ビスマーク・シー (護衛空母)

USS Bismarck Sea CVE-95
艦歴
発注:
起工: 1944年1月31日
進水: 1944年4月17日
就役: 1944年5月20日
退役:
その後: 1945年2月21日に戦没
性能諸元
排水量: 8,319トン(基準)

11,077トン(満載)

全長: 512 ft 3 in (156.1 m)
全幅: 108 ft (32.9 m)
吃水: 22 ft 4 in (6.8 m)
機関: 3段膨張式蒸気機関2基2軸、9,000馬力
最大速: 19ノット
航続距離: 10,240カイリ(15ノット/時)
乗員: 士官、兵員860名
兵装: 38口径5インチ砲1基
40ミリ機関砲8基
20ミリ機銃12基
搭載機: 27機

ビスマーク・シー (英語: USS Bismarck Sea, AVG/ACV/CVE-95) は、アメリカ海軍護衛空母[1][2]カサブランカ級航空母艦の41番艦。艦名はニューギニア北部のビスマルク海の英語表記であり、直接的には1943年のビスマルク海海戦に因む。日本語ではビスマルク・シーと表記する事もある[3][4]。1945年(昭和20年)2月21日[5]硫黄島攻防戦神風特別攻撃隊突入により沈没した[2][6]2019年現在まで,アメリカ海軍の最後に戦没した空母である[7]

艦歴[編集]

建造[編集]

建造時の艦名はアリクラ・ベイ (USS Alikula Bay) であった。アリクラ・ベイは、アラスカ州南東部のアラスカ湾コロネーション島にあるアリクラ湾にちなむ。以前に建造中のカサブランカ級護衛空母2番艦に名付けられたが、進水前にコーラル・シー (Coral Sea) に改称され、後にアンツィオ (USS Anzio, CVE-57) に改称されている。

アリクラ・ベイは1944年(昭和19年)4月17日にワシントン州バンクーバーカイザー造船所で、モンラッド・C・ウォールグレン英語版夫人(ウォールグレン上院議員の妻)によって進水し、5月16日にビスマーク・シーに改名、5月20日に海軍に移管し、同日J・L・プラット艦長の指揮下就役する。

1944 - 1945[編集]

1944年(昭和19年)7月から8月にかけて、ビスマーク・シーはカリフォルニア州サンディエゴマーシャル諸島の間で船団護衛を行う。サンディエゴでの修理および追加の訓練の後にウルシー環礁に向かい、第7艦隊トーマス・C・キンケイド中将)に合流する。11月12日から11月23日までレイテ島沖での作戦活動に従事した。

1945年(昭和20年)1月9日から1月18日にかけてルソン島攻略作戦にともなうリンガエン湾上陸作戦に参加した。この支援作戦は日本陸海軍機の激しい特攻攻撃に晒され、大きな被害を受けた[8][注釈 1]

喪失[編集]

第二御楯特攻隊機の命中により爆発を起こしたビスマーク・シー(1945年2月21日)

2月16日第5艦隊 (U.S. Fifth Fleet) の第58任務部隊日本列島関東地方を攻撃した[11]。同16日、ビスマーク・シー以下第52任務部隊(ウィリアム・H・P・ブランディ英語版少将)の護衛空母群は硫黄島沖に到着し、硫黄島攻略作戦の支援を開始した[6]Operation Detachment両軍戦闘序列[12]。この日は朝から天候が優れなかったものの[13]、90機の艦上機が硫黄島攻撃を行った。17日と18日、硫黄島を包囲する連合軍は戦艦ネバダ (USS Nevada, BB-36) など戦艦部隊による艦砲射撃[14][注釈 2]、空母部隊から発進した艦上機による空襲を繰り返し[16]、2月19日の上陸決行日に向けて露払いを行った[17][注釈 3]

この頃、第三航空艦隊寺岡謹平中将)はアメリカ艦隊への反撃作戦をいくつか講じていたが、彼我の戦力差などを考慮して「少数機の部隊を小刻みに発進させて奇襲を行う」という戦法に決定した[19]。これを受け、第三航空艦隊隷下の第六〇一海軍航空隊が特攻部隊を編成する[20]。第六〇一空は彗星12機、天山8機、零戦12機を攻撃隊として用意して「第二御楯特別攻撃隊」と命名し、八丈島を中継して攻撃することとなった[19]。第二御楯特攻隊2月20日に最初の出撃を行ったが、悪天候で引き返した[21]。天候が持ち直した翌21日に再び出撃する[18]。八丈島に到着後、部隊は5つに小分けされ、15分間隔で[22]硫黄島近海に向かって出撃していった[19]。この攻撃と並行して[18]第752海軍航空隊所属の一式陸上攻撃機6機がレーダー欺瞞紙を散布したり、連合軍上陸部隊を爆撃するため、木更津飛行場より発進した[23]

ビスマーク・シーはこの時硫黄島の東方海上にあり、第二御楯特攻隊の攻撃で大破した大型空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) の航空機を収容した他[注釈 4][注釈 5]、護衛空母ウェーク・アイランド (USS Wake Island, CVE-65) とナトマ・ベイ (USS Natoma Bay, CVE-62) の航空機も収容して、艦は航空機であふれかえっていた[28]ガソリンを抜く暇も無く、航空機は片っ端から格納庫に押し込められていった[28]

2月21日の日没は18時25分と記録された[29]。その直後、ビスマーク・シーの見張りは水平線上に接近してくる3つの目標を発見する[29][注釈 6]。ビスマーク・シーは護衛空母ルンガ・ポイント (USS Lunga Point, CVE-94) に向かっていた3つの目標に対して対空砲火を撃ち、1機を撃墜した[29]。一時はサラトガの航空機とも思われた[28]残る2機の特攻機がビスマーク・シーに急速に接近してきたが、一部の機関砲および機銃は射程内にルンガ・ポイントが入ってきたため撃てなかった[29]。やがて、その航空機は右舷後部の40ミリ機関砲座の下に突入し、ハンガーデッキと弾薬庫を破壊。格納してあった航空魚雷4本を叩き落して爆発を起こさせた[31]。その火災は押さえることができたものの、間もなく別の特攻機、あるいは通常の攻撃機から投下された爆弾[19]が後部エレベーターシャフトに命中して海水消火システムを破壊。また、ガソリンを抜き終わっていない航空機の中で爆発したため、格納庫内の航空機、燃料、弾薬に次々と引火して火山の様となった[29]。ビスマーク・シーは消火隊が焼死した他、後部にいた乗員が爆発で海に放り出された[29]

ビスマーク・シーは、もはやそれ以上のダメージコントロールが不能となった。最初の特攻機が命中してからわずか15分後、艦の放棄が命じられた。総員退艦の命令は口伝で行われた[32]。ビスマーク・シーは爆発を繰り返して右舷側に倒れ、20時8分に犠牲者318名とともに艦尾から沈没していった[33][34]。搭載されていたF4Fワイルドキャット20機とTBF アヴェンジャー11機も一緒に海中に沈んだ。護衛駆逐艦エドモンズ (USS Edmonds, DE-406) が救助作業を行い、夜間の荒海の中プラット艦長を含む378名を救出。生存者は攻撃輸送艦ディッケンズ (USS Dickens, APA-161) とハイランズ (USS Highlands, APA-119) に移送され、エドモンズの乗組員30名が傷つき疲れ果てた救助者達に同行した。

ビスマーク・シーは第二次世界大戦の戦功での3つの従軍星章を受章した。

出典[編集]

[編集]

  1. ^ ルソン島にむけ進撃中の1月4日、姉妹艦オマニー・ベイ (USS Ommaney Bay, CVE-79) が神風特別攻撃隊突入で沈没した[9]。1月5日、姉妹艦マニラ・ベイ (USS Manila Bay, CVE-61) や重巡ルイビル (USS Louisville, CA-28) などが特攻機により損傷した[9]。1月8日、ルソン沖で姉妹艦カダシャン・ベイ (USS Kadashan Bay, CVE-76) とキトカン・ベイ (USS Kitkun Bay, CVE-71) などが特攻機により大破した[10]
  2. ^ 第58任務部隊も硫黄島攻撃に加勢され、ノースカロライナ級戦艦2隻(ワシントンノースカロライナ)が硫黄島への艦砲射撃に加わった[15]
  3. ^ (昭和20年2月21日)[18] 〔 二一|一、(イ)第二御楯特攻隊硫黄島周邊艦艇攻撃 兵力fc o×一一、fbス×12、fo天×七(fbス×二、fo天×一、fc fo×二 引返ス) 戰果 A×一概ネ撃沈、A×一撃沈ノ算大、B×二轟沈、c×四撃破 炎上、不詳×一沈没 火柱一九(一六〇六~一八五〇)/(ロ)牽制伴動隊 frサ×二、flo×四 父島西方ニ僞瞞紙散布、空中火災墜落flo×一 未歸還flo×一(一一一五~一二三〇木更津發)/(ハ)flo×六硫黄島敵上陸部隊攻撃、二機陸上、二機船舶攻撃、効果不明(一七四五~一八五〇)(以下略)|(情報)|二、硫黄島方面攻撃ノ戰艦ニハ「ニユーヨーク」「テキサス」「ネヴアダ」「アーカンサス」「アイダボ」「テネシー」ヲ含ム(K三情報)(以下略) 〕
  4. ^ サラトガは爆撃を受けて爆弾2発が命中した上に、複数の特攻機が突入した[24]。大破したサラトガは炎上[25]、戦死者123名、負傷者192名を出した[3]。だが消火に成功したあと、3時間半後には航空機の揚収を開始したという[26]
  5. ^ 日本側記録では、サラトガを攻撃したのは第二御盾特別攻撃隊・第5次攻撃隊の天山3機となっている[27]。戦艦ワシントン (USS Washington, BB-56) は天山1機を撃墜した[2]
  6. ^ 日本側では、ビスマルクシーを攻撃したのは第二御盾特別攻撃隊・第1次攻撃隊の零戦4・彗星4とし、16時15分に突入と記録する[30]

脚注[編集]

  1. ^ 大内、護衛空母入門 2005, pp. 84–85第5表 アメリカ海軍護衛空母一覧
  2. ^ a b c 戦艦ワシントン 1988, pp. 391–392.
  3. ^ a b マッキンタイヤー、空母 1985, p. 197.
  4. ^ 戦史叢書17 1968, pp. 239–240航空作戦の概要
  5. ^ 戦史叢書85 1975, pp. 330–333硫黄島周辺米軍に対する航空攻撃
  6. ^ a b 大内、護衛空母入門 2005, p. 237.
  7. ^ 北村淳 (2020年1月2日). “中国空母「張り子の虎」呼ばわりが危険な理由”. JBpress. 日本ビジネスプレス. 2020年1月16日閲覧。
  8. ^ 大内、護衛空母入門 2005, pp. 233–234.
  9. ^ a b ニミッツ 1962, p. 407.
  10. ^ ニミッツ 1962, p. 409.
  11. ^ 戦艦ワシントン 1988, p. 388.
  12. ^ ニミッツ 1962, pp. 422–431硫黄島の占領
  13. ^ 梅野, 262ページ
  14. ^ ニミッツ 1962, p. 428.
  15. ^ 戦艦ワシントン 1988, p. 389.
  16. ^ 戦史叢書85 1975, pp. 325–328米機動部隊来襲
  17. ^ 一式陸攻戦史 2019, pp. 440–447硫黄島への最終便
  18. ^ a b c 昭和19年10月以降分 情況判断資料(防衛省防衛研究所)2月21日~2月25日 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C16120650600 
  19. ^ a b c d 梅野, 263ページ
  20. ^ 戦史叢書85 1975, p. 331a六〇一空の特攻攻撃
  21. ^ 戦史叢書85 1975, pp. 331b-333第二御盾特別攻撃隊
  22. ^ ウォーナー『ドキュメント神風 上』347ページ
  23. ^ 一式陸攻戦史 2019, pp. 442–443.
  24. ^ ニミッツ 1962, pp. 430–431.
  25. ^ 歴群53、アメリカの空母 2006, pp. 90–91●「サラトガ」の戦中改装
  26. ^ 歴群53、アメリカの空母 2006, p. 152爆撃および特攻機による損傷●「レキシントン」級/「サラトガ」
  27. ^ 戦史叢書85 1975, p. 333.
  28. ^ a b c ニューカム, 194ページ
  29. ^ a b c d e f ウォーナー『ドキュメント神風 上』344ページ
  30. ^ 戦史叢書85 1975, p. 332.
  31. ^ ウォーナー『ドキュメント神風 上』344ページ、ニューカム, 194ページ
  32. ^ ウォーナー『ドキュメント神風 上』345ページ
  33. ^ ウォーナー『ドキュメント神風 上』346ページ、ニューカム, 194ページ
  34. ^ "USS BISMARCK SEA CVE-95"

参考文献[編集]

  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー/妹尾作太男(訳)『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上・下』時事通信社、1982年、ISBN 4-7887-8217-0ISBN 4-7887-8218-9
  • 梅野和夫「第2御楯隊の突入をうけたビスマーク・シー」『写真・太平洋戦争(4)』光人社、1989年、ISBN 4-7698-0416-4
  • 大内建二「第5章 護衛空母の戦い」『護衛空母入門 その誕生と運用メカニズム』光人社〈光人社NF文庫〉、2005年4月。ISBN 4-7698-2451-3 
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年
  • 佐藤暢彦「第十七章 沖縄・最後の闘い ― 人間爆弾、夜偵、練空特攻、そして沖縄への道程」『一式陸攻戦史 海軍陸上攻撃機の誕生から終焉まで』光人社〈光人社NF文庫〉、2019年1月(原著2015年)。ISBN 978-4-7698-3103-7 
  • チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、富永謙吾(共訳)、恒文社、1962年12月。 
  • リチャード・F・ニューカム/田中至(訳)『硫黄島 太平洋戦争死闘記』光人社NF文庫、1996年、ISBN 4-7698-2113-1
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 沖縄方面海軍作戦』 第17巻、朝雲新聞社、1968年7月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土方面海軍作戦』 第85巻、朝雲新聞社、1975年6月。 
  • ドナルド・マッキンタイヤー 著「7 落日の日本海軍」『空母 日米機動部隊の激突』寺井義守 訳、株式会社サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫23〉、1985年10月。ISBN 4-383-02415-7 
  • イヴァン・ミュージカント『戦艦ワシントン 米主力戦艦から見た太平洋戦争』中村定 訳、光人社、1988年12月。ISBN 4-7698-0418-0 
  • 歴史群像編集部編『アメリカの空母 対日戦を勝利に導いた艦隊航空兵力のプラットフォーム』 第53巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、2006年2月。ISBN 4-05-604263-2 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]