マルヌ県

マルヌ県
Marne
Marne章
マルヌ県章
位置
Marneの位置
概要
県番号 51
地域圏 グラン・テスト
県庁所在地 シャロン=アン=シャンパーニュ
郡庁所在地 エペルネー
ランス
サント=ムヌー
ヴィトリー=ル=フランソワ
5
小郡 44
コミューン 619
県議会議長 ルネ=ポール・サヴァリー
共和党 (フランス 2015-)
統計
人口
国内38位
  (2011年)
565,307人
人口密度 69人/km2
面積¹ 8,162 km2
¹ 「French Land Register data」(1平方キロ以上の湖沼、エスチュアリー、氷河などの水面積除く。
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マルヌ県(マルヌけん、le département de la Marne)は、フランスグラン・テスト地域圏の県である。県名は、マルヌ川(la rivière de la Marne)に由来する。県都はシャロン・アン・シャンパーニュ、最大都市はランスである。

地理[編集]

マルヌの地図

面積は 8 162 km²であり、フランス・メトロポリテーヌで7番目に面積が広い。マルヌ県はヴィルヌーヴ・ラ・リオンヌからトロワ=フォンテーヌ=ラベまで全長116km、クロミシーからクレールまで全長が97kmある。

県は、ランス郡・シャロン・アン・シャンパーニュ郡・エペルネー郡・ヴィトリー・ル・フランソワ郡の4つの地方に分けられる。中央部はプレーヌ・シャンプノワーズかシャンパーニュ・クレユーズと呼ばれ、ほとんどを穀物畑が占めている。西部はワイン生産で有名なヴィニョブル・ド・シャンパーニュである。西部には県で最も標高が高いモン・シナイ(283m)がある。東部は低い丘陵が連なる風景が広がる、アルゴンヌとペルトワである。

人口統計[編集]

マルヌ県は単独でシャンパーニュ=アルデンヌ地域圏総人口の約40%を占めている。数十年かけて人口が減少している地域圏全体とは異なり、マルヌ県人口は1975年以降増加し続けているが、近年は56万人前後で停滞している。

人口の増減
1801年 1831年 1841年 1851年 1856年 1861年 1866年
304,651 337,076 356,632 373,302 372,050 385,498 390,809
1872年 1876年 1881年 1886年 1891年 1896年 1901年
386,157 407,780 421,800 429,494 434,734 439,577 432,882
1906年 1911年 1921年 1926年 1931年 1936年 1946年
434,157 436,310 366,734 397,773 412,156 410,238 386,926
1954年 1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年
415,141 442,135 485,388 530,399 543,627 558,217 565,229
2006年 2007年 - - - - -
565,840 566,486

参照元:SPLAF[1]と2006年はINSEE[2]、2007年はINSEE[3]

主要都市[編集]

県内順位 都市 地域区分 人口 県内順位 都市 地域区分 人口
1 ランス ランス郡 183,113人 6 ベテニー ランス郡 6,817 人
2 シャロン・アン・シャンパーニュ シャロン・アン・シャンパーニュ郡 44,980人 7 コルモントルイユ ランス郡 6,528人
3 エペルネー エペルネー郡 23,084人 8 アイシャンパン エペルネー郡 5,741人
4 ヴィトリー・ル・フランソワ ヴィトリー・ル・フランソワ郡 12,552人 9 サン・ミンミ シャロン・アン・シャンパーニュ郡 5,548人
5 タンクー ランス郡 10,096人 10 フィスム ランス郡 5,493人
2016年 現在

歴史[編集]

フランス革命中の1790年3月4日に、旧シャンパーニュの一部から新設された。県設置の構想としては、人々が馬の背に乗って郡庁所在地まで2日で往復できる距離を目指した。1800年2月17日、知事職が設置された。ブルジョワ・ド・ジュサン(fr)が初代マルヌ県知事となり、38年間在職した。

ワーテルローの戦い第七次対仏大同盟が勝利すると、1815年6月から1818年11月まで県はオーストリア軍に占領されていた。

1870年の普仏戦争では、アルザス=ロレーヌでのフランス軍敗退のために、ドイツ軍がマルヌ県に達しフランス軍を分断した。1870年8月25日、パサヴァン=タン=アルゴンヌにて49人のギャルド・モビル(fr、国土防衛のため軍を補助し、内部秩序を維持する目的で召集された人々)が虐殺され、さらに100人が負傷した。この悲劇の目撃者たちはプロイセン人たちによる『野蛮な光景』について述べている[4]マクマオンと彼の軍隊はシャロン=アン=シャンパーニュに退却した。彼らはボーモン=アン=アルゴンヌ攻撃中に身柄を拘束された。その後彼らは1870年9月2日にナポレオン3世とともにアルデンヌ県のスダンで捕虜となった[5]

第一次世界大戦前、軍の防衛はディジョンラングルラン、ラ・フェールの各コミューンとともにフランス北東部第2の防衛ラインとして県内で確立されていた。

マルヌ県は多くの軍隊が通過するのを経験した。第一次マルヌ会戦、第一次シャンパーニュ会戦(fr)、第二次シャンパーニュ会戦(fr)、第三次シャンパーニュ会戦(fr)、第四次シャンパーニュ会戦(fr)、第二次マルヌ会戦(fr)、シュマン・ド・ダーム会戦(fr)である。

こうした紛争は特にマルヌ県に深刻な後遺症を残した。戦後残ったマルヌ県のゾーン・ルージュ(fr、戦争で物理的に損傷した土地の総称)は、フランス全土に生じたゾーン・ルージュの約1/7に相当した。ゾーン・ルージュの土壌はやせて、土地のほとんどは汚染されて森林で覆われることになり、別の活動は禁止されてしまった。マルヌ県に24 556ヘクタールあったゾーン・ルージュは、1921年には2185ヘクタールに減少した。多くのコミューンが再開墾こそが唯一の方法だと考えたのである。1921年当時、1538ヘクタールが『国の管理下』で保存されていた。ペルテ・レ・ユルリュのように、マルヌ県内で7つのコミューンが消滅した。

政治[編集]

近年、マルヌ県は常に国政選挙で右派候補を第一位に選んでいる(しかし2004年欧州議会議員選挙と2010年フランス地方選ではフランス社会党が第一党となった)。6人の国会議員と3人の元老院議員は中道またはUMPの党員である。地方行政では、マルヌ県評議会議長はUMPのルネ=ポール・サヴァリーである。2001年から2008年まで、右派が県主要5都市をリードしていた。しかし2008年フランス地方選挙では、ヴィトリー=ル=フランソワで左派候補が、さらに県内で最も人口の多いランスでも左派候補が当選した。一方、マルヌ県の農村にある多くのコミューンでは右派の首長が多い。

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ http://splaf.free.fr/
  2. ^ "Recensement de la population au 1er janvier 2006". Insee. {{cite web}}: Cite webテンプレートでは|access-date=引数が必須です。 (説明)
  3. ^ "Évolution et structure de la population du département (de 1968 à 2007)". Insee. {{cite web}}: Cite webテンプレートでは|access-date=引数が必須です。 (説明)
  4. ^ Thierry Igier, PNR Argonne. "Massacre des mobiles de la Marne à Passavant en Argonne". 2010年4月9日閲覧
  5. ^ Anac-fr.com. "La guerre de 1870-71 et la commune de Paris". 2010年4月9日閲覧