ホセ・フェルナンデス (1974年生の内野手)

ホセ・フェルナンデス
Jose Fernandez
基本情報
国籍 ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国
出身地 ラ・ベガ州コンセプシオン・デ・ラ・ベガ
生年月日 (1974-11-02) 1974年11月2日(49歳)
身長
体重
192 cm
100 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手三塁手
プロ入り 1993年 アマチュア・フリーエージェントとしてモントリオール・エクスポズと契約
初出場 MLB / 1999年7月3日
KBO / 2002年4月5日
NPB / 2003年4月18日
最終出場 MLB / 2001年9月29日
KBO / 2002年10月20日
NPB / 2013年9月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ホセ・マヨバネクス・フェルナンデス・ロハスJosé Mayobanex Fernández Rojas, 1974年11月2日 - )は、ドミニカ共和国ラ・ベガ州コンセプシオン・デ・ラ・ベガ出身の元プロ野球選手内野手)。右投右打。

経歴[編集]

MLB時代[編集]

エバンジェリスコ工業高校を卒業後、マドレ・イ・マエストラカトリック大学に入学。1993年モントリオール・エクスポズと契約。以降5年間はマイナーリーグでプレーし、1999年からエクスポズ傘下のAAA級オタワ・リンクスで三塁手としてレギュラー出場した。

1999年7月に怪我で離脱したマイケル・バレットに代わってメジャー初出場。同年は8試合にメジャー出場し、メジャー初安打も記録。2000年のメジャー出場は無かったが、2001年にはアナハイム・エンゼルス傘下のAAA級ソルトレイク・スティンガーズで打率.338・30本塁打・114打点を記録。2年ぶりのメジャー出場を果たし、13試合に出場したが目立った成績は残せなかった。

SK時代[編集]

2002年SKワイバーンズに入団し、打率.281・45本塁打・107打点を記録した。韓国では現地の発音からペルナンデスと呼ばれた。この年の本塁打数(45本)は2015年ヤマイコ・ナバーロに抜かれるまで、1999年のダン・ローマイヤー英語版ハンファ・イーグルス)と並ぶ韓国プロ野球の外国人シーズン本塁打数タイ記録であった。オフに残留交渉が決裂し、SKを退団。その後はメジャー復帰を目指してピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに参加していた。

ロッテ時代[編集]

2003年シーズン開幕直後の3月24日、千葉ロッテマリーンズに入団。これは、2月19日に「野球に対する情熱がなくなった」と言い放ち、突如引退したロバート・ローズの代役として、当時の監督山本功児が獲得したというものだった[1]。背番号は「42」に決まった。

2003年は4月中旬よりクリーンナップに定着し、シーズンを通して126試合に出場。打率.303・32本塁打・100打点・OPS.947を記録。来日1年目ながら日本の野球に適応し、3割30本100打点をクリアする好成績を残した。しかし、翌シーズンから監督に就任するボビー・バレンタインから戦力外を言い渡され[1](「守備が疑問。指名打者だけなら構想には入れない」とのこと)、退団となった[2]

西武時代[編集]

2003年12月29日に西武ライオンズへ入団。背番号は伊東勤の「何でも1番になってほしい」という願いから1に決定した[3]。前年を上回る132試合に出場し、打率.285・33本塁打・94打点・OPS.887を記録。プレーオフでは全8試合で満塁本塁打1本を含む4本塁打を放ち、チームの2年ぶりのリーグ優勝に貢献。中日ドラゴンズとの日本シリーズでは打率.310・1本塁打・6打点・OPS.858の成績を残し、チームは12年ぶりの日本一に返り咲いた。

2005年は復帰したカブレラが4番に座り、同じ三塁手の中村剛也石井義人の活躍もあり指名打者での出場が多かった。来日以来最少の120試合の出場ながら、打率.293・26本塁打・OPS.911を記録したが、オフの12月2日に自由契約となった。

楽天時代[編集]

2005年12月13日に東北楽天ゴールデンイーグルスと契約。背番号はロッテ時代と同じ「42」に決まった。

2006年は開幕からほぼ年間を通じて4番に座り、交流戦では35試合で打率.331・12本塁打・37打点・OPS1.089を記録し、最終的には打率.302・28本塁打・88打点・OPS.911を残した。2006年5月20日の読売ジャイアンツ戦では豊田清から球団初のサヨナラ本塁打を放った[4]パシフィック・リーグ三塁手部門にてベストナインを受賞。球団創設以来初の個人タイトルを獲得した。オフに背番号を「17」に変更。「ドミニカ・アメリカでも付けたことがある番号だったので、特別な思い入れがあった」とのこと。

2007年4月1日の対オリックス・バファローズ戦(フルキャストスタジアム宮城)では、3回裏に1イニング2本の満塁本塁打が出たが、1本をフェルナンデスが打った(もう1本は山﨑武司)。しかし、前半戦で打率.250を下回り、夏場でも一向に調子が上がらず、自身も「人生最大のスランプ」と漏らす程の低空飛行が続いた。オールスター明け以降は11本塁打・43打点と復調し、8月は打率.279・6本塁打・21打点の成績で月間MVPを獲得。8月以降は打率.350を残した。5年連続20本塁打を記録したが、打率.270・22本塁打・79打点に終わった。守備面では、一塁手三塁手として12失策ずつを記録。一塁手と三塁手の両部門で、同時に失策数リーグ最多になるという不名誉な記録を残した。

2008年は7月に本塁打を1本も打てないなど、最終的には本塁打こそ18本にとどまったが、打率.301・99打点、OPS.843の成績を残した。しかしシーズン終了後、打撃はもちろん守備にも定評のある中村紀洋がFA加入。同時にフェルナンデスが構想外となり、12月1日に自由契約となった。

オリックス時代[編集]

オリックス時代
(2009年9月5日、スカイマークスタジアム

2009年1月15日にオリックス・バファローズと契約。背番号は「3」に決まった。開幕前に右足指を骨折するが、開幕からレギュラーを任される。他に故障者が続出した事情もあって、カブレラとローズが共に戦線離脱した間は4番を任された事もあったが、一向に調子が上向かなかった。7月14日の対千葉ロッテマリーンズ戦で、ブライアン・シコースキーからサヨナラ打を放った[5]・9月13日の対埼玉西武ライオンズ戦(西武ドーム)では、7回裏に後藤武敏の打球を顔面に受けて左頬骨を骨折。全治約3ヵ月の重傷で戦線離脱した。117試合に出場して打率.261・15本塁打・47打点・OPS.740と不振に終わり、11月17日にライアン・ボーグルソンと共に退団した。

西武復帰[編集]

西武時代(2011年8月30日、こまちスタジアム

2010年リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルキンタナロー・タイガースでプレーしていた。シーズン途中に離脱している中村剛也に代わる右の長距離砲を探していた西武が、6月25日に獲得を発表した。西武へは5年ぶりの復帰となり、日本野球界で8年目を迎えた。背番号は「52」に決まった[6][7]。途中入団のため、57試合の出場に留まったが、9月7日には通算1000本安打を達成するなど、打率.339・11本塁打・45打点の成績を収めた他、三振は僅か26個だった。

2011年6月6日に出場登録日数が8年に達し、国内FA権を取得。それに伴い翌年から日本人選手扱いとなる。シーズン前半は不振に陥ったが、最終的には142試合に出場し、打率.259・17本塁打・81打点の成績を残した。ベストナイン(指名打者部門)にも選ばれたが、シーズン終了後の契約交渉が決裂し、12月2日付けで自由契約となった。

楽天復帰[編集]

楽天時代
(2012年3月20日、横浜スタジアム

2011年12月11日に楽天と契約したことが発表された。楽天へは4年ぶりの復帰となった[8]。背番号はオリックス時代と同じ「3」に決まった。

2012年の開幕戦は5番・一塁手だったが2つの失策を犯してしまう。ほぼフルシーズン一軍に帯同したものの、打率.243・3本塁打・51打点と来日以来最低のシーズンとなった。一方で得点圏打率はチームメイトの聖澤諒に次ぐ、リーグ2位の.345を記録した。11月21日に自由契約公示された[9]

オリックス復帰[編集]

2013年リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルに復帰しモンクローバ・スティーラーズでプレーしていたが、シーズン途中の7月21日にオリックスが獲得を発表した。背番号は「44」に決まった[10]。オリックスへは4年ぶりの復帰となる。8月9日の対西武戦でオリックス復帰後初本塁打を記録したが、以降は打撃不振に陥り、結局この本塁打1本のみで打率が2割に満たずにシーズンを終え、来日以来最低であった前年の成績をさらに下回った。10月25日に自由契約公示された[11]。その後は現役を引退。

引退後[編集]

2016年のオフから、正式契約ではないが阪神タイガースの中南米担当スカウトに就任し、2017年オフにウィリン・ロサリオの獲得に尽力。

2018年1月12日、埼玉西武ライオンズから1月1日付で編成部国際業務駐米担当として契約したことが発表された[12]

人物[編集]

愛称はミドルネームからとった「マヨ」。しかし、ファンからは「ホセ」と呼ばれることがある。

楽天時代、ホームランの後にはテレビカメラの前でチームメイトと一緒にパフォーマンス(通称アギリータダンス - アギリータとはスペイン語でイヌワシの意)を披露していた。

2007年から殊勲打を放った後に、メッセージ性の強い、哲学的なコメントを発表するようになった。キリスト教の教訓や読書で得た知識を基にしており、周囲を元気づけようという意識から始めたのだという。その後、楽天球団のモバイル公式サイトに、発表されたコメントを集めた専用のコーナーが設けられた。

2007年7月13日、チームを激励するため、また自分を奮い立たせるために、チームメートに以下のメッセージが入ったTシャツを贈った。

" WINNING IS AN ATTITUDE.. IF SOMEONE HAS TO WIN,WHY NOT US! "[13]
(勝つこととは心の持ちよう。誰かが勝たなければならないのなら、それは我々ではないのか!)

出身国であるドミニカ共和国の公用語はスペイン語であるが、ヒーローインタビューなどでは英語で話している。

趣味は日本語研究で、日本に居る期間が長いためか、簡単な日本語の会話なら通訳無しでも話せる。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1999 MON 8 25 24 0 5 2 0 0 7 1 0 0 0 0 1 0 0 7 1 .208 .240 .292 .532
2001 ANA 13 27 25 1 2 1 0 0 3 0 0 1 0 0 2 0 0 10 0 .080 .148 .120 .268
2002 SK 132 556 499 81 140 24 0 45 299 107 4 4 0 1 49 2 7 114 8 .281 .353 .599 .952
2003 ロッテ 126 537 478 83 145 30 1 32 273 100 4 5 0 2 54 1 3 106 16 .303 .376 .571 .947
2004 西武 131 580 513 87 146 23 1 33 270 94 5 1 0 6 53 3 8 117 9 .285 .357 .526 .883
2005 120 473 420 60 123 26 1 26 229 84 5 1 0 3 46 4 4 91 12 .293 .366 .545 .911
2006 楽天 132 552 490 72 148 33 0 28 265 88 2 0 0 6 53 5 3 75 18 .302 .370 .541 .911
2007 132 502 444 52 120 15 1 22 203 79 8 7 0 4 49 4 5 94 16 .270 .347 .457 .804
2008 142 606 541 81 163 40 0 18 257 99 5 3 0 5 53 1 7 78 12 .301 .368 .475 .843
2009 オリックス 117 447 410 43 107 21 0 15 173 47 4 0 0 2 31 1 4 71 15 .261 .318 .422 .740
2010 西武 57 243 221 28 75 11 0 11 119 45 1 0 0 3 17 0 2 26 8 .339 .387 .538 .925
2011 142 577 529 49 137 21 0 17 209 81 3 3 0 7 39 4 2 84 19 .259 .308 .395 .704
2012 楽天 129 489 440 30 107 19 1 3 137 51 2 3 0 3 44 1 2 67 11 .243 .313 .311 .626
2013 オリックス 25 85 80 4 15 2 0 1 20 4 0 0 0 0 4 0 1 13 4 .188 .235 .250 .485
MLB:2年 21 52 49 1 7 3 0 0 10 1 0 1 0 0 3 0 0 17 1 .143 .192 .204 .396
KBO:1年 132 556 499 81 140 24 0 45 299 107 4 4 0 1 49 2 7 114 8 .281 .353 .599 .952
NPB:11年 1253 5091 4566 589 1286 241 5 206 2155 772 39 23 0 41 443 24 41 822 140 .282 .348 .472 .820
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績[編集]


一塁 三塁 外野




































2003 4 40 2 0 2 1.000 85 69 143 19 12 .918 -
2004 21 150 11 4 9 .976 109 103 166 19 11 .934 -
2005 17 126 8 2 7 .985 47 41 68 8 9 .932 -
2006 44 344 34 1 22 .997 91 68 142 14 11 .938 -
2007 81 575 54 12 61 .981 44 29 51 12 5 .870 -
2008 114 803 74 8 65 .991 51 29 64 9 3 .912 1 0 0 0 0 -
2009 29 213 22 3 28 .987 35 25 48 5 1 .936 -
2010 55 424 24 1 37 .998 1 0 0 1 0 .000 -
2011 42 368 31 3 36 .993 - -
2012 108 956 74 12 69 .988 - -
通算 515 3999 324 46 336 .989 463 364 682 87 52 .923 1 0 0 0 0 -
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録
2004年限りで消滅した大阪近鉄バファローズを含む13球団からの本塁打は、史上7人目[14](他の達成者はフェルナンド・セギノールフリオ・ズレータアレックス・カブレラ谷佳知和田一浩小笠原道大の6人)

背番号[編集]

  • 14 (1999年)
  • 39 (2001年)
  • 24 (2002年)
  • 42 (2003年、2006年)
  • 1 (2004年 - 2005年)
  • 17 (2007年 - 2008年)
  • 3 (2009年、2012年)
  • 52 (2010年 - 2011年)
  • 44 (2013年7月29日 - 同年終了)

登場曲[編集]

  • 『Fernando Villalona』 Dominicano Soy

脚注[編集]

  1. ^ a b “【2月19日】2003年(平15) 史上最速28日で退団 ロバート・ローズ「情熱なくなった」”. スポニチ Sponichi Annex. https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0802/kiji/K20100201Z00002900.html 2020年6月16日閲覧。 
  2. ^ 中日新聞』2003年11月29日朝刊29面「ロッテ李承燁と交渉へ フェルナンデスは退団」
  3. ^ BBMベースボールカード2004 1stバージョン No.45 ホセ・フェルナンデス」より
  4. ^ プロ野球デキゴトロジー/5月20日フェルナンデスが楽天初のサヨナラ弾【2006年5月20日】 週刊ベースボール
  5. ^ オリ・フェルナンデス移籍後初サヨナラ打 日刊スポーツ
  6. ^ フェルナンデス、5年ぶりに西武復帰[リンク切れ]
  7. ^ 余談だが、フェルナンデスと栗山巧は、2004年 - 05年までの在籍時と背番号が入れ替わっている(当時はフェルナンデスが「1」、栗山が「52」)。
  8. ^ ホセ・フェルナンデス選手との契約合意に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2011年12月11日). 2011年12月11日閲覧。
  9. ^ 2012年度 自由契約選手2012年11月21日 日本野球機構公式サイト
  10. ^ ミルズ投手、フェルナンデス選手 獲得のお知らせ オリックス・バファローズ 2013年7月21日
  11. ^ 公示(任意引退・自由契約)
  12. ^ JOSE FERNANDEZ(ホセ・フェルナンデス)との契約についてのお知らせ|埼玉西武ライオンズ”. 埼玉西武ライオンズ公式サイト (2018年1月12日). 2018年1月13日閲覧。
  13. ^ 楽天イーグルスオフィシャルサイト「Featured Players,vol.29」掲載 2007年9月11日
  14. ^ フェル 2戦連発!13球団制覇弾! スポーツニッポン 2011年5月23日閲覧

関連項目[編集]

外部リンク[編集]