ベーケーシュチャバ

ベーケーシュチャバ
Békéscsaba
市街
市街
ベーケーシュチャバの市旗 ベーケーシュチャバの市章
市旗 市章
位置
の位置図
座標 : 北緯46度40分44.4秒 東経21度5分27.6秒 / 北緯46.679000度 東経21.091000度 / 46.679000; 21.091000
行政
 ハンガリー
  ベーケーシュ県の旗 ベーケーシュ県
 市 ベーケーシュチャバ
市長 Vantara Gyula
地理
面積  
  市域 193.94 km2
標高 90 m
人口
人口 (2007年現在)
  市域 65,206人
    人口密度   338人/km2
その他
等時帯 中央ヨーロッパ時間 (UTC+1)
夏時間 中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2)
公式ウェブサイト : http://www.bekescsaba.hu/

ベーケーシュチャバハンガリー語Békéscsaba[ˈbeːkeːʃˌtʃɒbɒ]スロバキア語: Békešská Čabaルーマニア語: Bichişciaba, ドイツ語:Tschabe)は、ハンガリー南東部の都市。ベーケーシュ県の県都。

統計[編集]

2001年の調査では、市の人口は67,383人だった。93.8%がハンガリー人、6%がスロバキア人、0.6%がドイツ人、0.4%がロマ人、0.4%がルーマニア人、0.2%がスロヴェニア人、0.1%がウクライナ人、5.6%が不明である。 1880年の調査によると、ベーケーシュチャバは25,339人のスロバキア人と、6,579人のハンガリー人が暮らしていた。

歴史[編集]

古代からこの地域に人が住んでいたことが知られる。鉄器時代にはスキタイ人、ケルト人フン族がこの地を征服した。ハンガリー人の征服後、地域には多くの小村があった。

チャバ(Csaba)という名の村が1330年代に初めて記録された。チャバと同様、その他の8つの村が、今のベーケーシュチャバの場所にあった。オスマン帝国のハンガリー征服後、ハンガリーはトルコ領ハンガリーハプスブルク領ハンガリー王国東ハンガリー王国とに分割された。この時代にチャバと他の村は存続できたものの、17世紀の対トルコ戦争の間に絶えてしまった。

1715年、チャバは荒廃した地として記録されたが、わずか1年後には、その名前が税を納めた町の名前を記録した文書の中に見つかっている。新しいチャバは、トルコとの解放闘争で功績をたて、ベーケーシュ県の地域を購入したジェルジ・ヤーノシュ(János György Harruckern)により建設されたとされる。1847年から、町は22,000人の人口を持ち、ハンガリー国内の大規模市町20位内に入っていた。それにもかかわらず、チャバはぬかるんだ通りと密集した家々の並ぶ、大きな村のような状態のままだった。

1858年から、町に鉄道がひかれたことで発展が始まった。新たな住宅、工場が建てられ、町は繁栄し始めた。それでもなお、19世紀終わり頃には失業状態が大きな不満を引き起こし鬱屈がたまっていた。1891年に起きた暴動はルーマニア王国軍の支援を受けて鎮圧された。

第一次世界大戦で町は被害を受けた。1919年から1920年の間、ベーケーシュチャバはルーマニアに占領された。トリアノン条約の結果、ハンガリーは、アラド、ナジヴァーラド(現在のオラデア)など南部の重要な都市の多くを失った。ハンガリーに残ったベーケーシュチャバは、これらの都市の役割を引き継ぎ、南東部最大の主要都市となっていった。

2つの世界大戦の間には、景気の後退が貧困と失業をもたらした。そして1925年に町を襲った洪水にも支援はなかった。

第二次世界大戦中、戦闘が町周辺で起こることはなかったが、1944年に起きた2つの悲劇的な事件が町に衝撃を与えた。6月24日から26日にかけての3日間、ユダヤ系住民およそ3,000人がアウシュヴィッツ強制収容所へ送還された。彼らの中には、アウシュヴィッツやダッハウで命を落とした者がいたのである。

9月21日、イギリス空軍アメリカ空軍の爆撃機がベーケーシュチャバの鉄道駅とその周辺に爆撃を行い、100人以上の住民が犠牲となった。1944年10月6日、ソビエト軍がベーケーシュチャバを占領した。

共産主義政権下のベーケーシュチャバは、ベーケーシュ県の県都となった(1950年)。そして国内有数の食品加工産業の中心地として発展していった。1990年に民主化されると、工場は経済危機に陥り、多くの住民が職を失った。現在、経済危機は過ぎ去ったように見え、ベーケーシュチャバは再び繁栄を続けている。

見どころ[編集]

出身者[編集]

姉妹都市[編集]

ギャラリー[編集]

外部リンク[編集]