ポール・アンカ

ポール・アンカ
Paul Anka
1961年
基本情報
出生名 Paul Albert Anka
生誕 (1941-07-30) 1941年7月30日(82歳)
出身地 カナダの旗 カナダオンタリオ州オタワ
ジャンル ポップ・ミュージックポップ・ロック
職業 歌手、シンガーソングライター
担当楽器 ボーカル、ピアノ
活動期間 1955年 -

ポール・アンカ英語: Paul Anka, 1941年7月30日 - )は、カナダ出身の歌手、シンガーソングライターである。「ダイアナ」などのヒットで知られている。

来歴[編集]

アンカの父親はシリアのダマスカスからカナダへ移住、母親はレバノン正教徒移民で、彼は二人の間にカナダオタワで生まれた[1][2]。しかし彼の母親は、彼が18歳の時に亡くなってしまった[3]。1990年にアメリカ市民権を得ている。日本では、ニール・セダカ[4]デル・シャノン[5]と共に、ポップスの人気歌手となり、時にはロックンローラーと誤解されることもあった。

アンカは、1957年に自分の弟のベビーシッターへの片思いを綴った自作曲「ダイアナ」でデビューした。この曲はいきなり、Billboard Hot 100の第1位を獲得した。その後、「君は我が運命」、「ロンリー・ボーイ英語版」などのヒットを飛ばす。

1960年代半ばからはヒット曲に恵まれず低迷するが、70年代にはトム・ジョーンズに「シーズ・ア・レイディ」を提供した。また1968年にフランク・シナトラにスタンダード「マイ・ウェイ」を提供する。これは、アンカがクロード・フランソワの楽曲"Comme d'habitude"(いつものように)の歌詞を全く新たな英詞で書き直し、自身もカバーしたものである。また、自身も1974年にオディア・コーツとのデュエット曲である「二人のきずな英語版」を、Billboardの第1位にチャートインさせ、カム・バックした。

2005年、ハードロックグランジソウルなどの曲をジャズのアレンジでカヴァーしたCD『ロック・スウィングス』を発表した。ラスベガスでのショーの回数も多い。

アンカにはAmelia、Anthea、Alicia、Amanda、Alexandra の5人の娘がいる。娘達のイニシャルはすべてA.A.で揃っている。

2002年に日本のテレビドラマ『ゴールデンボウル』(日本テレビ系列)の主題歌に「君は我が運命」が起用され、劇中でもアンカの楽曲が何曲も使用された。

1983年に楽曲を共同制作していたが、『スリラー』の大ヒットでマイケルが多忙になりレコーディングは中止になった。その時に制作されていたのがマイケルの遺作で、ポール・アンカとマイケルの共作となる「THIS IS IT」である。アルバム『エスケイプ』に収録される「ラヴ・ネヴァー・フェルト・ソー・グッド」も同時期に制作されていた。

ディスコグラフィ[編集]

シングル[編集]

アルバム[編集]

楽曲提供[編集]

日本公演[編集]

6月20日,21日 日本武道館、23日 名古屋市公会堂、27日,28日 フェスティバルホール、29日 福岡市九電記念体育館、30日 北海道厚生年金会館、7月1日 NHKホール
6月30日 アクロス福岡シンフォニーホール、7月2日 フェスティバルホール、3日 広島郵便貯金会館、4日 香川県民ホール、6日 静岡市民文化会館、7日 愛知県芸術劇場、8日 長野県松本文化会館、10日 仙台サンプラザホール、11日,12日,13日 Bunkamuraオーチャードホール

脚注[編集]

  1. ^ Paul Anka, Kids' wonder singer 8 February 2024閲覧
  2. ^ Anka to honor his roots with concert in Lebanon Deseret News 8 February 2024閲覧
  3. ^ Paul Anka reflects on six decades of pop music success 8 February 2024閲覧
  4. ^ 「恋の片道切符」「おおキャロル」「雨に微笑みを」などのヒットで知られる歌手
  5. ^ 「悲しき街角」がヒットした。ピーター&ゴードン「アイ・ゴー・トゥ・ピーセズ」の作曲者でもある。最後は自殺してしまった
  6. ^ 日本放送協会. “フリーダム・フォー・ザ・ワールド ~自由を世界に~”. NHK みんなのうた. 2024年3月22日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]