ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)

ハインリヒ7世
Heinrich VII.
ルクセンブルク伯
神聖ローマ皇帝
在位 1308年 - 1313年(ローマ王)
戴冠式 1308年11月27日(ローマ王)
1311年1月6日(イタリア王)
1312年6月29日(神聖ローマ皇帝)
別号 ルクセンブルク伯

出生 1275年
神聖ローマ帝国
エノー伯国ヴァランシエンヌ
死去 1313年8月24日
神聖ローマ帝国
イタリア王国ブオンコンヴェント
埋葬 ピサ大聖堂
配偶者 マルグリット・ド・ブラバン
子女 ヨハン
マリー
ベアトリクス
家名 ルクセンブルク家
父親 ルクセンブルク伯ハインリヒ6世
母親 ベアトリス・ダヴェーヌ
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ハインリヒ7世Heinrich VII., 1275年 - 1313年8月24日)はルドルフ1世から続く4代目の非世襲ローマ王(ドイツ王、在位:1308年 - 1313年[注釈 1]、そして正式な皇帝として戴冠するためのイタリア出兵を百年ぶりに達成したイタリア王エンリーコ7世(戴冠:1311年1月6日)、神聖ローマ皇帝(戴冠:1312年6月29日[注釈 2][注釈 3]。神聖ローマ帝国はまだドイツに限定されていない中世的・普遍的キリスト教帝国の理念を残しており皇帝はローマで教皇によって戴冠する習わしだったが、当時はアヴィニョン捕囚期でローマに教皇がいなかったため、道中で連れてきた皇帝派の枢機卿三人の手で戴冠している。

ルクセンブルク家一人目の王・皇帝。元はルクセンブルク伯(在位:1288年 - 1310年)でフランス語を母語とし(ドイツ語も堪能)フランス王の封建家臣でもあった[1][2]。フランス名はアンリ(Henri)でルクセンブルク伯ハインリヒ6世の子。フリードリヒ2世1250年に崩御して以来60年ぶりの皇帝で神聖ローマ帝国に秩序をもたらす君主としてルネサンス文化人に期待されたが即位まもなくして病死。

生涯[編集]

もともとは父の後を継いだルクセンブルク伯に過ぎなかったが、1308年アルプレヒト1世が暗殺されると、教皇クレメンス5世および弟トリーア大司教バルドゥインマインツ大司教ペーター・フォン・アスペルト( ミンネゼンガー フラウエンロープの晩年の支援者)ら選帝侯の支持を受け、即位することとなった[3]。ローマ王(ドイツ王)への選出は1308年11月27日、アーヘンでの戴冠は1309年1月6日[4]。この背景にはフランス王フィリップ4世が弟シャルルをローマ王に据えようとする動きを阻止したいという教皇や選帝侯の意図があった[5]

1309年にはスイスの一部を領有し、翌年には息子ヨハンボヘミア王ハンガリーポーランドの王も兼ねた)ヴァーツラフ3世の妹エリシュカとの縁組の結果、ボヘミア王位を自家に獲得するなど[6]、一族の勢力を短期間のうちに拡大させ、ルクセンブルク家は一躍神聖ローマ帝国における最有力の勢力となった。

ハインリヒ7世はさらに、皇帝戴冠式を行うためローマへと向かう。しかし皇帝の侵入によりイタリアの内乱はたちまち激化し、ローマに辿り着くまでには2年という時間を要した。しかもアヴィニョン教皇はローマに姿を現わすことはなく、しかたなくハインリヒは枢機卿から帝冠を受けることとなった。その後、ナポリへの遠征を行うが、その最中にマラリアで死去する[7]。皇帝権力の伸長を嫌うフランスや教皇派により暗殺されたとも考えられている[8]。葬儀は1313年9月2日、日曜日にピサ大聖堂で営まれ、同日埋葬されたが、後に石棺は近隣のカンポサント(Camposanto)に移された。しかし、ダンテ没後600年記念の1921年に、当時イタリアの文部大臣であった哲学者・歴史学者ベネデット・クローチェは、石棺をピサの大聖堂に戻した[9]

イタリア遠征のとき、詩人で有名なダンテは『帝政論』で彼を絶賛している[10]。ダンテによる理想化は、後世の人々の皇帝に対するイメージに大きな影響を与えた[11]。フィレンツェの政治家ディーノ・コンパーニはハインリヒに期待をかけ、その年代記の中で「神の子羊」「イタリアの矯正者」と呼びかけている。

家族[編集]

1292年にブラバント公ジャン1世の娘マルグリット(マルガレーテ、1276年 - 1311年)と結婚し、1男2女をもうけた。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ローマ王は帝位の前提となった東フランク王位から改称された王号。現代から見れば実質ドイツ王だが、当時国家・地域・民族としてのドイツは成立途上である。またイタリアブルグントへの宗主権を備える。
  2. ^ 「7世」はドイツ王(東フランク王)としてハインリヒ1世から数えた数字で、皇帝としては6人目のハインリヒ。さらにフリードリヒ2世の嫡子だった反乱を起こし廃位されたローマ王ハインリヒを数えない数字のため、ローマ王としては8人目のハインリヒ
  3. ^ 「神聖ローマ皇帝」は歴史学的用語で実際の称号ではない。

出典[編集]

  1. ^ 成瀬 他、p. 297
  2. ^ 鈴本、p. 17
  3. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. IV. München/Zürich: Artemis 1989 (ISBN 3-7608-8904-2), Sp. 2048.
  4. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. IV. München/Zürich: Artemis 1989 (ISBN 3-7608-8904-2), Sp. 2047-2048.
  5. ^ 鈴本、p. 16 - 17
  6. ^ 鈴本、p. 24
  7. ^ 成瀬 他、p.298
  8. ^ 菊池、p. 144
  9. ^ Kaiser Heinrichs Romfahrt. Die Bilderchronik von Kaiser Heinrich VII. und Kurfürst Balduin von Luxemburg 1308-1313. Mit einer Einleitung und Erläuterungen herausgegeben von Franz-Josef Heyen. Deutscher Taschenbuch Verlag 1978 (ISBN 3-423-01358-3), S. 122.
  10. ^ 鈴本、p. 31 - 32
  11. ^ Kaiser Heinrichs Romfahrt. Die Bilderchronik von Kaiser Heinrich VII. und Kurfürst Balduin von Luxemburg 1308-1313. Mit einer Einleitung und Erläuterungen herausgegeben von Franz-Josef Heyen. Deutscher Taschenbuch Verlag 1978 (ISBN 3-423-01358-3), S. 35.

参考文献[編集]

  • 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
  • 鈴本達哉 『ルクセンブルク家の皇帝たち』 近代文芸社、1997年
  • 菊池良生 『神聖ローマ帝国』 講談社現代新書、2003年
  • G. トラウシュ 『ルクセンブルクの歴史‐小さな国の大きな歴史‐』 刀水書房、1999年
  • Kaiser Heinrichs Romfahrt. Die Bilderchronik von Kaiser Heinrich VII. und Kurfürst Balduin von Luxemburg 1308-1313. Mit einer Einleitung und Erläuterungen herausgegeben von Franz-Josef Heyen. Deutscher Taschenbuch Verlag 1978 (ISBN 3-423-01358-3)〔1340年トリーアで製作された写本の73個の絵は、ハインリヒ7世の事績、特にそのローマ遠征を見事に活写している〕
  • Lexikon des Mittelalters. Bd. IV. München/Zürich: Artemis 1989 (ISBN 3-7608-8904-2), Sp. 2047-2049 (Beitrag von H. Thomas zu ‚Heinrich VII., röm.-dt. Kg., Ks.‘).

関連項目[編集]

先代
ハインリヒ(アンリ)6世
ルクセンブルク伯
1288年 - 1313年
次代
ヨハン(ジャン)