ミッシェル・シュタイシェン

ミッシェル・A・シュタイシェン(音訳:斯定筌、秋庭紫苑、須田井飛燕、洲庭泉、捨井芝園、Michael A. Steichen1857年12月17日 - 1929年7月26日)は、フランス神父パリ外国宣教会に所属していた。姓はスタイシエンステシエンとも書かれる。盛岡築地静岡麻布横浜で布教活動を行う傍ら、雑誌編集長を務め、さらにキリシタン研究者として著作を発表した。

生涯[編集]

1857年12月17日ルクセンブルクデュドランジュで誕生。幼年時代は、祖国ルクセンブルクあるいは一部の家族の居住地であった、フランスのシャーロン・シュル・マルヌ市で過ごした。初め実業家を志し、ドイツ語、フランス語の他にさらに英語を学ぶためにロンドンに留学。22歳の頃、宣教師に志望変更し、イッシーの小共同会で数年間ラテン語を学び、聖職に就く準備をした後、パリ外国宣教会に入会し、同会の神学校で4年学び、1886年(明治19年)9月26日、司祭に叙階。1887年(明治20年)に日本へ宣教師として派遣され、同年1月18日に日本に到着。岩手県盛岡築地神学校を経て、1891年(明治24年)静岡に赴任。1896年(明治29年)に麻布に転任。1905年(明治38年)伝道資金募集のため欧米各国に派遣される。1907年(明治40年)築地に帰り、1908年(明治41年)横浜若葉町教会主任に就任。1909年(明治42年)聖心女子学院付き司祭となり、1911年(明治44年)には雑誌「聲」の編集長となる。1918年(大正7年)築地神学校長及び築地教会主任司祭を兼任することとなり、勤務の傍らキリシタン研究に没頭したが、1923年(大正13年)関東大震災により蒐集してきた日本切支丹史の資料を失う。こののち、しばらく体調不良。震災後関口教会に避難。1928年(明治3年)本郷上富士前教会主任となる。健康を害し、関口教会で静養に努めたが、1929年(昭和4年)7月26日、本郷教会において死去。没後、1930年(昭和5年)『切支丹大名記』を刊行。なお、機関誌「聲」編集作業の傍ら、執筆にも精を出し「秋庭紫苑」、「須田井飛燕」、「洲庭泉」、「捨井芝園」などのペンネームで作品を発表していた。[1]

著書[編集]

  • 耶蘇基督真蹟考 岩崎重雄、1897[注釈 1]
  • 聖人傳 武市誠太郎、1903[注釈 2]
  • 英文 切支丹大名 1903
  • 仏文 切支丹大名 訂正増補版 香港外国宣教会、1904
  • 大震災ト死ノ思想 ステシエン、1923[注釈 3]
  • 切支丹大名史 エメ・ヴィリヨン訳 三才社、1929 ビリヨン、1929[注釈 4]
  • 切支丹大名記 吉田小五郎訳 大岡山書店、1930
  • キリシタン大名 吉田小五郎訳 乾元社、1952[注釈 5]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 著者は斯定筌名義。
  2. ^ 著者は斯定筌名義。
  3. ^ 著者はステシエン・藤井伯民名義共著。
  4. ^ 著者はスタイシエン名義。
  5. ^ 著者はミカエル・シュタイシェン名義。

出典[編集]

  1. ^ 「著者小傳」『切支丹大名記』シュタイシェン著、吉田小五郎訳、大岡山書店、1930年、pp.5-7