ミャンマー軍

ミャンマー軍
တပ်မတော်
派生組織 ミャンマー陸軍
ミャンマー海軍
ミャンマー空軍
ミャンマー警察軍
指揮官
総司令官 上級大将 ミン・アウン・フライン
国防大臣 中将 セイン・ウィン英語版[1]
参謀長 次級大将 Soe Win
総人員
兵役適齢 16歳~49歳
徴兵制度 あり
適用年齢 18歳~35歳
現総人員 406,000
財政
予算 21億ドル(2017年推定)[2]
軍費/GDP 3.15%(IMF推定の2017-2018年の名目GDPに対する比率)[2]
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ミャンマー軍(ミャンマーぐん、ビルマ語: တပ်မတော်、慣用ラテン文字表記: Tatmadaw、ALA-LC翻字法: tapʻ ma toʻ、IPA: [taʔmədɔ̀] タッマドー)は、ミャンマー(ビルマ)の国軍

国防省英語版の統括の下、ミャンマー陸軍ミャンマー海軍英語版ミャンマー空軍英語版からなり、総兵力は陸軍(37.5万人)、海軍(1.6万人)、空軍(1.5万人)合わせて40.6万人と言われている[2]。有事の際にはミャンマー警察軍や種々の民兵組織(ピューソーティー民兵)、国境警備隊を含めることもある。ASEANの国々の中では、ベトナム人民軍に次ぐ兵力を誇る。陸軍中心で海軍・空軍の地位が低いというのが、国軍の特徴である。

国内に民族紛争を抱える事情から、対ゲリラ戦及び山岳戦を主任務とした軽歩兵部隊を主力としている。また、旧東西両陣営と距離を置き、1962年の軍事クーデター以降はいかなる軍事同盟も結ばなかったため、外国から大規模な軍事援助も行われておらず(わずかに米国から対麻薬作戦用として限定量の装備が供与された)、長年、軍備は貧相なものだった。しかし、1990年代以降は、中華人民共和国や旧東側諸国ウクライナセルビアなど)、インドイスラエル北朝鮮等から主力戦車歩兵戦闘車自走砲地対空ミサイルなどを新旧問わず大量購入し、機甲部隊機械化歩兵部隊を新設して増強している。

同国では独立直後から少数民族の独立闘争やビルマ共産党(CPB)の反乱、さらに国共内戦に敗れた中華民国軍の侵入があり、一時は国家崩壊の危機に陥ったが、国軍の反転攻勢によって平野部では1960年代に支配権を回復した。以降、少数民族武装勢力や共産党の武装組織は山岳地帯を根拠地として闘争を継続、国軍も各少数民族地域に完全な支配権を確立するほどの決定力を持っておらず、膠着状態が続いた。しかし1990年代に入り、諸事情により少数民族武装勢力が弱体化。1990年代から2010年代にかけて国軍と各少数民族武装勢力との停戦合意が相次いだ。しかし2021年クーデター後は再び戦闘が活発化している。

名称

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「タッマドー(Tatmadaw)」という名称は、ミャンマー語で「王立軍」を意味する。現在、ミャンマーには王室はないため、「栄光」という意味と解されている。2021年のクーデター以降、この名称は国民の間では使用を控えられており、一般には単に「軍」を意味する「シッタ(Sit-Tat)」という言葉が使われている[3]。日本の報道では「ミャンマー軍」「ミャンマー国軍」あるいは単に「国軍」と呼ばれることが多い。

歴史

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ビルマ王朝時代

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9世紀から19世紀までのビルマ王朝の軍隊を王立軍という。王立軍とは、時系列順にパガン王朝アヴァ王朝タウングー王朝コンバウン王朝の軍隊を指す。19世紀にイギリスに60年かけて敗れるまでの間、王立軍は東南アジアでも有数の軍隊であった。

王立軍は首都と宮殿を守る数千人規模の独立部隊と、より大規模な徴兵による戦時軍に分かれて組織される。徴兵は、戦時には地域の首長に管轄区域内の人口に基づき予め決められた数の兵を提供させる「ahmudan制」を基盤としていた。また戦時郡には戦象兵騎兵砲兵水軍の部隊も含まれた。

火器は14世紀に中国から初めて導入され、何百年もかけて徐々に戦略へ取り入れられるようになっていった。ポルトガル製の火縄銃と大砲を装備した最初の特別部隊は16世紀に編成された。この特別火器部隊を除けば、通常の徴募兵に対する正式な訓練はなく、彼ら徴募兵は自衛のための基礎知識と、自前の火縄銃の操作習熟を期待されているだけであった。18世紀になって欧州列強との技術の差が大きくなるにつれ、軍は欧州から売り込まれる、より洗練された武器に依存するようになっていった。

王立軍は隣国の軍隊に対する防衛力は保っていたが、より技術的に進んだ欧州の軍隊への対抗力は劣化していった。 王立軍は、17世紀と18世紀にそれぞれ侵入したポルトガルとフランスを撃退したものの、19世紀に侵入した大英帝国の軍事力には及ばず、第1次第2第3次英緬戦争に敗れた。1886年1月1日、ビルマ王立軍はイギリス政府によって正式に解散された。

英領ビルマ(1885~1942)

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イギリス統治下のビルマでは、ビルマ植民地政府は、ビルマ人兵士を東インド会社の軍隊(そして後の英領インド陸軍)に採用することは避け、代わりに既存のインド人のセポイとネパール人のグルカ兵に新たな植民地へ駐屯させた。 ビルマ人に対する不信感から、植民地政府はこの禁令を何十年も維持し、代わりに先住民のカレン族カチン族チン族によりに新しい植民地軍を編成することを模索した。 1937年、植民地政府は禁令を取りやめ、ビルマ兵も英領インド陸軍に少数で入隊させるようになった[4]

第一次世界大戦の勃発時、英領インド陸軍で唯一のビルマ連隊である第70ビルマライフル連隊は、カレン族、カチン族、チン族より成る3個大隊で構成されていた。戦争中、戦時の要請により、植民地政府は禁令を緩和し、第70ビルマライフル連隊にビルマ大隊を、第85ビルマライフルにビルマ中隊を、および7個ビルマ機械化輜重中隊を編成した。更に、ビルマ人を中心とした「ビルマ工兵(Burma Sappers and Miners)」(戦闘工兵)3個中隊と、チン族とビルマ人による労働兵団(Royal Pioneer Corps)1個中隊も編成された。これらの部隊はすべて1917年に海外任務を開始した。第70ビルマライフルが警備任務のためにエジプトで勤務する一方、ビルマ労働兵団はフランスで勤務した。ビルマ工兵の1個中隊は、メソポタミアのティグリス川の渡河で際立った働きを見せた[5] [6]

第一次世界大戦が終わると、植民地政府はビルマ人兵士を雇うのをやめ、1個中隊だけ残して他は全て解散させ、残した中隊も1925年までで廃止された。ビルマ工兵の最後のビルマ中隊も1929年に解散した[5]

代わりに、インドの兵士やその他の少数民族がビルマにおける植民地軍の主力として用いられ、その植民地軍が1930年から1931年にかけてサヤー・サンが率いたようなビルマ民族の反乱を鎮圧するために用いられた。1937年4月1日、ビルマは分離された植民地(イギリス連邦内の自治領)となり 、ビルマ人にも軍隊に加わる資格が与えられたが、ビルマ人はほとんど入隊しなかった。 第二次世界大戦が始まる前、イギリス統治下のビルマ軍は、イギリス人の将校団を除くと、カレン族(27.8%)、チン族(22.6%)、カチン族(22.9%)、ビルマ人12.3%で構成されていた[7]

日本占領期

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1941年12月、大日本帝国の助力を得て、 30人の同志ビルマ独立義勇軍 (BIA)を創設した。ビルマ独立義勇軍はアウンサン(アウンサンスーチーの父)が率い、大日本帝国陸軍側に立ってビルマの戦いに参戦した。多くの若者がその部隊に加わり、信頼できる推定によればその数は15,000人から23,000人の範囲とされている。新兵の大部分はビルマ人であったが、少数民族はほとんどいなかった。新兵の多くは規律に欠けていた。エーヤワディー川デルタ地域のミャウンミャではBIAのビルマ人兵とカレン族の間で民族紛争が勃発し、双方が虐殺行為に及んだ。BIAはすぐにビルマ防衛軍に置き換えられ、1942年8月26日に3千人のBIA古参兵により設立された。ビルマが名目上の独立を達成した1943年8月1日、軍はネウィンを指揮官とするビルマ国民軍となった。1944年後半には、約15,000人の兵力があった[8]。その後、ビルマ国民軍は、形勢が不利となった日本との関係を断ち切るために、1945年3月27日に連合軍側に加わった。

独立後

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1945年9月のキャンディ会議で得られた合意に従い、英領ビルマ軍とビルマ愛国軍を統合してミャンマー軍(以下、国軍)が編成された。その将校団は、ビルマ愛国軍の将校、英領ビルマ軍の将校、およびビルマ予備軍(ABRO)の将校たちであった。また、植民地政府は、民族的背景に基づいた「クラス大隊」というものの創設を決めた。独立当時は合計15個ライフル大隊があり、そのうち4個はビルマ愛国軍出身者で構成されていた。しかし、元ビルマ愛国軍の将校は、軍務局(War Office)や司令部内の影響力のある役職には全く任命されず、工兵、補給、輸送、兵器、衛生、海軍、空軍を含む全ての兵科は、ビルマ予備軍と英領ビルマ軍の元将校によって指揮されていた[要出典]。1948年のミャンマー独立時、国軍は弱小で結束も弱く、民族的背景、政治的背景、組織の由来、兵科の違いによって亀裂が生じていた。中でも最も深刻な問題は、英領ビルマ軍からのカレン族将校とビルマ愛国軍(PBF)から来たビルマ族将校の間の緊張であった。[要出典]

独立の英雄として名高いアウンサン以下いわゆる”30人の同志”が、現在の国軍の礎を築いたと思われがちだが、新生国軍に残ったのはネウィン、チョーゾー(Kyaw Zaw)、ボー・バラ(Bo Bala)の3人だけで、そのチョーゾーにしても1957年に失脚後、ビルマ共産党(CPB)に参加しており、残りのメンバーも多くがその後反政府運動に転じている。ボー・ラ・ヤウン(Bo La Yaung )とボー・タヤ(Bo Taya)はPVOの反乱に参加、ボー・ゼヤ(Bo Zeya)、ボー・イェトゥット(Bo Ye Htut)、ボー・ヤン・アウン(Bo Yan Aung)はCPBに参加、ボー・レット・ヤー(Bo Let Ya)、ボー・ヤン・ナイン、ボー・ムー・アウン(Bo Hmu Aung)、ボー・セキャ(Bo Setkya)はウー・ヌがタイ国境で結成した反政府武装組織・議会制民主主義党(PDP)に参加した。1988年民主化運動の際には30人の同志の生き残り11人のうち9人がネウィンを糾弾し、デモへの参加を呼びかけた。このようにアウンサンスーチーが「父の軍隊」と呼んだ国軍は、アウンサンが率いた国軍とはまったく異質なものだった[9]

またネウィン率いる第4ビルマ・ライフル部隊には社会主義者が多く、”社会主義部隊”と呼ばれていたが、1948年から1950年にかけての反乱・離反鎮圧の際にもほぼ唯一無傷で残った部隊となり、国軍の中核となっただけでなく、1962年にクーデターで成立したネウィン軍事独裁政権でも件の部隊出身者が要職を占め、ミャンマーの歴史に大きな影響を及ぼした。軍事独裁政権の最高権力機関・革命評議会は”第4ビルマ・ライフル部隊政権”と呼ばれたほどである。革命評議会No.2だったアウンジー、ネウィンの片腕だったティンペ(Tin Pe)、チャウソー(Kyaw Soe)、1988年民主化運動の最中17日間だけ大統領を務めたセインルイン(Sein Lwin)、1976年から1985年まで陸軍参謀総長、1976年から1988年まで国防相を務めたチョーティン(Kyaw Htin)、1988年にビルマ社会主義計画党(BSPP)から改名した国民統一党(NUP)初代党首・ウー・タギャウ(U Tha Gyaw)、ネウィンの専用コックで、強大な権力を有したラジュー(Raju)というインド人、皆、第4ビルマ・ライフル部隊出身である[9]

1948年のミャンマー軍の民族系統と部隊構成[10]
大隊 民族 / 軍隊構成
第1 ビルマライフル ビルマ族 (軍事警察 +アウンサンのビルマ愛国軍と連携したタウングーゲリラ集団の構成員
第2ビルマライフル 2個カレン族中隊+1個チン族中隊+1個カチン族中隊
第3ビルマライフル ビルマ族 / 元ビルマ愛国軍 – 指揮官チョーゾー(Kyaw Zaw )少佐BC-3504
第4ビルマライフル ビルマ族 / 元ビルマ愛国軍 – 指揮官ネウィン(Ne Win)中佐 BC-3502
第5ビルマライフル ビルマ族 / 元ビルマ愛国軍 – 指揮官ゼヤ(Zeya)中佐BC-3503
第6ビルマライフル 1947年後半にアウンサンが暗殺された後に編成された。ビルマ族 / 元ビルマ愛国軍 – 初代指揮官はゼヤ(Zeya)中佐
第1 カレンライフル カレン族 / 元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第2カレンライフル カレン族 /元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第3カレンライフル カレン族 /元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第1カチンライフル チンポー族 /元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第2カチンライフル カチン族 /元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第1チンライフル チン族 /元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第2チンライフル チン族/元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第4 ビルマ連隊 ビルマグルカ
チン丘陵大隊 チン族
軍務局の参謀と指揮官の配置(1948)[11]
官職 氏名と階級 民族
総参謀長 中将スミス・ドン( Smith Dun) BC 5106 カレン族
陸軍参謀長 准将Saw Kyar Doe BC 5107 カレン族
空軍参謀長 中佐 Saw Shi Sho BAF-1020 カレン族
海軍参謀長 中佐 Khin Maung Bo ビルマ族
北ビルマ地区司令官 准将ネウィン( Ne Win) BC 3502 ビルマ族
南ビルマ地区司令官 准将Aung Thin BC 5015 ビルマ族
第1歩兵師団長 准将Saw Chit Khin カレン族
軍政総監 中佐 Kyaw Win ビルマ族
法務総監 大佐 Maung Maung BC 4034 ビルマ族
主計総監 中佐Saw Donny カレン族

歴代国軍総司令官 [12]

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氏名 在任期間 前職 後職 備考
アウンサン少将 1945年 - 1947年7月19日
ボー・レッ・ヤ英語版准将 1947年 - 1948年
スミス・ドン英語版中将 1948年1月4日 - 1949年1月31日 カレン族
ネ・ウィン大将 1949年2月1日 - 1972年4月20日
サン・ユ大将 1972年4月20日 - 1974年3月1日 1981年大統領
ティン・ウ英語版大将 1974年3月1日 - 1976年3月6日 ビルマ国防次官兼参謀次長 陸軍参謀長 国民民主連盟副議長
チョー・ティン英語版大将 1976年3月6日 - 1985年11月3日
ソウマウン上級大将 1985年11月4日 - 1992年4月22日 参謀次長
タンシュエ上級大将 1992年4月22日 - 2011年3月30日 参謀次長 退役
ミンアウンフライン上級大将 2011年3月30日 - 陸海空軍統合参謀長 2021年のクーデターで三権を掌握

軍事ドクトリン

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独立初期の内戦時代(1948年~1958年)

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最初の軍事ドクトリンは1950年代前半に策定された。当時は国内の少数民族武装勢力の反乱が喫緊の課題だったのに関わらず、意外にもそれは、建国されたばかりの中華人民共和国を仮想敵とした外国勢力対策重視のものだった。策定者は、後に8888民主化運動の際にBSP議長となるマウンマウンだったが、彼の強烈な反共主義と向上心が反映された格好である。

そしてその内容は、大規模師団、装甲旅団、戦車、機動戦による正規戦にもとづく防衛計画で、朝鮮戦争時に行われた国連軍の警察活動を想定して、国連軍の到着を待つ間、侵略勢力を国境地帯に2、3ヶ月封じこめるというものだった。しかしこれを実現するためには、適切な後方支援・訓練体制、豊富な経済的・技術的資源、効率的な民間防衛組織が不可欠で、当時の国軍にはそのすべが欠けていた。1953年2月、シャン州に居座った中国国民党軍に対するナーガー・ナイン(勝利の龍)作戦で、初めてこのドクトリンが試されたが、結果は、不利な地形と資源不足が相まり、国軍にとって屈辱的な完敗に終わった。しかしその後、1950年代後半の反国民党作戦で一定の成功を収めたとされている。

この最初の軍事ドクトリンは、各反乱軍を国境地帯に追いやり、戦闘形態が正規戦からゲリラ戦へ移行するにつれ、次第に不適当なものになっていった[13]

ビルマ社会主義計画党(BSPP)時代(1958年~1988年)

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1950年代後半、国軍は、カレン民族防衛機構(KNDO)が中国国民党に兵器の提供を要請したり、CPBが中国共産党の指示を受けているという情報を入手しており、国内の反乱を鎮圧しない限り、外国の侵略を受けるという危機感を抱いていた。そのため新しい軍事ドクトリンの中核は、国内の反乱対策となった。そのために国軍は、国民の総力を結集したゲリラ戦略を取る「人民戦争理論」の採用した。

1964年7月、後に首相を務めたトゥンティン(Tun Tin)率いる調査団が、スイス、ユーゴスラビア、チェコスロバキア、東ドイツに派遣され、人民戦争に関する調査を行い、同様に近隣諸国に調査団が派遣された。この頃、毛沢東の一連の著作や林彪の『人民戦争』、チェ・ゲバラの『ゲリラ戦争』が将校たちの間で広く読まれたのだという。結果、人民戦争を遂行するためには、平時に約100万人の正規軍、非常時にさらに約500万人の民兵を動員する能力が必要とされ、そのための人材育成機関の設立や2年間の兵役義務化が提言された。しかし国内の反乱を鎮圧する前に大量の民兵動員を行うことは、むしろ有害という認識が国軍内で広まり、結局、この大量動員は実現しなかった。

それでも1965年までに人民戦争理論は国軍の正式ドクトリンとして受け入れられ、各種国軍系出版物を通して人口に膾炙し、1971年のBSPP第1回党大会で正式に承認された。また人民戦争理論は国内反乱対策においても有効とされ、各地で民兵グループが結成され、まだノウハウは確立していなかったものの、CPBなど国内の反政府武装勢力との戦闘で人民戦争理論にもとづく作戦が実行され、成功を収めたとされた。

一方、人民戦争を成功させるための国内の反政府武装勢力対策としては、山岳部に追いやられた各武装勢力がゲリラ戦に転じたことにより、国軍も偵察、待ち伏せ、夜間戦などの対ゲリラ戦術が導入し、武装勢力の幹部の逮捕・拘束、正確な情報、敵軍の殲滅(占領ではなく)、小隊レベルの戦術的独立性が重要視された。そしてこれを遂行するためには、人民戦争理論と同様に、政治、社会、経済、軍事、公共管理という”5つの柱”を総動員することが不可欠とされ、そのためには国民との支持と協力が重要ということで、兵士の規律の改善が強調された。1968年には、後に首相を務めたトゥンテインがイギリス留学から持ち帰った戦略を元に四断作戦(four cuts)が策定された[14]。これは、反政府勢力の食糧・資金・情報・徴兵を絶ったうえで、根拠地を攻撃するというものである[15]。国内反乱対策の優先順位は、まずエーヤワディーデルタ地帯を確保して強化した後、国境地帯に拠点を持つ武装勢力に攻撃を仕かけるというというものだった。

国内反乱対策の優先順位は、まずイラワジ・デルタ地帯を確保して強化した後、国境地帯に拠点を持つ武装勢力に攻撃を仕かけるというというものだった。またミャンマー中部・南部の戦闘では四断作戦が取られたが、シャン州北部での戦闘では正規戦とゲリラ戦が併用され[16]た。

SLORC/SPDC時代(1988年~2010年)

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8888民主化運動を経験した国軍は、民主派や少数民族武装勢力が外国勢力と結びつくのを恐れ、軍事ドクトリンを再び見直し、強大な外敵にも正規戦で対抗しうるよう、人民戦争理論を保持しつつ軍備の増強を進めた。この新しい軍事ドクトリンは、「現代的条件下での人民戦争理論」と定義づけられている。現代的条件下での人民戦争理論下では、マンパワー、時間、空間という従来の3つの要素に、「サイバー」という4つ目の要素が加わった。若い司令官たちは軍事革命(RMA)に熱心に学び、砂漠の嵐作戦コソボ紛争アフガニスタン紛争などを教材にして電子戦や情報戦を研究した。さらに国軍士官学校にはコンピューター科学の学位が導入され、数名の将校が電子戦と情報戦の訓練のために海外に派遣された[17]

民政移管後(2010年~)

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2016年1月に開催された第1回連邦和平会議において「標準的な軍隊(Standard Army)」という構想が示された。結局、軍事ドクトリンにまでは昇華せず、具体的内容は明らかにされなかったが、国軍総司令官・ミンアウンフラインの指揮の下、様々な改革が行われた。国軍の国際的イメージのアップを図る意図があったようだ[18]

2011年以降、国軍は人権、未成年者徴用、治安部門改革(SSR)、武装解除・動員解除・社会復帰(DDR)などがテーマの国際会議やワークショップに参加したり、国際機関の仲介で国軍将校をヨーロッパや紛争後の国家への研修に派遣した[18]。2017年5月にはミンアウンフライン国軍総司令官とEU軍事委員会(EUMC)委員長・ミハイル・コスタラコスとの会談が実現[19]国際労働機関(ILO)と協力して、未成年者徴用の問題にも取り組み、2012年から2018年の間に924人の少年兵を解放した[20][21]

2013年2月、タイで行われる多国籍軍事演習・コブラ・ゴールドに2名のオブザーバーを派遣するよう招待され、以来、2020年まで毎年参加していた[22]

2013年3月、テインセイン大統領が訪豪した際、オーストラリア政府は、1979年に閉鎖されたヤンゴン国防駐在官を復活させると発表。 2014年以降、オーストラリア政府は、国軍に対して人道支援や災害救援、国際法に関するワークショップや訓練など数多くの支援を行った。2014年3月に開催されたオーストラリア・ミャンマー国防協力協議では、両国の軍隊間の連携を強化することで合意した[18]

2013年7月、テインセイン大統領が訪英した際、イギリス政府はヤンゴンに国防駐在官を派遣すると発表。また国軍に対して人権、武力紛争法、民主的軍隊の説明責任に関する研修を提供した。

2014年9月、ミンアウンフライン国軍総司令官が来日。年末から日本・ミャンマー将官級交換プログラムが開始され、日本財団から毎年10人の将校が奨学金を得て、日本の大学で国際関係の学位を取得することになった[23]。2015年からは日本の防衛大学校に毎年国軍将校が2人留学していた(2023年に中止[24])。

2014年12月、米議会で2015年度国防授権法が成立。これにより、これまで人権や法の支配のレクチャーに限られていた米軍の関与が、災害救助や医療発展に関する教育訓練に拡大された[23]

装備

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ミャンマーの武器輸入先(2017-2021年)は中国が36%、ロシアが27%、インドが17%となっている。

陸軍

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ミャンマー陸軍の装備品一覧」を参照

海軍

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ミャンマー海軍艦艇一覧」も参照

潜水艦(2隻)[25]

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フリゲート(5隻)[25]

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コルベット(3隻)[25]

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ミサイル艇(13隻)[25]

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高速艇(9隻)[25]

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哨戒艦(1隻)[25]

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哨戒艇(69隻)[25]

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ドック型輸送揚陸艦(1隻)[25]

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揚陸艇(43隻)[25]

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支援艦(3隻)[25]

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輸送艦(5隻)[25]

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設標艦(1隻)[25]

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給油艦(1隻)

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国家元首ヨット(1隻)[25]

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空軍

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教育機関

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国軍は、独立直前の1946年に士官訓練学校(Officers Training School:OTS)を設立していたが、訓練期間も訓練マニュアルも訓練用兵器も不足しており、兵士の質は低かった。また将校についても、イギリス、インド、パキスタンなどの国々の訓練学校に派遣して養成していたが、それも不十分だった。当時、国軍No.2だったアウンジーは以下のように述べている。

軍事科学や軍事思想を理解しておらず、軍事史の知識もなく、ゲリラ戦以上の軍事経験もない将校が大半を占める国軍の質は非常に低いことを受け入れなければならない。

こうした状態を憂慮した国軍は、軍事訓練プログラムと訓練方針を学ばせるために、多くの軍事代表団をインド、パキスタン、イスラエル、ユーゴスラビア、東ドイツ、英国、アメリカ、ソビエト連邦などに派遣した。1950年代に国軍士官学校(Defence Services Academy:DSA)、国防大学(National Defence College:NDC)(1958年)などの教育施設を設立。さらに留学にも力を入れ、サンドハースト王立陸軍士官学校等イギリス、アメリカ、オーストラリアの名門士官学校に多数の将校を留学させ、人材育成に力を注いだ。ちなみにミャンマーの訓練学校のマニュアルはイギリスのもの、教官は日本軍の下で訓練を受けた者が多かったので、国軍は「日本的な心を持った英国的な組織」とも言われているのだという。

軍事独裁政権となった1962年以降は、海外留学は激減。しかし、国家法秩序回復評議会(SLORC)成立後は、西側諸国からは制裁を受けていたものの、再び留学が盛んとなり、中国、ロシア、マレーシア、シンガポール、インド、パキスタンなどの国々に多数の軍人を派遣した。また戦力の近代化と拡大計画の下で、多くの新しい訓練学校を設立した[26]

入隊前教育・訓練[26]
名称 設立 場所 備考
国防(陸軍)士官訓練学校(DSOTS) 1946年 バトゥー(Ba Htoo) 1946年、士官訓練学校(OTS)として設立。将校養成機関。大卒、高卒、中卒それぞれの学歴に応じた養成コースがある。
国軍士官学校(DSA) 1955年 ピン・ウー・ルウィン 将校養成機関。16歳から19歳までの高卒を入学させ、4年間の訓練を受ける。卒業した士官候補生には学士号か理学士号が授与され、国軍の3つの軍のどこかに配属される。現在、コンピューター・サイエンスの学位コースも導入しているが、コースの大部分は軍事科学に充てられている。
テザ(国軍士官コース《OTC》) 1971年~2002年 将校養成コース。2000年、国軍はテザ将校の募集を停止。2002年までに計30期、合計4,958人のテザ将校が国軍に入隊した。
国防医学学校(DSMA) 1993年 ヤンゴン 国軍唯一の医官養成機関。1950年代初めから、医学部卒業者を対象とした国家公務員制度を実施してきたが、1990年代になると採用が難しくなり、1993年、国防医学研究所( DSIM)として設立され、その後改称。
国防技術学校(DSTA) 1994年 ピン・ウー・ルウィン 1994年、国防技術大学( DSIT)として設立。1999年改称。技官養成機関。機械工学、土木工学、電力工学、電子工学、防衛産業工学、化学工学、海洋工学、航空工学、冶金工学の学位を取得できる。2006年には海軍建築、海洋電気システム・エレクトロニクス、航空宇宙・航空工学、航空宇宙推進・飛行体、メカトロニクスの5つのカテゴリーが追加された。DSTAは国軍将校のための大学院コースも提供している。
国防看護・医療従事者科学研究所(DSINPS) 2000年 ヤンゴン 2000年、国防看護大学(DSIN)として設立。2002年改称。看護士官訓練センター。卒業生は国軍に徴用されず、在学中に少尉から中佐までの官職に任命される。看護学や、薬学、放射線学、理学療法、医療技術などの医療従事者科学の4年制の学位プログラムでは、男性候補者のみを募集。
入隊後教育・訓練[26]
名称 設立 場所 備考
指揮幕僚大学(CGSC) 1948年 カロー 1948年、ビルマ陸軍参謀学校(BASC)として設立。1996年改称。毎年、陸海空軍から少佐と中佐の下級将校と警察官数名が大佐への昇進のために選抜され、約12ヶ月間の訓練を受ける。訓練生のほとんどは陸軍出身で、空軍、海軍、警察出身の将校はわずか。その教育の趣旨は(1)歩兵師団を指揮できる将校の育成と地方司令部のスタッフ業務の遂行(2)国防政策、軍事ドクトリン、国際政治、地域政治、軍事科学、地政学、ミャンマーの現在の政治・社会経済状況との相関関係の枠組みの中で、軍事問題に対する迅速かつ正しい解決策を見出すことができるような将校の養成である。指揮、軍事指導、幕僚任務、ジャングル戦の特殊戦術、河川横断戦、山脈戦、低地戦、トンネル戦、ゲリラ戦、コマンド、ABC(原子・生物・化学)戦、合同作戦、人民戦争戦略、情報収集技術、支援部隊などのコースがある。
国防情報センター(DSIC) 1950年 1950年、軍事情報訓練センター(MITC)として設立。1958年改称。情報将校のためのコースを提供。尋問、情報収集と分析、特別警備作戦、その他の専門科目の訓練を受ける。
国防信号電気学校(DSSES) 1951年 1951年、ビルマ信号訓練連隊(BSTR)として設立。1997年改称。戦闘レベルの信号運用に関する基本的な知識を得る。信号部隊の将校は、信号小隊、信号中隊、信号(電子)工学のためのコースを受講しなければならない。これらのコースには、無線操作、信号情報、傍受、暗号作成と解読、電子戦などが含まれる。 電子・情報技術の発展に追いつくため、歩兵将校のための新しいコースが数多く開講されており、これには C4 I(指揮、統制、通信、コンピュータ、情報)戦の基礎コースもある。
国防工兵学校(DSES) 1952年 ピン・ウー・ルウィン 1952年、ビルマ陸軍工兵隊センター(BAECC)として設立。1997年改称。工兵部隊の将校その他の階級の軍人を対象。将校向けには地雷作業、野外工学、トンネル戦、土木工学のコースがある。
国防(陸軍)戦闘部隊学校(DSCFS) 1955年 バインナウン(Bayinnaung) 1952年、ビルマ陸軍中央学校(BACS)として設立。2000年に新設された。陸軍士官の訓練所。3ヶ月~5ヶ月間、軍事指導、幕僚任務、軍事戦略・戦術、軍事法規、戦史、戦争原理、対反乱戦などを学ぶ。
国防大学(NDC) 1958年 ヤンゴン 上級士官を対象。ほとんどが大佐。1998年に修士コースを導入。(1)国家の独立と主権、国民の連帯、ミャンマー連邦の発展と進歩を永続させるために、適切な軍事ドクトリンと公共政策を研究・開発できる(2) 国家の安全保障に密接に関わる軍事問題、国内政治、経済問題、国家政策の目的を理解できる。(3)近代先進国建設のための国際・国内政策を決定するうえで、相互に関連し重要な軍事的、政治的、後方支援的、経営的、心理的要因を分析し、効率的に活用することができる(4)国家の防衛・安全保障目標と国家政策の目的を分析し、国家目標を支援するために、平和と戦争の両方において、将来の国家大戦略を策定することができる人材を育成。演習の一環として国家安全保障計画の立案も義務付けられている。卒業生は、准将以上への昇進が検討され、司令官と幕僚の両方の役職に就くことができる。
陸空戦・空挺部隊学校(LAWPS) 1958年 1958年、陸空戦学校(LAWS)として設立。1963年、落下傘部隊学校と合併して改称。空挺作戦を学ぶ。
国防行政学校(DSAS) 1964年 ピン・ウー・ルウィン 1964年、ビルマ陸軍行政支援訓練学校(BAASTS)として設立。1997年改称。将校コースは、優秀な准尉将校や準士官、司法将校を育成することを目的としている。ほとんどすべての下級将校はDSASのコースを受講することが義務付けられている。
装甲・砲兵訓練学校(AAS) 1990年 ピン・ウー・ルウィン 1994年、国防技術大学( DSIT)として設立。1999年改称。砲兵、装甲、防空大隊に勤務する将校その他の階級の軍人が対象。多くの下士官、主に任官直後の将校が、砲兵訓練のためにAASに行く。
国防機械・電気工学学校(DSMEES) 1990年 ピン・ウー・ルウィン 将校を対象に小隊レベルおよび中隊レベルのコースを提供。その内容は、兵器システムの整備と修理、レーダー検査、ミサイル整備、電子機器整備などである。
特殊部隊訓練センター 空軍と海軍の士官を対象。空軍向けには、基本飛行、航法、航空交通、管制塔の操作、輸送機の飛行、ヘリコプターの飛行、防空システムなどのコースがある。海軍向けは、電子情報、水雷・魚雷作戦、水雷掃海、航海、測量、海軍コマンド、海軍砲兵などのコースがある。
戦闘関連組織活動訓練センター(CROATC) ビルマ社会主義計画党(BSPP)のイデオロギー教育センターで、地方司令部でイデオロギー教育センターを運営していて、廃止された中央政治学院の代わりの教育機関。すべての軍人はCROATCで3ヶ月のコースを受講しなければならない。

予算

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国防費

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国防費は、ミャンマーの政府総支出(TGE)または中央政府支出(CGE)の中で大きな割合を占めている。1948年の独立直後の2年間、国防費は瞬間ベースでTGEの40%に達し、1950年代を通じて比較的高い水準で推移し、TGEの約32%を占めた。1960年代前半、GDPに占める国防費の割合は、ミャンマー中南部や北東部での激しい戦闘にもかかわらず、平均6.5%に留まり、1960年代後半から1970年代前半にかけては、支出の絶対額は着実に増加していたものの、平均5.5%に低下した。1975年から1980年にかけても、絶対額は相変わらず増加していたものの、GDPに占める割合はさらに低下して平均約4%。1980年から1987年までは平均3.6%だった。1988年に国家法秩序回復評議会(SLORC)成立した後は、支出が大幅に増加したものの、GDPに占める割合はやはり約4%程度に留まっていた。

しかし、ミャンマーの国防費を計算する際には、ミャンマー政府の公表されている数字は信用できないこと、国防省ではなく他の省庁からの補助金が多いこと(例えば国軍はエネルギー省から燃料の補助を受けている)、二重レートがあった時代は外貨建ての支出の一部が、実際の為替レートより200倍以上低い公式為替レートにもとづいて計算されていること、軍事企業からの支出もあったこと、海外のサプライヤーへの支払いなど、一部の支出は物々交換システムの下で現物支給されていることなど考慮事項がいくつかあることに注意が必要である[27]

経済活動

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独立初期

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1950年代初め、国軍は将校・兵士とその家族の福利厚生を図り、忠誠心を高めるためのビジネスにも乗り出した。1951年に幹部のほとんどを第4ビルマ・ライフル部隊出身者で占める非営利組織・国防サービス研究所(The Defence Service Institute:DSI)を設立。まずヤンゴンのスーレーパゴダ通りに、軍人とその家族に低価格の輸入品や地産品を供給する雑貨店を開業して成功を収め、数年のうちに全国18店舗に拡大した。次にアバハウス(Ava House)という文房具店兼出版社を設立。これは軍人だけではなく一般にも開放され、これも成功を収めた。自信を付けた国軍はビジネスを巨大化、高品質の外国製品を一般消費者に販売するデパート・ロウ・アンド・カンパニー(Rowe & Co)、民営のA・スコット銀行を買収して改組したアバ銀行、東アジア会社を買収して改組したビルマ・アジア会社、7隻の船を保有する貨物船サービス会社ビルマ・ファイブスター・シッピング・ライン(Burma Five Star Shipping Line)など多数の企業を設立し、他にも石炭の輸入ライセンス取得、ホテル、水産業、鶏肉流通業、建設業、ラングーンとマンダレーを結ぶバス路線、国内最大の百貨店チェーンなどを傘下に収めた[27]

ビルマ社会主義計画党(BSPP)時代

1960年代初め、DSI傘下の多くの企業は新たに設立されたビルマ経済開発公社(Burma Economic Development Corporation:BEDC)の傘下に置かれ、事実上国軍の管理下に置かれた。しかし、1962年にネウィンがクーデターを起こして、軍事独裁政権が成立し、ビルマ社会主義計画党(BSPP)が掲げる「ビルマ社会主義への道」の下、経済の国有化が進むと、DSI・BEDC傘下の企業も国有化された。

BSPP時代には、国軍は商業活動を行わないことが義務づけられていた。そのため営利目的の軍事企業は存在しなかったが、国軍は基本的な生活必需品の生産に携わっており、そのほとんどは軍人とその家族の福利のためであり、基本的には個々の部隊単位で、規模はかなり小さく、連隊基金(RF)からの財政支援を受けていた。例えば大隊は、米や野菜を栽培し、鶏や魚を飼育し、食堂、酒家、ビデオハウスを経営し、ろうそく工場のような家内工業を営んでいたが、これらはすべて連隊基金から資金援助を受けていた。

福利厚生の面では、軍人だけの特別な特権はなかった。上級将校は他の党幹部と同じように、ヤンゴンにある2つの国営商店で補助金を受けた日用品を買うことができ、上級幹部は国営企業で特定の日用品の購入許可を申請することができたが、それは決して権利ではなかった。しかし制服やその他の身の回り品、給与や配給(水・乾物)、住宅設備や手当、医療サービス(肉親の場合も)などを受ける権利はあった。一般に予算外の福祉補助金がないにもかかわらず、兵士は民間人よりも、また一般市民よりも多少恵まれていた[27]

SLORC/SPDC時代

さらに国軍は軍人の福利厚生を図り、忠誠心を高めるために本格的にビジネスに参入。1990年にはミャンマー・エコノミック・ホールディングス(MEHL)英語: Myanma Economic Holdings Limitedの前身・ミャンマー連邦経済持株会社(UMEHL)を、1997年にはミャンマー経済会社(MEC)英語: Myanmar Economic Corporation[28]という国軍系企業を設立し、傘下に鉄鋼、セメント、大理石、砂糖、メタノール、石炭、ビール、貿易、金融など多数の企業を置いて莫大な利益を上げ始めた。これに加えてクローニーと呼ばれる企業コングロマリットが10以上存在し、国軍幹部と姻戚関係を結んだりして緊密な関係を築き、軍から許認可や受発注の便宜を受け、急成長し始めた。

これらの企業群は国防予算とは別の国軍の貴重な収入源となると同時に退役軍人の出向先となり、国軍の重要な利権となった。すべての将校はMEHLやMECの株式から直接的・間接的に利益を得、家族を通じて非合法ビジネスからの利益も得ている。それより地位の低い軍人たちは主に汚職や麻薬などの闇市場から利益を得ている[27]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ アーカイブされたコピー”. 2012年12月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年10月25日閲覧。
  2. ^ a b c ミャンマー連邦共和国(Republic of the Union of Myanmar)基礎データ日本国外務省(2019年9月5日閲覧)。
  3. ^ Please don’t call the Myanmar military ‘Tatmadaw’ · Global Voices”. web.archive.org (2024年2月19日). 2024年9月19日閲覧。
  4. ^ Steinberg 2009: 37
  5. ^ a b Hack、Retig 2006:186
  6. ^ Dun 1980:104
  7. ^ Steinberg 2009:29
  8. ^ Seekins 2006:124-126
  9. ^ a b Whose Army?”. The Irrawaddy. 2024年9月19日閲覧。
  10. ^ Andrew Selth: Power Without Glory
  11. ^ Maung Aung Myoe: Building the Tatmadaw
  12. ^ Maung Aung Myoe, Building the Tatmadaw, Appendix (6)
  13. ^ Maung Aung Myoe (2009-01). Building the Tatmadaw: Myanmar Armed Forces Since 1948. Institute of Southeast Asian Studies. pp. 16-19 
  14. ^ The Battle of Insein Never Really Ended”. The Irrawaddy. 2024年8月21日閲覧。
  15. ^ ミャンマーにおけるセキュリティ・ガヴァナンスの変容”. pp. 72-74,76. 2024年8月29日閲覧。
  16. ^ Maung Aung Myoe (2009). Building the Tatmadaw: Myanmar Armed Forces Since 1948 . Institute of Southeast Asian Studies. pp. 19-33 
  17. ^ Maung Aung Myoe (2009). Building the Tatmadaw: Myanmar Armed Forces Since 1948. Institute of Southeast Asian Studies. pp. 33-42 
  18. ^ a b c Thiha, Amara (2017年6月22日). “Understanding the Tatmadaw's 'Standard Army' reforms” (英語). Frontier Myanmar. 2024年9月19日閲覧。
  19. ^ CEUMC official visit to MYANMAR | EEAS” (英語). www.eeas.europa.eu. 2024年9月19日閲覧。
  20. ^ ミャンマー軍が75人の少年兵士を解放 ミャンマーニュース”. www.myanmar-news.asia. 2024年9月19日閲覧。
  21. ^ ミャンマー:子ども兵士を解放へ-24時間体制のホットラインを運用。子どもの徴用の廃止と予防に向けた取り組みを強化 | 日本ユニセフ協会 | 子どもの保護”. www.unicef.or.jp. 2024年9月19日閲覧。
  22. ^ Cobra Gold Military Exercise Kicks Off in Thailand Without Myanmar”. The Irrawaddy. 2024年9月19日閲覧。
  23. ^ a b 長田, 紀之 (2015). “2014年のミャンマー 加速する経済,難題に直面する政治改革”. アジア動向年報 2015: 487–510. doi:10.24765/asiadoukou.2015.0_487. https://www.jstage.jst.go.jp/article/asiadoukou/2015/0/2015_487/_html/-char/ja. 
  24. ^ 防衛省がミャンマー軍幹部らの教育訓練受け入れ 人権団体から批判:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル (2022年2月6日). 2024年9月19日閲覧。
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『世界の艦船増刊 第1016集 世界の海軍 2024-2025』海人社、2024年3月14日、85頁。 
  26. ^ a b c Maung Aung Myoe (2009). Building the Tatmadaw: Myanmar Armed Forces Since 1948. Institute of Southeast Asian Studies. pp. 135-159 
  27. ^ a b c d Maung Aung Myoe (2009). Building the Tatmadaw: Myanmar Armed Forces Since 1948. Institute of Southeast Asian Studies. pp. 163-190 
  28. ^ ミャンマー国軍ビジネスの要、MEHL, MECについて”. www.mekongwatch.org. 2024年9月20日閲覧。

関連項目

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