マン・レイ

マン・レイ
Man Ray
1934年のマン・レイ
誕生日 1890年8月27日
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ペンシルベニア州フィラデルフィア
死没年 (1976-11-18) 1976年11月18日(86歳没)
死没地 フランスの旗 フランスパリ
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
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マン・レイ(Man Ray, 本名:エマニュエル・ラドニツキー Emmanuel Radnitzky, Эммануэль Радницкий, 1890年8月27日 - 1976年11月18日)は、アメリカ合衆国写真家画家彫刻家映画監督である。ヘルムート・ニュートンと共に、女性のヌード写真で有名である。ダダイストまたはシュルレアリストとして、多数のオブジェを制作したことでも知られる。レイヨグラフソラリゼーションなど、さまざまな技法を駆使した。一方でストレートなポートレート(特に同時代の芸術家のポートレート)も得意とし、ファッション写真と呼べるような作品もあったりと、多種多様な写真作品群を残している。

生涯[編集]

1890年、エマニュエル・ラドニツキーとしてペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれた[1][2]。父親はユダヤ系ウクライナ人、母親はユダヤ系ベラルーシ人。1897年には一家でニューヨークブルックリン区に転居した。1904年には高校に入学して製図を学び、卒業後は出版社で図案を作ることで生活を立てながら、画廊に出入りするなどして画家として活動する。

1915年にはフランス詩人だったアドン・ラクロアと結婚、この頃から本名のエマニュエル・ラドニツキーではなく、本名のEmmanuel Radnitzkyを縮めたマン・レイと名乗るようになる。自作の絵を写すため写真機を購入。マルセル・デュシャンと出会い、のちにニューヨーク・ダダとよばれる運動を、ヨーロッパのダダと同時並行的に進めることとなる(1921年、デュシャンとレイにより「ニューヨーク・ダダ」誌が創刊されている)。同年10月には絵画とドローイングによる最初の個展を開催した。

1921年7月にはエコール・ド・パリの時代であったパリに渡り、モンパルナス界隈カンパーニュ・プルミエール通り(fr, パリ14区)29番地に住みながら本格的に写真に傾倒する。同年6月にパリに戻っていた親友のデュシャンの紹介によって、パリのダダイストたちと交友を始める。パリに渡って数か月後にはフランスの歌手・モデルであるキキに出会い恋に落ちる。職業的な写真家として成功をおさめ、ファッション雑誌などに写真が掲載されるようになる。彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと交友し、ブランクーシに写真の技術の手ほどきをする。シュルレアリスム運動が起こると、シュリレアリストたちとも交わり、シュルレアリスム的作品も手がけることとなる。ソラリゼーションを表現技法として最初に利用した。

1934年サルバドール・ダリ(左側)と。カール・ヴァン・ヴェクテン撮影

1925年、第1回シュルレアリスム展にマックス・エルンスト [3]パウル・クレーアンドレ・マッソンジョアン・ミロパブロ・ピカソらと共に参加。シュルレアリスム的作品を手がける一方で、当時のアーティストたちの姿も写真に収めている。1929年にはキキと別れ、ヴォーグ (雑誌)の人気モデルでのちに戦場ジャーナリストとして活躍することになるリー・ミラーをカメラマン助手兼恋人にし、3年ほど交際した。1940年にはフランスの戦火を避けてアメリカに移り、ロサンゼルスで暮らす。このころ、ハリウッドスターなどの写真を撮るが、パリにおいてほどの名声は得られなかった。1946年には、マックス・エルンストドロテア・タニング、マン・レイとジュリエット・ブラウナーが合同で結婚式を挙げた。

1951年には再びフランスに渡って再びモンパルナス界隈カンパーニュ・プルミエール通りの31番地bisの建物に居住し、パリでの活動を再開。1969年にはボックスアートの『ペシャージュ』を作成。現在は日本長野県にあるセゾン現代美術館に所蔵されている。1976年11月18日にパリで死去。墓はモンパルナス墓地にあり、ジュリエットと共に眠るマン・レイの墓碑には「Unconcerned, but not indifferent」と「Together Again」の文字が刻まれている。

映画[編集]

マン・レイはパリでの滞在期に、実験的なサイレント映画の制作も手がけている。

最初の作品『Le Retour à la Raison』(1923年)は、ダダイスムの映画版ともいえるものである。「理性への回帰」というタイトルに反し、その中身は釘や画鋲、塩や胡椒などをカメラを使用せず直にフィルムに振りかけたりして焼き付けたイメージ群の、脈絡のないコラージュであり、最後にかろうじて具象的なイメージとして女性の裸体が映される。

しかし、『Emak-Bakia』(1926年バスク語で「ひとりにしてくれ」の意)においては、より具象的なイメージが用いられ、路上を走る車、砂浜での波などの屋外の風景も映されている。ストップモーションを用いての簡単なアニメーションなども試されている。

友人である詩人ロベール・デスノスの詩に触発された『L'Étoile de Mer』(1928年、「ひとで」の意)では、男女の悲恋の物語という、抽象的であるものの核となるストーリーの確立が見られ、人物の感情の動きに焦点が当てられている。その翌年には、ド・ノアイユ子爵夫妻の依頼を受けて『Les Mystéres du Château du Dé』(1929年、邦題『骰子城の秘密』)を制作した。なお、『Les Mystéres du Château du Dé』以外の作品にはキキが出演している。

書籍[編集]

  • 『セルフ ポートレイト マン・レイ自伝』千葉成夫訳、美術公論社、1981年/文遊社、2007年
  • 『写真家 マン・レイ』飯島耕一訳、みすず書房、1983年
  • 聞き手ピエール・ブルジャッド『マン・レイとの対話』松田憲次郎・平出和子訳、銀紙書房、1995年
  • ニール・ボールドウィン『マン・レイ』鈴木主税訳、草思社、1993年
  • ハーバート・ロットマン『マン・レイ 写真と恋とカフェの日々』木下哲夫訳、白水社、2003年
  • 『マン・レイ 美の20世紀』アレクサンダー・ゲイムス解説、山梨俊夫監訳、朝木由香訳、二玄社、2007年。入門書
  • 『マン・レイ』野村春久訳、創元社「ポケットフォト」、2010年。入門書
  • 木水千里『マン・レイ 軽さの方程式』三元社、2018年
  • 『マン・レイと女性たち』巖谷國士 監修、平凡社、2021年。展覧会カタログも兼ねる
  • 『マン・レイのオブジェ 日々是好物』求龍堂、2022年。展覧会カタログも兼ねる

日本での主な展覧会[編集]

  • 2004年 - 2005年「マン・レイ『私は謎だ。』展」[4]
福井県立美術館岡崎市美術博物館埼玉県立近代美術館山梨県立美術館徳島県立近代美術館[5]

脚注[編集]

  1. ^ Warren, Lynne, ed (2005-11-15). “Man Ray”. Encyclopedia of Twentieth-Century Photography. 2. Routledge. pp. 1000. ISBN 9781135205362. https://books.google.com/books?id=31VsBgAAQBAJ&q=%22born+on+August+27,+1890%22&pg=PA1000 
  2. ^ He was the eldest child of History of the Jews in Russia#United States|Russian Jewish immigrants
  3. ^ (1891年 - 1976年)ドイツ人画家・彫刻家。
  4. ^ 監修:巖谷國士、マリオン・メイエ。展覧会図録に「マン・レイを知る100の項目(マン・レイ事典)」掲載。
  5. ^ 絵画・オブジェ・映像・書籍資料、計350点を一堂に展示した。宮脇愛子とマン・レイの交流を示す特別展示もあった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]