ムハンマド・ジア=ウル=ハク

ムハンマド・ジア=ウル=ハク
محمد ضياء الحق

1982年12月7日、アメリカを訪問したジア(切り取られているが、隣にはロナルド・レーガンがいる)

任期 1978年9月16日1988年8月17日
首相 ムハンマド・ハーン・ジュネホ

出生 1924年8月12日
イギリス領インド帝国の旗 イギリス領インド帝国ジャランダル
死去 (1988-08-17) 1988年8月17日(64歳没)
パキスタンの旗 パキスタンパンジャーブ州バハーワルプル
出身校 デリー大学セントスティーブンスカレッジ
王立インド陸軍士官学校
アメリカ陸軍指揮幕僚大学
配偶者 ベグム・シャフィーク・ジア
子女 ムハンマド・イヤズ・ウル・ハク
ムハンマド・アンワル・ウル・ハク
ルビナ・サリーム
ザイン・ジア
クラトゥラン・ジア
所属組織  英印軍
 パキスタン陸軍
軍歴 1943年 - 1947年(英印軍)
1947年 - 1988年(パ軍)
最終階級 陸軍大将
指揮 パキスタン陸軍参謀総長
第1機甲師団師団長
戦闘 第二次世界大戦
第一次印パ戦争
第二次印パ戦争
第三次印パ戦争
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ムハンマド・ジア=ウル=ハクウルドゥー語: محمد ضياء الحق‎、:Muhammad Zia-ul-Haq、1924年8月12日 - 1988年8月17日)は、パキスタン軍人政治家。第6代大統領クーデター軍事政権を樹立した独裁者であり、大統領在任中は核開発イスラム化と経済の自由化を推し進め、核拡散やソ連のアフガニスタン侵攻に対するムジャーヒディーンの支援に直接関与した。その後、政治が不安定化する中で事故死した。名前について一部専門家や一部団体は、「ズィヤーウル・ハック」との表記を用いている[1][2]

ジアは10年以上にわたってパキスタンの政治を支配しており、蔓延する個人崇拝の対象となっていた。彼のソ連に対する代理戦争は、予想されていたソ連のパキスタン侵攻を阻止したと信じられている。彼の非世俗化への取り組みと西洋文化への反対はイスラム主義者から賞賛されている。ジアを中傷する人々は、彼の権威主義報道検閲宗教的不寛容と称されるもの、そしてパキスタンにおける民主主義の弱体化を批判している。

生い立ちと軍歴[編集]

イギリス支配下のインドに、英印軍総指令部に勤めるムハンマド・アクバルの子として生まれた。シムラーデリーで教育を受けた。1943年英印軍に入り第二次世界大戦に従軍した。パキスタン独立パキスタン軍に入り、少将となる。1962年から1964年までアメリカ合衆国陸軍で学び、帰国後士官学校教官となる。1965年の第二次印パ戦争では戦車隊の司令官となった。1967年から1970年まで(黒い九月事件(ヨルダン内戦)当時)ヨルダンに派遣されてヨルダン軍を訓練した。1973年、ムルターンの第1機甲師団司令官。1975年中将に昇進した。

1976年にはズルフィカール・アリー・ブットー首相により、先任の将軍たちを飛び越して陸軍参謀長に抜擢された。

クーデター[編集]

当時ブットー首相は失政批判にさらされ、与党パキスタン人民党(PPP)内にまで批判が増していった。党内の対立者アフマド・ラザー・カスーリー英語版が狙撃され父が死亡する事件が起こり、ブットーが指図したのではないかと疑われた。また北西辺境州バローチスターン州の混乱収拾のために派遣された軍隊が虐殺を行ったと非難された。1977年の選挙では与党が勝ったが、不正があったと訴えられ、混乱はさらに増した。イスラム教指導者たちもブットー退陣を主張した。

この中で1977年7月5日、ハク配下の軍隊がクーデターを決行し、無血のうちに成功した。ブットーと閣僚たちは逮捕された。戒厳令が敷かれてハクが戒厳司令官となり、国会を解散し憲法を停止した。選挙のやり直しを約束したが、結局は無期限延期された。一部政治家は不正の疑いで政治活動を禁止された。

ブットー夫人らはクーデターが無効であるとして訴えたが、最高裁判所は「当時の政治的混乱では必要な措置であった」として合法とした。

ブットー政権崩壊後もファザル・イラーヒー・チョードリー英語版大統領は職に留まったが、任期満了により1978年9月16日辞任した。後を継いでハクが大統領に就任した。その後7年にわたり彼は憲法に代わる大統領令を度々出して大統領権限を強化した。

1979年4月4日、ブットーは暗殺の罪により最高裁判所から有罪判決を受け、処刑された。これは現在では政治主導の判決といわれている。

大統領として[編集]

ハクは大統領としてまずバローチスターン州の分離主義運動に直面したが、封建的軍閥を経済援助などで懐柔した。また軍の有力者ラヒームッディーン・ハーン英語版将軍をバローチスターン州の戒厳司令官に任じ、ラヒームッディーンの政策により封建支配階級は政治から完全に切り離されることになった。

ハク政権下ではブットー時代の国有化政策は次第に撤回され、パキスタン経済の自由化英語版が成功し、1977年から1986年の国民総生産は平均6.2%という世界的にも高い経済成長率を記録した[3]

ハクは1980年、国会に代わり大統領諮問機関、マジュリセ・シューラー(Majlis-e-Shoora:上院)を設置することにした。メンバーは全員が大統領により指名された。

イスラム化[編集]

ハク政権はそれまでのイギリス的法体系に代わり、シャリーア(イスラム法)体系を導入していった。まず1979年、シャリーア法廷を設置した。さらに右手の切除、石打ち死刑などの刑罰が導入された。1980年代にも刑法の改訂が数回行われ、イスラムに関する不敬や、異端派アフマディーヤがムスリムと自称することなどが禁じられた。またハク自身はシーア派に対しても敵対的と見られていた。

1984年には国民投票を実施し、ハク大統領およびイスラム法の導入に対する賛否を問うた。結果は95%以上が彼を支持した。さらにアフマディーヤの活動を禁止する命令を出した。アフマディーヤは既に1974年、イスラム教ではないとされていたが、これにより国内の活動が禁止され、4代カリフのミルザー・ターヒル・アフマドがイギリスへ移ったのを始め、信者多数が西側諸国へ亡命を余儀なくされた。現在でもこの法令は解除されていない。

ハクは経済にもイスラム化を進めた。1979年に一部金融機関にイスラム金融制度を導入、1981年には国営銀行の利子を廃止した。さらに1985年には利子を全廃した。

ソ連・アフガン戦争[編集]

1979年12月25日ソビエト連邦軍がアフガニスタンに進攻し、パキスタン領内にも難民が流入した。閣内には反対もあったが、ハクはソ連の脅威に対抗するためとして、ソ連と対立していた友好国の中華人民共和国の協力[4][5]も得ながらアフガニスタンの義勇兵ムジャーヒディーンへの資金・軍事援助に踏み切った。反ソ連を旗印とするハクの国際的地位は急上昇した。サイクロン作戦を開始したアメリカのカーター政権はそれまで核問題により凍結していたパキスタン援助を開始することとした。また3億ドルの援助をパキスタンに申し出たが、ハクはこれを少なすぎると拒絶した。次のレーガン政権ははるかに積極的で、パキスタンは6年で32億ドルの援助をとりつけ、F-16ジェット戦闘機も供与された。レーガンは新たな共産主義ブロックの出現を恐れ、パキスタンがアメリカの代理として戦うことを要請した。パキスタン軍統合情報局(ISI)はアメリカ中央情報局(CIA)や陸軍諜報機関と協力してソ連に立ち向かうこととなった。

初めアフガニスタンの制空権はソ連に握られていたが、1986年にムジャーヒディーンがスティンガーミサイルを手に入れてから状況は次第に逆転した。ソ連軍は1988年ついに撤退した。

この戦争によりパキスタン国内には大量の武器が残った。また麻薬取引が盛んになり、抵抗組織の一部が麻薬組織に変わることになった。1990年代初めにはムジャーヒディーンがターリバーンアルカーイダに形を変える。これらはハク政権のイスラム化政策ともあいまって、1990年代以降イスラム原理主義がパキスタン国内に広がる素地となった。

核兵器開発[編集]

パキスタンの核兵器開発計画はインドを恐れたブットーが始めたものであるが、ハク政権はより積極的に推し進め、さらに核拡散を行うことでパキスタンに対する国際社会の注目を避けるという戦略も考えた[6]。核開発計画の責任者アブドゥル・カディール・カーン博士を中華人民共和国に派遣して技術援助を受け[6][7]、ウラン濃縮施設もハクによりカーン研究所と改称された。カーンはその後も20年以上この仕事に携わり、1998年には初の核実験を行うことになる。

民政復活[編集]

1985年には政党によらない選挙を実施した。対立政党のほとんどは選挙のボイコットを決めたが、当選者の多くが実際は何らかの政党に属す結果となった。彼はその中から、当時はハクの言いなりになる人物といわれたムハンマド・ハーン・ジュネージョー英語版を首相に指名した。さらに戒厳令は解除され、形式的には民政が復活したが、まだ軍人主導の政治体制であった。

自由化を主張する声は次第に高まり、1988年になるとハク大統領と批判的になったジュネージョー首相の関係も険悪になった。5月29日、国会は解散され、11年ぶりの普通選挙が約束された。ジュネージョー首相は解任されたが、表向きの理由はジュネージョー内閣がイスラム化を渋ったためとされる。6月18日ハクはイスラム法の完全導入を宣言した。

ブットーの娘ベーナズィール・ブットーはすでに1986年帰国していたが、急激に人気を集め、またソ連の撤退により援助も減ったことから、ハクの政治的立場は苦しくなった。

このような状況の中、ハクは1988年8月17日、飛行機墜落事故で急死した。パンジャーブ州バハーワルプルで軍のパレードに参加した後、アメリカ合衆国大使らとともに空軍のC-130ハーキュリーズ(シリアルナンバー23494、1962年製造)[8]に搭乗し離陸した直後墜落し、全員が死亡したものである。当時は暗殺説もささやかれたが、飛行機の故障によるとされる。

次の大統領となったグラーム・イスハーク・ハーン英語版が死去を公式発表し、8月19日イスラマバードで葬儀が行われ、ファイサル・モスクに埋葬された。

ハクの2人の息子は政界に入り、その一人ムハンマド・イージャーズ=ウル=ハクはナワーズ・シャリーフ政権の閣僚となっている。

脚注[編集]

  1. ^ 山根聡. “南アジア・イスラーム研究の意義と展望” (PDF). 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科. 2012年10月31日閲覧。
  2. ^ 財団法人 日本・パキスタン協会略史”. 日本・パキスタン協会. 2012年10月31日閲覧。
  3. ^ "Setting the record straight: Not all dictators equal, nor all democrats incompetent". The Express Tribune. 20 May 2012.
  4. ^ Shichor. pp157–158.
  5. ^ S. Frederick Starr (2004). Xinjiang: China's Muslim Borderland (illustrated ed.). M.E. Sharpe. p. 158. ISBN 0-7656-1318-2. Retrieved May 22, 2012.
  6. ^ a b Rahman, Shahidur (1999). Long Road to Chagai§ The General and the Atomic Toy. Oxford, Islamabad, and New York: Printwise Publications. pp. 135–144. ISBN 978-969-8500-00-9.
  7. ^ 『戦後70年に向けて・核回廊を歩く:パキスタン編/16 イスラエルの脅威』毎日新聞東京朝刊2014年08月26日
  8. ^ Aviation Safety Networkの事故概要

外部リンク[編集]

公職
先代
ファザル・イラーヒー・チョードリー英語版
パキスタンの旗 パキスタン・イスラム共和国大統領
第6代:1978 - 1988
次代
グラーム・イスハーク・ハーン英語版
軍職
先代
ティッカー・カーン英語版
パキスタン陸軍旗 パキスタン陸軍参謀総長
第8代:1976 - 1988
次代
ミルザー・アスラム・ベーグ英語版