フェロー諸島沖海戦

フェロー諸島沖海戦
戦争第二次世界大戦
年月日:1939年11月23日
場所フェロー諸島北西沖
結果:ドイツの勝利
交戦勢力
イギリスの旗 イギリス帝国 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
指導者・指揮官
イギリスの旗 エドワード・ケネディ大佐   ナチス・ドイツの旗 ヴィルヘルム・マルシャル大将
戦力
補助巡洋艦1 高速戦艦2[注釈 1]
損害
補助巡洋艦1沈没 なし
大西洋の戦い

フェロー諸島沖海戦[4]第二次世界大戦中の海戦1939年(昭和14年)11月23日午後、北大西洋へ進出しようとしたドイツ海軍シャルンホルスト級戦艦 (Schlachtschiffe der Scharnhorst-Klasse) 2隻がイギリス補助巡洋艦ラワルピンディと遭遇し、それを撃沈した[5][6]。この戦闘の結果、ドイツ艦は出撃を取りやめドイツへ引き返した[7][8]イギリス海軍はラワルピンディを沈めた敵戦艦をポケット戦艦と誤認し[注釈 2]、大規模な捜索をおこなったが[10][11]、発見できずに取り逃がした[12][注釈 3]

背景[編集]

1939年(昭和14年)9月の第二次世界大戦開戦以降、大西洋とインド洋でドイツ海軍ポケット戦艦[14][注釈 4]アドミラル・グラーフ・シュペー (Die Admiral Graf Spee) が通商破壊作戦を行っていた[20][21]。また10月には姉妹艦ドイッチュラント (Deutschland) が大西洋北部で通商破壊作戦を実施していた[注釈 5]。ドイツ通商破壊艦に対抗するためイギリス海軍は輸送船団に強力な護衛艦を付随させ、また多数の任務部隊を展開してポケット戦艦を捕捉しようとした[23][注釈 6]。 アドミラル・グラーフ・シュペーに対する圧力を低減するため、ドイツ海軍は巡洋戦艦戦艦[注釈 7]シャルンホルスト (Scharnhorst) とグナイゼナウ (Gneisenau) をアイスランド南方へ出撃させることにした[7]

経過[編集]

戦闘前[編集]

11月21日、シャルンホルスト級戦艦2隻(グナイゼナウ〈旗艦〉、シャルンホルスト)は艦隊司令長官ヴィルヘルム・マルシャル大将の指揮の下でヴィルヘルムスハーフェンを出撃した[12]。この出撃には軽巡洋艦ケルン (Köln) 、ライプツィヒ (Leipzig) 、駆逐艦複数隻(ベルント・フォン・アルニムカール・ガルスターエーリッヒ・ギーゼ)、水雷艇4隻も同行した[26]。これらは22日に巡洋戦艦2隻と分かれてポケット戦艦リュッツオウ(旧ドイッチェラント)などと共にスカゲラク海峡へ通商破壊戦に向かった[27][注釈 8]

シャルンホルスト級2隻は荒天の中を航行した[28]。軽巡コロンボ (HMS Colombo,D89) 、カーディフ (HMS Cardiff,D58) 、カレントン (HMS Caledon,D53) が哨戒してたが、シャルンホルスト級2隻を発見できなかった[26]。ドイツ艦は欺瞞のためイギリスの戦闘旗を掲げるということもしていたが、イギリスに発見されることはなく、23日の午後にはフェロー諸島の北西に到達していた[27]

イギリスはこの海域に巡洋艦や商船改造の補助巡洋艦 (Auxiliary Cruiser) を配置して哨戒をおこなっており、この時は軽巡洋艦ニューカッスル (HMS Newcastle, C76) 、デリー (HMS Delhi,D47) 、カリプソ (HMS Calypso, D61) 、シアリーズ (HMS Ceres,D59) 、補助巡洋艦ラワルピンディ(Rawalpindi) がその任務に就いていた[29]。その中の1隻で北方哨戒隊に所属していたラワルピンディと、シャルンホルストが遭遇して本海戦に至った[27]

戦闘[編集]

ドイツ艦2隻は旗艦グナイゼナウが先頭で、シャルンホルストとは20km距離を開けていた。11月23日16時7分(ドイツ時間、以下同じ)イギリス軍記録14時23分[30]、ラワルピンディを発見したシャルンホルストが進路を変更し、ラワルピンディの方へ向かった。シャルンホルストは停船を命じ艦名を尋ねたが、ラワルピンディは「F=A=M」と答えるのみで停船はしなかった。ラワルピンディは霧の中や、氷山の陰に隠れようと必死で逃走する[30]。ドイツ戦艦の降伏勧告に対し、ラワルピンディは以下のように返答したという。

We’ll fight them both, they’ll sink us, and that will be that. Good-bye.
(我々は互いに戦い、君たちは我々を沈めるだろう、それで結構。さらば。)

17時3分、両艦は交戦を開始した[31]。現実問題として、補助巡洋艦(仮装巡洋艦)と高速戦艦では[32]、勝負にならなかった[33]。すぐにラワルピンディにシャルンホルストの28センチ主砲弾が命中し、ラワルピンディは炎上した[34]。ラワルピンディは「ドイッチュラントと交戦中である」との電文を発したが、17時6分に受けた命中弾でケネディ艦長は戦死、無線室も破壊された[34]。シャルンホルストも砲弾の破片によって被害が生じた。グナイゼナウも17時11分に戦闘に加わったが、17時16分に砲撃を中止した。

戦闘後[編集]

約30分の砲撃戦で、ラワルピンディは沈没した[35]。沈没前に「救難艇の派遣を乞う」と信号をおくったので、シャルンホルストが生存者救助に向かい、27名を救助した[34]。だが19時15分に、ラワルピンディからの報告を受けてやってきたイギリスの軽巡洋艦ニューカッスル (HMS Newcastle, C76) を発見し、救助作業を中止した。イギリスに発見され、イギリスの本国艦隊が捜索に出撃したことから、マルシャル中将はイギリスの包囲網から逃れるため北大西洋への出撃を中止して退避する[36]。なお、ラワルピンディの生存者はシャルンホルストの救助された27名のほか[37]、イギリスの補助巡洋艦チトラル (HMS Chitral) によって11名が救助された[35]。戦死者は270名であった[38][注釈 9]

ニューカッスルはドイツ艦を発見して追跡したが[38]、まもなく19時24分にドイツ艦を見失った。ニューカッスルも「ドイッチュラントを視認した」と報告した[37]。ラワルピンディおよびニューカッスルの報告から、イギリス海軍は「ポケット戦艦が北大西洋で行動中」と判断する[9]。そこでクライドから本国艦隊(司令長官チャールズ・フォーヴス大将)のネルソン級戦艦2隻と重巡洋艦デヴォンシャー (HMS Devonshire, 39) 、駆逐艦7隻を出撃させた[39]。 そのほかにも軽巡サウサンプトン (HMS Southampton, C83) 、エディンバラ (HMS Edinburgh, C16) 、オーロラ (HMS Aurora) 、シェフィールド (HMS Sheffield, C24) 、重巡ノーフォーク (HMS Norfolk, 78) 、サフォーク (HMS Suffolk, 55) など、多数の巡洋艦や駆逐艦を捜索に当てた[39]。さらに、カナダハリファックスからイギリスにむかうHX9船団を護衛中だった戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) も、デンマーク海峡の警戒と索敵を命じられた[注釈 10]。加えて、ハリファックスからは巡洋戦艦レパルス (HMS Repulse) と空母フューリアス (HMS Furious, 47) が出撃した[40][注釈 11]。 25日には巡洋戦艦ダンケルク (Dunkerque) などからなるフランス艦隊(襲撃部隊、司令官ジャンスール提督)も出撃し[40]、これに巡洋戦艦フッド (HMS Hood) も加わった[43][44]

以上のようにイギリス海軍は多数の艦艇を出動させて哨戒線を形成し、また捜索活動をおこなった[45]。だが、ドイツ高速戦艦の捕捉に失敗した[11]。グナイゼナウとシャルンホルストは26日に嵐にまぎれて発見されることなくノルウェー沖を南下した[46]27日、無事にヴィルヘルムスハーフェンに帰還する[36]。ドイツ側は「ドイッチェランドがラワルピンディを撃沈した」という連合国軍側の誤解を訂正しなかったので、世界各国も本海戦に参加した艦艇を誤認していた[注釈 12]

一方、イギリス側では戦艦ロドニー (HMS Rodney, 29) が舵機故障を起こし、クライド帰投後にドッグ入りを余儀なくされた[47]。さらに12月4日には、戦艦ネルソン (HMS Nelson, 28) がユー湖U-31英語版ドイツ語版が敷設した機雷により損傷、7か月も修理のため戦線を離脱し、本国艦隊旗艦は戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) となった[47]

帰投後、マルシャルは高速戦艦2隻を擁しながら軽巡洋艦1隻(ニューカッスル)を攻撃しようとせず逃走したことを、ドイツ海軍上層部から非難された[48]海軍作戦部部長のクルト・フリッケ少将は「戦艦の役割は砲撃することだ。煙幕を張ることじゃない」と評した[48]。これに対しマルシャルは「主力艦は夜間に魚雷を持った相手に近づくべきではないとされている」「駆逐艦が1隻も随伴していない状況で、夜戦の危険を冒せなかった」「貴重なシャルンホルスト級をいかなる危険にも晒すわけにはいかなかった」[48]と反論した。

ポーランド戦役の敗北や、西部戦線まやかし戦争)で将来が見通せない中、ラワルピンディの奮闘にイギリス国民は喝采をおくった[33][注釈 13]。後日、イギリスはラワルピンディ乗組員に勲章を授与し、戦死したケネディ艦長には柏葉敢闘章が追贈された。ドイツ側も、海戦に参加したシャルンホルストとグナイゼナウ乗組員に艦隊戦闘章を授与した。

出典[編集]

注釈[編集]

  1. ^ シャルンホルスト級戦艦について、充分な装甲防御を備えた巡洋戦艦とする見解がある[1]。イギリス海軍は巡洋戦艦と評価していた[2]。ドイツ海軍の正式な類別は装甲艦戦艦[3]
  2. ^ 〔 第五、英のラワルビンデー號撃沈さる[9] 一九三九年十月廿八日のロンドン電は西大西洋でイギリスの假装巡洋艦ラワルビンデー號(一六,六九七トン)がドイツの豆戰艦ドイツエランド號他一艦と砲戰を交へ、遂に撃沈されたと次のやうに詳細に記述してゐる。
     悠然としてラ號の眼前に現れた豆戰艦に對し、ラ號は砲力に於て到底太刀出來ぬ事を知つてゐたから逸早く煙幕を展張して韜晦を試みたが既に間に合はず、豆戰艦の外に他の一隻も姿を現して來た。此時ドイツ側はラ號の前方に發砲停船を命じたがイギリス海軍士官の負けじ魂はこれに應ずる筈はなく、一萬ヤードの距離にあつて及ばずながら小砲を以て立向つた。互に砲戰を交へること卅分、十一吋砲第三回の齋射はラ號の電氣装置を破壊し、電燈は全く消えてしまつた。第四回の齋射によつて船橋が吹き飛ばされ、無電設備も全く用をなさなくなつた。無電の使へる中は近方にある味方の軍艦にSOSを放つて救助を求めたらしいが、その術もなくなり沈没のみを待つてゐる時、他の一艦は船尾に廻つて猛射を浴せかけて來た。これによつて砲全部が破壊されたのだ。船尾と船首以外はすつかり火に包まれたのでドイツ側は射撃を中止した。三隻のボートの中一隻は水浸しになつたため廿餘名はドイツの手に捕へられ、急を聞いて午後六時過に驅けつけたイギリス巡洋艦に救助されたものは僅かに十一名であつた。ユニオンジヤツクはラ號の檣頭に最後まではためいてゐたが、船は午後八時迄燃え續け、船長ケネデー以下二百五十名を抱いたまゝ沈没してしまつた。捕虜を収容した獨艦は英艦の來援に先立ち、暗闇に紛れて逃げ去つたのはいふまでもない。
     英艦は長蛇を逸して切歯扼腕したが後の祭だつた。この頃からイギリスは南大西洋に出没して通商路を破壊しつゝある豆戰艦の捜索に躍起となつてゐたが、杳として獨艦の消息が掴めなかつた。
  3. ^ この捜索に参加したネルソン級戦艦2隻のうち、戦艦ロドニー (HMS Rodney, 29) は機械故障を起こし、戦艦ネルソン (HMS Nelson, 28) はドイツ軍の機雷により損傷、2隻ともしばらく戦列を離れた[13]
  4. ^ “ポケット戦艦”は通称で[15]、ドイツ海軍の公式分類は装甲艦 [16](Panzerschiff) [17]。のちに重巡洋艦に類別変更された[18]。ポケット戦艦の大敵は、速力と火力で優位に立つ巡洋戦艦であった[19]
  5. ^ ドイッチェラントの戦果は乏しかったが、イギリス軍の警戒網を潜り抜けて無事にドイツ本国へ帰投し、11月15日ゴーテンハーフェンに到着した[22]
  6. ^ 10月、海軍本部は南大西洋艦隊を増強し、フリータウンやジャマイカに戦艦や空母を派遣、さらに掃討部隊としてK部隊などを新編した[24]
  7. ^ イギリス海軍を筆頭に、一部の二次資料ではシャルホルスト級を巡洋戦艦と見做すが[25][26]、ドイツ海軍における正式な類別は戦艦 (Schlachtschiff) である[2]
  8. ^ アドルフ・ヒトラー総統の懸念により、ドイッチュラントは11月15日付でリュッツオウ (Lützow) と改名していた[22]
  9. ^ Rawalpindi(英語版)では238名戦死とする。
  10. ^ 11月24日午後、ウォースパイト(艦長ヴィクター・クラッチレー大佐)は海軍省からデンマーク海峡への進出と、もしドイツ艦が海峡を通過するなら阻止するように命じられた[5]
  11. ^ イギリス海軍は23日にシュペー捜索部隊の新配備を発動したばかりだった[41]。空母フューリアスと巡洋戦艦レパルスはL部隊に配置された[42]
  12. ^ 八 シュペー號をめぐつて[32](中略)他の一の戰例として此の巡洋艦の備砲問題に關係してゐるのは、ドイツチランド號と、ラワルピンヂ號との海戰であつた。このドイツチランド號は、グラーフシュペー號と同じく、ポケツト戰艦である。そして之は、その十一吋の砲火を以て、英艦を沈めたのであつた。この英國のラワルピンチ號は正規の巡洋艦でなく、補助巡洋艦であつて、その性能は甚しく異なつてゐる。その速度は、ポケツト戰艦に劣ること甚しく、完全にドイツチランド號の砲火の的となり、しかも砲塔以外には装甲は殆どなく、その兵員の訓練も行きとゞかず、從つて正常の砲の効果を上げることが出來ないのであつた。又いづれの場合に於ても、六吋砲装備の軍艦が、十一吋砲装備の主力艦に對抗することが全然無理であつた。
  13. ^ イギリス国民は、スペイン帝国無敵艦隊を相手に孤軍奮闘して沈没(戦死)したリヴェンジ(艦長サー・リチャード・グレンヴィル)を想起したという[33]

脚注[編集]

  1. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 37.
  2. ^ a b ヒトラーの戦艦 2002, p. 4.
  3. ^ 高速戦艦脱出せよ 1977, p. 11(著者のノートより)
  4. ^ 福田誠、光栄出版部 編集『第二次大戦海戦事典 W.W.II SEA BATTLE FILE 1939~45』、光栄、1998年、ISBN 4-87719-606-4、200ページ
  5. ^ a b ウォースパイト 1998, p. 140.
  6. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, p. 81.
  7. ^ a b 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 49a-50「シャルンホルスト」北大西洋へ
  8. ^ 撃沈戦記 1988, p. 279その後の仮装巡洋艦
  9. ^ a b 烈強の臨戦態勢 1941, pp. 110–111(原本196-198頁)ラ號撃沈
  10. ^ 撃沈戦記 1988, pp. 276a-278英海軍、大捜索を開始
  11. ^ a b 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, p. 138第17図 シャルンホルスト、グナイゼナウ部隊の1939年11月22~26日における作戦航跡図
  12. ^ a b ヒトラーの戦艦 2002, pp. 94–100英仮装巡洋艦〈ラワルピンディ〉対独戦艦
  13. ^ 世界の艦船、826号 2015, pp. 102a-103「ビッグ7」の戦歴 ◆ネルソン級
  14. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, pp. 33–40(2)ポケット戦艦
  15. ^ 英国はいつまで戦へるか 1941, pp. 58–60105-109頁(五 主力艦・巡洋艦の作戰)
  16. ^ ヒトラーの戦艦 2002, pp. 46–49ヒトラーの戦艦第一号 ― ポケット戦艦
  17. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, pp. 130–132装甲艦の戦術的価値
  18. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 30–33一万トン級小型戦艦を建造
  19. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 32–33.
  20. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 44–48ポケット戦艦で通商破壊
  21. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, p. 65第6図 シュペーの航路図
  22. ^ a b ヒトラーの戦艦 2002, pp. 86–88〈ドイッチュラント〉の改名
  23. ^ ヒトラーの戦艦 2002, pp. 81–82.
  24. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, p. 75第5表 1939年10月5日現在の掃討部隊編成
  25. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 40.
  26. ^ a b c 撃沈戦記 1988, p. 270.
  27. ^ a b c ヒトラーの戦艦 2002, p. 95.
  28. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 49b.
  29. ^ 撃沈戦記 1988, p. 273.
  30. ^ a b 撃沈戦記 1988, p. 274.
  31. ^ ヒトラーの戦艦 2002, p. 96.
  32. ^ a b 英国はいつまで戦へるか 1941, pp. 63–64原本114-116頁
  33. ^ a b c ビーヴァ―、第二次世界大戦(上) 2015, pp. 101–102.
  34. ^ a b c ヒトラーの戦艦 2002, p. 97.
  35. ^ a b ブラッセー海軍年鑑 1940, p. 41原本67頁
  36. ^ a b 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 50.
  37. ^ a b ヒトラーの戦艦 2002, p. 98.
  38. ^ a b 撃沈戦記 1988, p. 276b.
  39. ^ a b 撃沈戦記 1988, p. 277.
  40. ^ a b 撃沈戦記 1988, p. 278.
  41. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, p. 80.
  42. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, p. 79第6表 1939年11月23日における掃討部隊配備
  43. ^ 撃沈戦記 1988, p. 335.
  44. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 102–103.
  45. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, pp. 136–137.
  46. ^ ヒトラーの戦艦 2002, p. 99.
  47. ^ a b 世界の艦船、826号 2015, pp. 102b-103.
  48. ^ a b c ヒトラーの戦艦 2002, p. 100.

参考文献[編集]

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関連項目[編集]