ハルグチュク・ドゥーレン・テムル・ホンタイジ

ハルグチュク・ドゥーレン・テムル・ホンタイジモンゴル語: Харгуцаг Дүүрэнтөмөр хунтайжラテン文字転写: Qarγučuγ dügüreng temür qongtayiǰi中国語: 哈爾古楚克都古楞特穆爾鴻台吉、? - 1399年?)は、北元時代におけるモンゴルの皇族。ダヤン・ハーンの祖先にあたる。ハルグチャグ・タイジQarγučaγ tayiǰi)とも。

生涯(モンゴル年代記による記述)[編集]

モンゴル年代記によると、ハルグチュクはオルジェイト妃子という「雪のように肌が白く、血のように頬の赤い」美貌の妻を持つことで知られていた。ある時チョロースゴーハイ太尉の進言によってオルジェイト妃子の存在を知ったエルベク・ハーンはゴーハイ太尉を派遣し、オルジェイト妃子を自らの妻(ハトゥン)にしようとした。

しかしオルジェイト妃子は、

天地を併せることができましょうか/上帝は嫁を横取りし得ましょうか/貴方の子のドゥーレン・テムル・ホンタイジは死んだのでしょうか/ハーンは黒き狗になられたのでしょうか — 著者不明『黄金史綱』

と語ってエルベク・ハーンの要求を拒絶した。

これを聞いたエルベク・ハーンは怒り、ハルグチュクを待ち伏せして殺し、力尽くで既に妊娠していたオルジェイト妃子を自らの妻にしてしまった。オルジェイト妃子はこのことを恨みに思い、計略によってエルベク・ハーンにゴーハイ太尉を殺害させ、更にエルベク・ハーンはケレヌートのオゲチ・ハシハに殺されてしまった。オルジェイト妃子は今度はオゲチ・ハシハに娶られ、そこでハルグチュクの長男のアジャイ(アジャイ・タイジ、アジャイ太子とも記録されている)を産んだ[1]

死後の子孫の動向[編集]

ハルグチュクはハーンにこそならなかったものの、ハルグチュクの長男のアジャイ・タイジの息子(ハルグチュクの孫)の代から後代のハーンが輩出されていった。アジャイ・タイジには長男のトクトア・ブハ、次男のアクバルジ、三男のマンドゥールンという3人の息子がいた。

長男がタイスン・ハーンに、タイスン・ハーンの次男がマルコルギス・ハーンに、タイスン・ハーンの長男がモーラン・ハーンになったが、モーラン・ハーンの代でタイスン・ハーンの直系は絶えている。

三男にして末子がマンドゥールン・ハーンになり、4年間ハーン位にあり、娘2人がいたが、男子はいない。

次男のアクバルジ・ジノンの曾孫が政治的混乱を収拾して16世紀初めにモンゴル再統一を達成し、モンゴル中興の祖と称されるダヤン・ハーンになった((1)アクバルジ・ジノン、(2)ハルグチュク・タイジ、(3)ボルフ・ジノン、(4)ダヤン・ハーンという系図)。つまり、ダヤン・ハーンはハルグチュクの来孫で、アジャイ・タイジの玄孫にあたる。

また、ダヤン・ハーン以後、ハーン位は1635年の北元滅亡までダヤン・ハーン直系の子孫が継承していった為、タイスン・ハーンの以後のハーンはハーン位を簒奪したエセン・ハーンを除いて、ハルグチュクの血筋である(但し、エセン・ハーンの父方の祖母のサムル公主はハルグチュクの姉妹である為、エセン・ハーンはハルグチュクの大甥(姉妹の孫)にあたり、女系で北元皇族と血縁関係にある)。

出自[編集]

ハルグチュクの出自については史料によって異なり諸説あるが、クビライ家を自称するダヤン・ハーンの先祖であること、漢文版『蒙古世系譜』に割注で「宗室」と記されることなどからクビライ家の人物であるとする説が主流である[2]

また、『黄金史綱』はハルグチュクをエルベク・ハーンの息子とし、『蒙古源流』はウスハル・ハーンの息子でエルベク・ハーンの弟とする。そもそもエルベク・ハーンがウスハル・ハーンの息子か疑わしいこと、「ホンタイジ(皇太子)」という称号から、『黄金史綱』に従ってエルベク・ハーンの息子とするのが正しいと考えられている。

脚注[編集]

  1. ^ オルジェイト妃子の妊娠とアジャイ・タイジの出産は『黄金史綱』に記載がなく、後世の創作ではないかとする説もある(岡田2010,257-266頁)。加えて、アジャイ・タイジはアダイ・ハーンと同一人物ではないかとの指摘もある(岡田2010,270頁)。しかし、この同一人物説に関しては誤りとする説が主流である。
  2. ^ Buyandelger2000,132-136頁

参考文献[編集]

  • 井上治『ホトクタイ=セチェン=ホンタイジの研究』風間書房、2002年
  • 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
  • 宝音德力根Buyandelger「15世紀中葉前的北元可汗世系及政局」『蒙古史研究』第6輯、2000年