ホセ・コントレラス

ホセ・コントレラス
José Contreras
フィラデルフィア・フィリーズ時代
(2010年9月28日)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地  キューバ
ピナール・デル・リオ州ラス・マルティナス
生年月日 (1971-12-06) 1971年12月6日(52歳)
身長
体重
6' 4" =約193 cm
255 lb =約115.7 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 2003年 アマチュア・フリーエージェントとしてニューヨーク・ヤンキースと契約
初出場 MLB / 2003年3月31日 トロント・ブルージェイズ
CPBL / 2015年7月5日 Lamigoモンキーズ
最終出場 CPBL / 2015年8月30日 Lamigoモンキーズ
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
指導歴
国際大会
代表チーム キューバの旗 キューバ
五輪 1996年2000年
オリンピック
男子 野球
1996 野球
2000 野球

ホセ・アリエル・コントレラス・カメホJosé Ariel Contreras Camejo, 1971年12月6日 - )は、キューバピナール・デル・リオ州ラス・マルティナス出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。

経歴[編集]

キューバ時代[編集]

キューバ代表のエース格投手としてプレーするとともに、1992-1993シーズンからキューバ国内リーグ"セリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル"のベゲーロス・デ・ピナール・デル・リオに在籍。

1995年第12回IBAFインターコンチネンタルカップのキューバ代表に選出された。同大会では優勝し、金メダルを受賞した。

1996年7月にアトランタオリンピックの野球キューバ代表に選出された。同大会で優勝し、金メダルを受賞した。

1996-1997シーズンに14勝・135奪三振最多勝最多奪三振のタイトルを獲得。

1997年7月に第13回IBAFインターコンチネンタルカップのキューバ代表に選出された。同大会では準優勝し、銀メダルを受賞した。

1998年7月に第33回IBAFワールドカップのキューバ代表に選出された。同大会では優勝し、金メダルを受賞した。 8月には1998年中央アメリカ・カリブ海競技大会の野球キューバ代表に選出された。同大会では優勝し、金メダルを受賞した。

1999年3月にはハバナエスタディオ・ラティーノアメリカーノで開催された「ボルチモア・オリオールズ対キューバ代表の親善試合」のキューバ代表に選出された。第1戦に登板。8回を無失点に抑え、同時に10奪三振をマーク。この頃からメジャーリーグのスカウトに注目されるようになった。 7月には1999年パンアメリカン競技大会の野球キューバ代表に選出された。同大会では優勝し、金メダルを受賞した。

2000年9月にシドニーオリンピックの野球キューバ代表に選出された。同大会では準優勝し、銀メダルを受賞した。

2001年11月に第34回IBAFワールドカップのキューバ代表に選出された。

2001-2002シーズンには143.1イニングを投げて13勝4敗・防御率1.76・149奪三振を記録、最優秀防御率に輝いた。

2002年10月にキューバ代表としてメキシコアメリカス・シリーズに出場した際に亡命。その後、ニカラグアの居住権を得る。

ヤンキース時代[編集]

2003年2月6日にニューヨーク・ヤンキースと総額3200万ドルの4年契約を結んだ。この競争に敗れたボストン・レッドソックスCEOであるラリー・ルキーノはヤンキースの事を「悪の帝国」と表現した。3月31日のトロント・ブルージェイズ戦においてメジャーデビューを果たし、7勝2敗、防御率3.30の記録を挙げるものの、2ヶ月間を肩甲下筋の張りにより故障者リストの上で過ごす。マイナーリーグ行きも4回命じられ、リリーフ投手としての起用も目立った。先発投手としては6勝1敗防御率2.34をマークする一方、リリーフとしては1勝1敗防御率7.43であった。この年最良の登板は9月23日にUSセルラー・フィールドで行われたホワイトソックス戦であり、8回を無失点に抑え9奪三振を記録。また、8試合ものポストシーズン試合に登板するが、11投球回で防御率は5.73、0勝2敗に終わった。

2004年のスプリングトレーニングでは球団上層部は先発でコントレラスを投げさせる事を示唆。しかし、実際に開幕を迎えると安定した成績を残す事は出来なかった。5月5日から5月21日までの約1ヶ月間をマイナーで過ごす。結局この年で一番良かった登板は6月27日のニューヨーク・メッツ戦であり、10奪三振を記録。しかしこの試合でそれ以上に重要だった事は、亡命後初めて妻ミリアムと2人の娘(ネイランとネイレニー)の前で投げられた事だった。

ホワイトソックス時代[編集]

2004年7月31日のトレード期限最終日にエステバン・ロアイザとのトレードでシカゴ・ホワイトソックスへ移籍。移籍後も不安定な投球を続け、結局13勝と150奪三振を挙げるものの防御率は5.50であった。

2005年のシーズン開幕から5登板連続で勝敗が付かず、オールスター休暇までは4勝3敗とパッとしない始まり方だった。しかし休暇後の7月14日にクリーブランド・インディアンスを1-0で破ると、波に乗り、チーム自体もプレイオフへの快進撃を続ける中チームで最も信頼できる投手へと成長していった。最後8回の登板では全て勝ち星を挙げ、時たま連敗をも止めチームに貢献。この急成長の理由として挙げられるのが、同じくキューバから亡命したチームメイトオーランド・ヘルナンデスの影響で投球フォームの中で腕を下げ始めたのが原因とされている。後半戦のみで挙げた11勝はアンディ・ペティットと並びメジャー記録。この2005年シーズンを15勝7敗防御率3.61の好成績で終える。プレーオフでは全てのシリーズの第1戦に登板。全体では3勝1敗防御率3.09をマーク。同年ホワイトソックスは悲願のワールドシリーズ制覇を成し遂げるが、コントレラスの名はキューバのテレビではフィデル・カストロ議長の命令により放送禁止となる。また、ホワイトソックスが出場したワールドシリーズもこの影響で放送禁止となり、国民は違法な衛星放送で見る他なかった。

2006年シーズン開幕前にホワイトソックスと3年間の契約延長を結ぶ。前年の好調をそのまま引き継ぎ、7月6日時点では9勝0敗防御率3.31を記録。6月17日にシンシナティ・レッズから勝ち星を挙げた事により、前年からの自身16連勝はチーム記録となる(それまでの記録はラマー・ホイトウィルソン・アルバレスが保持していた15連勝)。コントレラスは数字を17にまで伸ばすものの、7月14日に古巣ヤンキースに敗れ記録はストップ。オールスターにも選ばれるが、前半戦最終戦で6回117球を投げてしまったため代役としてミネソタ・ツインズのルーキーフランシスコ・リリアーノが出場。後半戦の初戦で先発登板した事から、コントレラスは30年ぶりに(記録上)2試合連続先発登板した投手となった。年間を通し神経痛に苦しみ、5月には15日間の故障者リストにも登録されていた。結局13勝9敗防御率4.27に終わる。

2007年はなんとか4年連続の2桁勝利となる10勝を挙げたものの、リーグワーストの防御率5.57、リーグワースト2位の17敗をマーク。特に6月24日から7月末までの間に7連敗し、一時期、メジャー1年目の2003年以来となる中継ぎへ降格となるなど失意の1年となった。

2008年8月9日のボストン・レッドソックス戦で松坂大輔と投げ合うはずだったが、初回一塁ベースカバーに入った際アキレス腱断裂という重傷を負い降板した。最終的には7勝止まりとなり、それまで4年連続で2桁勝利をあげていたが、この年でストップした。

2009年3月10日に正式にアメリカ合衆国市民権を取得する[1]。シーズン序盤から不安定な投球が続いた。

ロッキーズ時代[編集]

2009年8月31日にマイナー選手のブランドン・ハイニックとの交換トレードでコロラド・ロッキーズへ移籍した[2]。トレードで放出された時点では5勝13敗と散々な成績であったが、ロッキーズでは主に中継ぎとして使われ、防御率1.59という安定感を示していた。11月9日にFAとなった。シーズンオフには息子が日本の高校進学を望んだこともあり日本球界でのプレイを視野に入れ、阪神タイガース福岡ソフトバンクホークスに売り込みを行ったが断られた[3]。 

フィリーズ時代[編集]

2010年1月28日にフィラデルフィア・フィリーズと1年150万ドル(約1億4000万円)で契約を結んだ。初めてフルタイムのリリーバーとしてプレーし、ほぼシーズンを通して防御率3点台を記録し、クローザーブラッド・リッジの故障中には代役を務めるなど、安定した活躍を見せた。11月1日にFAとなったが、11月15日にフィリーズと2年総額500万ドルで再契約した[4]

2012年は故障者リスト入りでシーズンのほとんどを過ごした後に17試合登板したが、防御率5.27と結果を残せずに終わる。10月29日にFAとなる。

2013年1月29日、キューバ政府が自由化の一環で国民の海外渡航制限を緩和したことから、約10年ぶりに帰郷した[5]

パイレーツ時代[編集]

2013年2月23日にピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結んだ[6][7]。7月18日に放出された[8]

パイレーツ退団後[編集]

2013年7月19日にボストン・レッドソックスとマイナー契約を結んだ[9]が、8月19日に放出された[10]。12月5日にテキサス・レンジャーズとマイナー契約を結んだ[11]

2014年3月22日に解雇となり、4月1日にリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルティフアナ・ブルズと契約。

2015年4月2日にティファナ・ブルズを解雇となり、6月3日に台湾プロ野球・中華職業棒球大聯盟中信兄弟と契約。8月31日に選手としての登録を外れ、以降は臨時投手コーチとしてチームに帯同。

2016年3月28日にリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルキンタナロー・タイガースと契約。5月25日に自由契約となる。

プレースタイル・人物[編集]

かつては最速98マイルの球速を誇り[12]サイドスロー気味とスリークォーター気味の2種類の投げ方を使い分ける。

メジャーでは数少なくなったフォークボールの使い手でもあり、このフォークボールはソフトボールで練習をした[13]

キューバ人特有の飛行機嫌いとして知られる[14]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
2000-2001 PRI 24 23 6 -- -- 14 6 0 -- .700 675 159.1 167 13 45 3 7 188 18 1 68 62 3.50 1.33
2001-2002 20 20 6 -- -- 13 4 0 -- .765 574 143.1 110 4 41 4 11 149 10 0 43 28 1.76 1.05
2003 NYY 18 9 0 0 0 7 2 0 1 .778 293 71.0 52 4 30 1 5 72 2 0 27 26 3.30 1.15
2004 18 18 0 0 0 8 5 0 0 .615 425 95.2 93 22 42 1 6 82 10 0 66 60 5.64 1.41
CWS 13 13 0 0 0 5 4 0 0 .556 333 74.2 73 9 42 0 2 68 7 0 48 44 5.30 1.54
'04計 31 31 0 0 0 13 9 0 0 .591 758 170.1 166 31 84 1 8 150 17 0 114 104 5.50 1.47
2005 32 32 1 0 0 15 7 0 0 .682 857 204.2 177 23 75 2 9 154 20 2 91 82 3.61 1.23
2006 30 30 1 1 0 13 9 0 0 .591 833 196.0 194 20 55 4 10 134 16 0 101 93 4.27 1.27
2007 32 30 2 2 0 10 17 0 0 .370 858 189.0 232 21 62 1 15 113 3 0 134 117 5.57 1.56
2008 20 20 1 0 1 7 6 0 0 .538 522 121.0 130 12 35 0 3 70 6 0 64 61 4.54 1.36
2009 21 21 0 0 0 5 13 0 0 .278 513 114.2 121 11 45 3 6 89 8 0 83 69 5.42 1.45
COL 7 2 0 0 0 1 0 0 1 1.000 288 17.0 20 2 8 1 0 17 0 0 3 3 1.59 1.65
'09計 28 23 0 0 0 6 13 0 1 .316 589 131.2 141 13 53 4 6 106 8 0 86 72 4.92 1.47
2010 PHI 67 0 0 0 0 6 4 4 13 .600 233 56.2 53 5 16 2 4 57 0 0 22 21 3.34 1.22
2011 17 0 0 0 0 0 0 5 4 ---- 60 14.0 11 0 8 0 1 13 0 0 6 6 3.86 1.36
2012 17 0 0 0 0 1 0 0 4 1.000 56 13.2 13 1 3 0 1 15 0 0 10 8 5.27 1.17
2013 PIT 7 0 0 0 0 0 0 0 2 ---- 28 5.0 7 1 6 0 0 5 0 0 5 5 9.00 2.60
2015 兄弟 7 7 0 0 0 4 1 0 0 .857 202 47.0 46 4 18 0 3 32 2 0 28 18 3.45 1.36
CNS:2年 44 43 12 -- -- 27 10 0 -- .730 1249 302.2 277 17 86 7 18 337 28 1 111 90 2.68 1.20
MLB:11年 299 175 5 3 1 78 67 9 25 .538 5087 1173.0 1176 131 427 15 62 889 72 2 660 595 4.57 1.37
CPBL:1年 7 7 0 0 0 4 1 0 0 .857 202 47.0 46 4 18 0 3 32 2 0 28 18 3.45 1.36
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 「-」は記録なし
  • キューバで通常用いられる個人通算成績は、プレーオフや選抜リーグなども合算するため、この表の合計とは一致しない

背番号[編集]

  • 52(2003年 - 2009年途中、2010年 - 2013年、2015年)
  • 54(2009年途中 - 同年終了)

キューバ国内リーグ(選抜リーグ含む)通算投手成績(10シーズン)[編集]

117勝50敗、防御率2.82、与四球率3.14、奪三振率8.22、被本塁打率0.45、WHIP1.25
232試合、203先発、1473イニング、514与四球敬遠22)、91与死球、1346奪三振、74被本塁打 

記録[編集]

代表歴[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Contreras, Colon impress in session” (英語). MLB.com. 2012年12月1日閲覧。
  2. ^ Rockies acquire veteran righty Contreras Team deals prospect Hynick for postseason veteran”. rockies (2009年9月1日). 2009年9月1日閲覧。
  3. ^ コントレラスが日本球界に“就活” 日刊スポーツ
  4. ^ Phillies Re-Sign Jose Contreras MLB Trade Rumors
  5. ^ コントレラス涙のキューバ帰郷 米亡命から10年ぶり”. スポニチ Sponichi Annex (2013年1月31日). 2013年2月4日閲覧。
  6. ^ 41歳コントレラスと契約=米大リーグ・パイレーツ”. 時事ドットコム (2013年2月24日). 2013年5月9日閲覧。
  7. ^ Pirates sign Jose Contreras to a Minor League deal MLB.com
  8. ^ Pirates Release Jose Contreras MLB Trade Rumors
  9. ^ Red Sox Sign Contreras, Lyon To Minor League Deals MLB Trade Rumors
  10. ^ Red Sox Release Jose Contreras MLB Trade Rumors
  11. ^ Texas Rangers sign three minor league free agents with Spring Training invitations MLB.com
  12. ^ 月刊スラッガー』2002年12月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-12、74頁。
  13. ^ 鉄矢多美子鉄矢多美子「Field of Dreams」第120幕 17連勝を支えた五色のボール」 『nikkansports.com』、2006年7月22日。2008年10月11日閲覧。
  14. ^ ナガオ勝司「驚異の新人、現る!」『ベースボールマガジン11月号増刊 メジャーリーグ 2014記録集計号』、ベースボールマガジン社、16-17頁、雑誌07916-12。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]