ピサ共和国

ピサ共和国
Repubblica di Pisa
イタリア王国 (中世)
:en:March of Tuscany
11世紀 - 1406年 フィレンツェ共和国
:en:Principality of Piombino
ピサ共和国の国旗 ピサ共和国の国章
(国旗) (国章)
国の標語: Urbis me dignum pisane noscite signum
ピサ共和国の位置
11世紀のピサ
公用語 トスカーナ語
ラテン語
イタリア語
首都 ピサ
ドージェ
1399年 - 1406年 ガブリエレ・マリーア・ヴィスコンティイタリア語版(ミラノの属国期)
変遷
建国 11世紀
メロリアの海戦英語版でジェノヴァに惨敗。1284年8月6日
ピオンビーノ公国イタリア語版英語版が分離独立。1398年
フィレンツェ共和国に併合され滅亡1406年
現在イタリアの旗 イタリア
フランスの旗 フランス
スペインの旗 スペイン
ピサ大聖堂は11~12世紀の全盛期に建設された。財源にはマーディア市からの略奪品を充てた。
12世紀のピサの領土
ピサの斜塔にあるポルト・ピサーノのレリーフ

ピサ共和国 (イタリア語: Repubblica di Pisa)は、トスカーナ州ピサを首都として11世紀1406年に存在した事実上の独立国。 中世~ルネサンス期には、アマルフィ共和国ジェノヴァ共和国ヴェネツィア共和国と並ぶイタリアの四大海洋共和国イタリア語版英語版の一角に数えられる海洋経済大国となったが、後にジェノヴァ共和国相手にメロリアの海戦英語版で決定的な敗北を喫して以降衰退の一途をたどり、ミラノ公国の属領を経てフィレンツェ共和国に併合された。

歴史[編集]

中世盛期には地中海の重要な海洋商業拠点だった。

1005年には半島南西部のカラブリア州まで影響力を及ぼし、地中海の覇権をムスリムと争った。

1015年ジェノヴァ共和国と協力してムスリム指導者のMujāhid al-ʿĀmirī(ラテン語:Mogehidus)を破り、サルディーニャ島を征服し、ティレニア海の覇権を得た。 ピサ人が島からジェノヴァ人を追放すると、両国は敵対するようになった。

1030年1035年シチリア首長国の複数の都市を陥落させ、北アフリカカルタゴを征服した。

1051年1052年、Jacopo Ciurini船長はコルシカ島を征服した事で、ジェノバから更に恨みを買った。

1060年、ジェノヴァとの初めての戦争に勝利した。

1063年、ピサはシチリア島を征服中ルッジェーロ1世に対し、共にパレルモを攻撃する事を提案した。 ルッジェーロ1世は他の協定が有ったためにこの提案を拒否し、ピサは独力でパレルモを攻めたが失敗した。

1077年ローマ教皇グレゴリウス7世はピサが制定した「海の法と習慣」を認めた。 また神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世はピサに独自のコンスルを名乗る権利を保障した。 当時トスカーナ辺境伯英語版は既に力を失っており、ピサの名目上の支配者でしかなかった。

1085年、グレゴリウス7世はピサをバレアレス諸島宗主国と認めた[1]

1088年ズィール朝マーディア市を破壊した。

1092年、ピサとジェノヴァの船がカスティーリャ王アルフォンソ6世の部下のエル・シッドバレンシアから救出した。ローマ教皇ウルバヌス2世はコルシカ島とサルディーニャ島に対するピサの優位を認めた。また、ピサ教区を大司教区に昇格した。

聖ゲオルギオスの十字架を掲げるピサのDagobert

1096年、ピサは120隻の船で第1回十字軍に参加し、1099年にはエルサレム攻囲戦に参加した。 ピサは道中で幾つかの東ローマ帝国の島を襲撃した。 指揮官のDagobertは後にラテン・エルサレム総大司教英語版になった。 ピサ等の海洋共和国はシリアレバノンパレスチナに郵便局や植民地を建設した。 特にピサはアンティオキア公国アッコヤッファトリポリ伯国ティルスラタキアに居留地を設置した。 エルサレムカイザリア英語版には大規模な、カイロアレクサンドリアには小規模な領土を獲得した。 コンスタンティノープルではアレクシオス1世コムネノスから、特別な停泊地と貿易権を得た。 ピサはこれらの都市で課税を免除されたが、有事の防衛は義務付けられた。 12世紀にはコンスタンティノープル東部のピサ地区の人口は1000人に達した。 この頃のピサは、東ローマ帝国にとってヴェネツィア共和国を凌ぐ最大の商業・軍事同盟国だった。

1113年1115年、ピサ商人はバレアレス諸島を探検し、一時的にイスラム王朝を排除した。

1204年、第4回十字軍によるコンスタンティノープルの陥落と共に東ローマ帝国が滅亡したため、東ローマ帝国内におけるピサ共和国の特権は失われた。さらに、実質的に第4回十字軍の主導権を握ったヴェネツィア共和国はエウボエア島クレタ島などの戦略要地を自国の統治下・影響下に置くと共に、コンスタンティノープルを含めたラテン帝国の領域内からピサやジェノヴァの商人を締め出すことで、東地中海・黒海貿易における圧倒的優位を確立した。

1284年メロリアの海戦英語版でジェノヴァに惨敗した。 この戦いでピサの殆どの船が破壊され、多くの船員が捕虜となった。

1290年、ジェノヴァがピサの外港ポルト・ピサーノ英語版を襲撃した事で、ピサは独立を失った。

1323年1326年の戦いで、アラゴン連合王国にサルディーニャ島を奪われた。

1399年ガブリエレ・マリーア・ヴィスコンティイタリア語版ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ庶子)の自治領の一部になった。

1402年フィレンツェ共和国に売却された。

1406年、流血の抵抗も空しく、ピサは完全に征服された。

脚注[編集]

  1. ^ Charles Julian Bishko (1975), "The Spanish and Portuguese Reconquest, 1095–1492", A History of the Crusades, Vol. 3: The Fourteenth and Fifteenth Centuries, ed. Harry W. Hazard (Madison: University of Wisconsin Press), 405.
  • Norwich, John Julius. The Normans in the South 1016-1130. Longmans: London, 1967.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]