中海の間の航空路の設定(第23条)
  • 海峡を航行する軍艦の制限(条約第2部および付属文書2・3)
    • 平時に隻数の制限の下、小規模な艦船の自由航行が認められている(第10条、14条)ものの、非黒海沿岸国については、排水量15,000トンを超える大きさの軍艦の通行が禁止されている(第14条)。黒海沿岸国については、排水量が10,000トンを超えているか、8インチ(20.3cm)以上の口径の艦砲を搭載する軍艦を主力艦と定義し(付属文書2)、随伴艦は駆逐艦2隻までに限られるが、排水量15,000トンを超える主力艦の通航が認められている(第11条)。トルコ政府は、艦種としての航空母艦を通行禁止としているが[2]、条約では艦種としての空母の明示的な通航禁止規定は無く、むしろ主力艦以外に対する排水量制限により条約に抵触する[3]
    • 1960年アメリカ海軍が直径30.5cmのアスロック対潜ミサイルを搭載させた軍艦を通過させ、これに対しソ連側が抗議した時、トルコ政府は、ミサイルについては規定がないものとする解釈を提示した[4]

経緯[編集]

ボスポラス海峡・マルマラ海・ダーダネルス海峡とその沿岸部は「海峡地帯」と総称され、地中海黒海をつなぐ場所であるため、その通航制度をどうするのかが18世紀に結ばれたキュチュク・カイナルジ条約以来、長く国際問題となっていた。オスマン帝国第一次世界大戦の講和条約であるセーヴル条約で海峡地帯の主権を放棄させられ、海峡地帯は強い権限を持つ「海峡委員会」による国際管理下におかれることとなった。

その後オスマン帝国が倒れ、1923年ローザンヌ条約では新たに成立したトルコ共和国の海峡地帯への主権が確認・回復された。しかし海峡地帯は非武装とされ、またセーヴル条約での海峡委員会ほどの権限は持たなかったが、やはり海峡地帯を監視する組織としての海峡委員会も置かれた。1930年代に入ると、イタリアエーゲ海ドデカネス諸島の軍備を増強したことがトルコの危機感をあおり、海峡地帯沿岸の再武装を要求するようになった。

1936年4月、トルコはローザンヌ条約の締結国に対し条約改正を求める通告を行い、これを受けて1936年6月22日から7月20日にかけてモントルーにおいて海峡の新通航制度を定めるための国際会議が開かれた。こうしてローザンヌ条約で定められた通航制度を改定し、トルコの再武装要求を認めるモントルー条約が結ばれた。またモントルー条約の締結と同時にローザンヌ条約の通航制度に関する部分は失効した。

トルコの態度[編集]

第二次世界大戦後の国際法の取扱いでは、自然に出来た海峡等を航行する艦船に対し、海峡に面する国は制限を加えることができないという概念が成立しており、かかる慣習は国連海洋法条約第3部に法典化されている。ボスポラス海峡等も同条約上の国際海峡に該当し、通過通航権の行使として軍艦等も含めた自由航行ができてしかるべき考えに至るが、トルコ政府は、ボスポラス海峡等は海洋法条約第35条(c)[5]により通過通航権の対象外となる旨主張して、一貫してモントルー条約の緩和には否定的な態度を取っている。

これは、トルコにとっては一度喪失した主権を長年の交渉で自国に有利な形で取り戻したという経緯から、緩和することで再び海峡地帯に他国が干渉してくることへの警戒感があること。海峡が地政学上の要衝であり、東西冷戦時には海峡の出入り口付近に米ソの艦艇が対峙し、一触即発状態にあったこと。また、1980年代以降、タンカーなどの船舶の大型化と航行量が急増したことにより海難事故が頻発、海峡の過密化が深刻な問題となっているからである。

特に、冷戦終結後は後者が問題となっている。海峡に面した大都市イスタンブール近辺で、海難事故に起因するアンモニア流出事故が発生[いつ?]。風向きによっては、甚大な人的被害が発生してもおかしくない大事故となった。このためトルコ政府は、有害物質を積載した船舶の航行に非常に神経質となっており、自国法により廃棄物等を載せた船舶の航行を制限するなど、むしろ強化を図りたい意向を持っていると推測される。

本来海峡の空母通過は認められていないが、ウクライナ空母ヴァリャーグが中国へ回航される際には、中国側がトルコへの観光客増加を約束するという政治的折衝で妥協し通過を許可した。

2022年2月のロシアのウクライナ侵攻を機に、黒海の沿岸国かどうかを問わず、すべての国に対して軍艦の海峡通過を認めないとする通告をトルコ政府は2月28日に発表した。ただし、条約により沿岸国の船舶が母港に寄港することは例外的に認められているとしている。また、戦争の当事国であるか否か、また黒海沿岸国であるか否かを問わず適用されるとしている[6]

締結国[編集]

条約締結当初の締結国は、トルコ・ソ連ルーマニアブルガリアといった黒海沿岸の諸国のほか、イギリスフランスギリシアユーゴスラヴィア日本の合計9カ国であった。ローザンヌ条約の締結国であったイタリアは条約の改定に否定的な態度を取っていたこともあり、当初モントルー条約に参加していなかったが、1938年になって加入した。後にキプロスウクライナ承継により当事国となっている。

締約国以外に属する船舶についても実態上はモントルー条約の規定の範囲内で通航が認められている[7]

日本の立場[編集]

一見海峡地帯への直接的利害が少ないと思われる日本がモントルー条約に名を連ねているのは、ローザンヌ条約による海峡委員会が設置された際、国際連盟の常任理事国として日本も海峡委員会に委員を出したことと関係している。モントルー条約が結ばれた1936年には日本は既に国際連盟を脱退していたが、脱退後も引き続き海峡委員会のメンバーであったため、モントルー条約にも締結国として名を連ねることとなった。

条約の素案の段階では、トルコが軍艦の海峡通過について定期的に連盟事務局に通告する内容であったが、日本は通過するごとに締結各国に通知することなどを要求して認めさせた。この要求は、日本にとってソビエト連邦の黒海艦隊の動静をチェックできるという有意義なものとなった[8]

日本はモントルー条約中の国際連盟規約に関する条項に関しては留保した上で批准した。その後サンフランシスコ平和条約の発効に伴い、日本は本条約上の一切の権利および利益を放棄することとなった(同条約8条(b))。

脚注[編集]

  1. ^ 題名は後述のローザンヌ条約の一部を成す条約と同一である。
  2. ^ Implementation of the Montreux Convention”. Republic of Turkey Ministry of Foreign Affairs. 2013年7月20日閲覧。 “Aircraft carriers whether belonging to riparian states or not, can in no way pass through the Turkish Straits.”
  3. ^ Miller, David V.; Hine, Jr., Jonathan T. (31 January 1990). Soviet Carriers in the Turkish Straits. Newport, Rhode Island: Naval War College. https://apps.dtic.mil/dtic/tr/fulltext/u2/a219829.pdf 2020年11月20日閲覧。 
  4. ^ Bing Bing Jia, The Regime of Straits in International Law, p. 112. Oxford University Press, 1998. ISBN 0-19-826556-5
  5. ^ 「特にある海峡について定める国際条約であって長い間存在し現に効力を有しているものがその海峡の通航を全面的又は部分的に規制している法制度」。
  6. ^ トルコ、黒海に続く海峡の軍艦通行を認めず 各国に警告”. CNN.co.jp (2022年3月1日). 2022年3月2日閲覧。
  7. ^ トルコ海峡の航行安全に係る負担分担について” (PDF) (2003年11月2日). 2008年4月25日閲覧。
  8. ^ 非連盟国・日本の要求を全面的に承認『大阪毎日新聞』昭和11年7月19日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p710 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]