ピョートルクフ・トルィブナルスキ

ピョートルクフ・トルィブナルスキ
Skyline of ピョートルクフ・トルィブナルスキ
ピョートルクフ・トルィブナルスキの旗
ピョートルクフ・トルィブナルスキの紋章
紋章
ピョートルクフ・トルィブナルスキの位置(ポーランド内)
ピョートルクフ・トルィブナルスキ
ピョートルクフ・トルィブナルスキ
北緯51度24分0秒 東経19度41分0秒 / 北緯51.40000度 東経19.68333度 / 51.40000; 19.68333
ポーランドの旗 ポーランド
ウッチ県
面積
 • 都市 67.27 km2
人口
(2021)
 • 都市 71,252人
 • 密度 1,100人/km2
 • 都市圏
200,000人
等時帯 UTC+1 (CET)
 • 夏時間 UTC+2 (CEST)
郵便番号
97-300 ~ 97-312
市外局番 +48 044
ナンバープレート EP
ウェブサイト https://www.piotrkow.pl

ピョートルクフ・トルィブナルスキPiotrków Trybunalski [ˈpʲɔtrkuf trɨbuˈnalskʲi] ( 音声ファイル)、ピョートルクフ・トリブナルスキとも)は、ポーランド中央部の都市で、1999年よりウッチ県に属する。1975年から1998年まではピョートルクフ県の県都であった。現在はピョートルクフ郡の中心市である。

歴史[編集]

近代[編集]

第一次世界大戦オーストリア・ハンガリー帝国に占領され、1915年から1916年にかけてポーランドの愛国運動の中心地となった。その後、第二共和政ポーランドの一部となり、中央同盟国を打倒した。 戦間期にはウッチ県ピョートルクフ郡の中心市とされ、以前ほどの重要性はなくなった。1938年の人口は51000人ほどで、25000人のユダヤ人と1500人のドイツ人が居住していた。ユダヤ人居住者が多く、ホロコースト以前はヘブライ語の印刷・出版が盛んであった。

ナチスドイツポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発し、1939年9月5日に激戦地となる。その後、16年間に渡り占領され、占領地であるポーランドユダヤ人に対しての最初のゲットー1939年10月頃に建設された。周辺の町からも合わせ、約25000人がここに収監された。

開戦初期から、ピョートルクフ・トルィブナルスキは地下レジスタンスの根拠地となり、1944年11月までナチスドイツに抵抗した。1945年1月18日ソビエト赤軍が進駐して解放されるが、以後も反共パルチザンたちは周辺地域で戦闘を継続した。

終戦後、1949年から1970年にかけて産業の中心として、また1975年までウッチ県の主要都市として発展した。その後、新しいピョートルクフ県の県都としてポーランドの行政・教育・文化の中心的地位に復帰した。

しかし、1999年にピョートルクフ県は郡に格下げとなり、再びウッチ県の傘下に入ることとなった。

地理[編集]

ピョートルクフ・トルィブナルスキは、ウッチ高地の中西部(ピョートルクフ高地)に位置する。ピョートルクフ地方の地理的構造は約18万年~13万年前の氷河期に形成された。ピョートルクフ平野にかかる森林はほとんどない。ピリカ川の流域に面しており、ヴィスワ川の集水地域になっている。

気候[編集]

海抜200mほどの高さに位置しており、年間平均気温は摂氏8度である。最も寒い月は1月で摂氏マイナス20度からマイナス2.5度、最も暖かい月は7月で平均摂氏18度になる。年間降雨量は550mmから600mmで、砂質の土壌により肥沃とはいえない。

経済[編集]

立地上の利点から、ワルシャワに次ぐ物流の中心として知られ、IKEAの配送センターがある。また、小・中規模の縫製工場が多数存在する。

文化[編集]

教育[編集]

スポーツ[編集]

交通機関[編集]

国道が3路線整備されている。

またワルシャワ・フレデリック・ショパン空港まで133km、カトヴィツェ国際空港までは137kmの距離である。

姉妹都市[編集]

ゆかりの人物[編集]

外部リンク[編集]