ノート:三河鉄道

「三河鉄道」の立項提案[編集]

提案内容
提案理由
  1. 現状三河鉄道名鉄三河線岡崎電気軌道名鉄岡崎市内線への転送となっており、会社については路線記事内で触れられているが、範囲が一致しておらず穏当とは言い難いこと。
  2. Template:名古屋鉄道の前身事業者が導入した車両が実質的に車両一覧の役割を果たしているが、その性質上路線記事に貼り付けられず関連項目を参照しづらいこと。
  3. 岡崎電気軌道の路線や車両は全て三河鉄道に引き継がれており、両者を一括して取り扱うことが妥当であると考えられること。
  4. 資料が比較的多く出回っており、単独記事として十分な内容に成長する見込みがあること。

以上の通り提案します。--210.48.133.123 2019年8月26日 (月) 03:26 (UTC)[返信]

念のため、当然ながら1941年6月1日以前の歴史に関する記述を対象とするものです。--210.48.133.123 2019年8月26日 (月) 05:06 (UTC)[返信]

コメント(消極的賛成) - 将来的な展望として三河鉄道を立項しようとは以前から思っていたのですが、会社沿革が主に記載されている名鉄三河線#歴史では1934年から1941年までの歴史がすっぽり抜け落ちているんですよね。なまじ愛電との合併に関する不祥事を詳しく書いている(自分の調査では発見できなかった分野なのでこれ自体はとても有難いのですが)だけに、以後の話が全くないことが余計にチグハグさを目立たせています。この間に三鉄は会社を立て直し、尾三自動車の争奪戦を名鉄と繰り広げるレベルまで経営状態を回復し、それ故に事業者統合期においても名鉄との合併に強く抵抗し鉄道省の介入を必要とした…という流れがあります。あまつさえ「銀行管理となってしまう」という会社として最悪の時期で記述がストップしてしまっているので、以後の沿革は会社記事としては絶対書く必要があるのですが、現時点で私が三河鉄道の主な文献として見込んでいる「名古屋鉄道社史」「名古屋鉄道百年史」「三鉄ものがたり」「三河を走って85年」はいずれもこの時期の記述が薄く(前身会社の中では外様なので仕方ない面もある)、他の方が三鉄不祥事について使用した『企業破綻と金融破綻』のような、まったく別分野の資料を漁る必要性を感じています。--ButuCC+Mtp 2019年8月26日 (月) 14:45 (UTC)[返信]
1934年以降の歴史については現在手元に資料があるわけではないのでお約束はできませんが、資料が見つかるものから適宜加筆を行っていきたいと考えています。現状ではどこに加筆すべきかが分かりづらいため、まずは見通しを良くしたいと考えた次第です。--210.48.133.123 2019年8月26日 (月) 23:40 (UTC)[返信]
了解しました。私も別件準備中につき後手に回りそうですが、上にあげた文献などでフォローしていきたいと思います。--ButuCC+Mtp 2019年8月28日 (水) 16:57 (UTC)[返信]
コメント 「既存記述は併存」ということですから「分割」というより、「転記」(コピー)ですよね? 名鉄蒲郡線、名鉄挙母線、名鉄岡崎市内線は路線についての記述が中心であり、記述の一部を三河鉄道へ「転記」(コピー)することはあっても、「分割」つまり元の記事から消すような記述はない(残しておいても差し支えない)のではと思います。まだ作っていない記事なので転記先を示す必要のある「一部転記」テンプレは使えないということでしょうけど、「分割」提案はちょっと驚きます。三河鉄道を立項すること自体は賛成ですし、既存の記事からの分割によらず(記述の重複を気にすることなく)立項してもよいのではと思います。--210a会話2019年8月26日 (月) 16:51 (UTC)[返信]
実態がほぼ転記であることはご指摘のとおりです。資本金云々など通常路線記事で取り上げられないものに限り、会社記事のみへの記載としたいと考えております。履歴継承が生ずるため一律で分割提案の手続きを取っております。--210.48.133.123 2019年8月26日 (月) 23:40 (UTC)[返信]

作業に着手します。工事タグ除去時点で不備等あればこちらでお知らせください。--210.48.133.123 2019年9月2日 (月) 03:28 (UTC)[返信]

関連記事の状況に関して(予備提案)[編集]

関連記事を集約していていくつか気になったことがあるので、予備議論の形で提起してみます。改名等の提案手続が必要なものについては正式提案は別途行います。

  1. 岡電は現状曖昧さ回避になっているが、岡山電気軌道に転送し代表的なトピックを中心とする曖昧さ回避がよいのではないか
  2. 福岡線は現状名鉄福岡線への転送となっているが、一般には福岡市への航空路線・バス路線を指すケースが多いものと思われ、また県道などもあるので平等な曖昧さ回避がよいのではないか
  3. 岡崎車庫は正式名称としては名鉄のみと思われるが、近年名鉄観光バスが岡崎営業所を岡崎車庫と表記するケースが散見される。名古屋鉄道岡崎車庫としたほうがよいかもしれない
  4. 国鉄1100形蒸気機関車およびTemplate:名古屋鉄道の前身事業者が導入した車両では、豊川鉄道3号蒸気機関車が一時三河鉄道に在籍したことになっているが、1942年譲渡とする資料があり矛盾が生ずる
  5. 蒸気機関車が709号1台しかない状態では牽引旅客列車を設定することは難しく、岡電202号の三河鉄道時代に付随車化という記述が採用困難となる。岡電4 - 6号が代替車のないまま名鉄合併前に廃車になっていることも踏まえると、門立支線休止から名鉄合併までの間、岡電200形は2両ともに軌道線で使用されたのではないか(202号の写真は1937年頃大樹寺駅となっており、600V車は他に行けるところがない)。

ご意見や情報等ありましたらよろしくお願いします。--210.48.133.123 2019年8月29日 (木) 08:05 (UTC)[返信]

関連資料を確認しましたが、付随車化されたのは201です。上挙母 - 大樹寺間の旅客増に備えての改造とあるので、1500V区間のT車用に転用されたのでしょう。--ButuCC+Mtp 2019年8月29日 (木) 21:53 (UTC)[返信]
岡電4-6号の代替車は岡電11・12号とされています。豊川鉄道3号については謎ですね…。手元の資料では1943年の豊川鉄道国有化時に名鉄が購入し13号となったとあります。後の蒲郡線区間で使用された元・熊延鉄道の3号との混同か(13号は主に築港線で使用)とも思いましたが、これとて名鉄が1941年に購入したものですので、三河鉄道自体は関与しません。--ButuCC+Mtp 2019年8月30日 (金) 11:45 (UTC)[返信]

ありがとうございます。

  1. 「名古屋鉄道社史」で1941年10月の蒸気機関車保有数が2両と記されておりました。12号と709号が在籍していることは明白ですので、これをもって豊川鉄道3号蒸気機関車の三河鉄道からの承継がなかったものと判断し、記事に反映します。なお本筋とは関係ありませんが、13号が蒲郡線で使用されたことは「ピクトリアルアーカイブ30」で言及されているようです(真偽は不明)。
  2. 付随車化が岡電202ではなく岡電201であることは複数の出典で確認できたため記事に反映します。
  3. ただ、理由について記述した清水氏の著書は内容に複数の疑義があります。まず、清水「車両史上巻」の岡電関係の記述が藤井「岡崎市内線」のほぼ丸写しであり、例えば1-3号が1924年に車体を取り替えた旨の記述はこの2氏の著書にしかありません(「路面電車と街並み・岐阜・岡崎・豊橋」では改造とされている)。大正期とされる写真と昭和10年代とされる写真とでは同一形態であり、わざわざ旧スタイルの車体を新造して取り替えたとは考えられません。さらに、清水「鋼体化の系譜」でク2210について三河鉄道が購入(ただし時期は不明・車号も不明)と杜撰な記述をしていたものが、「車両史上巻」ではしれっと1944年に名鉄が購入と書き換えられており、これらの状況を踏まえると一次資料にまともにあたっているようには思えず、思い込みが介在する可能性があります。情報量が豊富ですが、出典としての利用は慎重にする必要がありそうです。
  4. B形蒸気機関車の車号が現在の記事では3と4になっていますが、清水氏の著書では1と4になっています。現在検証を行っていますが、他に情報があればお願いします。

--210.48.133.123 2019年8月31日 (土) 10:47 (UTC) 一部訂正--210.48.133.123 2019年9月2日 (月) 01:16 (UTC)[返信]

  1. 3号機関車三河鉄道説についてはどこに書いてあるのか分からなかったのですが、鉄ピク611号「名鉄三河線ものがたり」(白井良和)に「ガソリンの事情が悪化した昭和15年には、ナスミスウィルソン製の豊川鉄道3号機(名鉄13号)を譲り受けている。」とありました。同記事の参考文献には社史と百年史しか掲載されていないので、そこに見当たらなければ本人による記録なのかもしれません。
  2. 藤井氏の著書の丸写しだとして、藤井氏の記述に疑義がなければ問題はないですので、1-3号について検討するならトンボ出版説と藤井説とを比較するという事になるでしょう。昭和10年代とされる写真とはこれのことと思われますが、キャプションが間違ってる可能性がありますね。公式HPでは同写真が「昭和初期?」とされており撮影時期が明確ではありません。例えばこれも「上ゲ付近」「布土付近」「四海波付近」と文献ごとにキャプションが揺れており(どうしようか考えていましたが、やはり問題があるという事で本コメントののち、撮影場所を省いておきます)、過去の写真は場所や時期が不明確なことが結構あります。
  3. ク2210については『写真が語る名鉄80年』から複写した変遷表を掲載した以上間違えるわけがないので、「車両史上巻」にて認識を改め訂正したとも取れます。基本的に、新が旧より正確ならまだ良い方です。実際、名鉄の過去の車両で多用される「私鉄車両めぐり」(70年代)では筆者の見落としまたは資料不足で不明瞭だったことが後年の文献で判明することはざらにあるので…。岡電の車両について研究されている方や文献が他にあり、それと衝突しているなら情報の取捨選択が必要となりますが、現時点で他説を構築する出典がないなら、暫定的に名鉄850系電車#注釈名鉄スカーレット#沿革のような形で著者と証言を結びつけて記述するのが妥当な所と思います。
  4. B形蒸気機関車については『写真が語る名鉄80年』の変遷表にも1とあり、「私鉄車両めぐり」や「名鉄三河線ものがたり」も1ですね。南海側の資料や国鉄1350形蒸気機関車#参考文献ではどうなっているのか気になる所です。--ButuCC+Mtp 2019年8月31日 (土) 13:04 (UTC)[返信]
  1. B形については名鉄側に3号とする出典は見つかりませんでした。現在の記事は他方が「1を1に改称」となっており文意が通らないため、名鉄側の出典と整合するように書き換えておきます。
  2. 単独で記事化するだけの情報がない事項について、西浦車庫については西浦駅に記述する方向で検討しています。サハフ35/41についてはどうしたものでしょうか(サハフ35については客車略図に種車を発見しましたが、サハフ41はおそらく台枠しか利用しておらず種車の存在すら十分な検証ができない状況です。同じく台枠流用説のあるデワと揃えるため、鉄道省から購入という記述は見合わせます)。立項作業時点ではこの3項目については赤リンクとします。

--210.48.133.123 2019年9月1日 (日) 23:55 (UTC)[返信]

サハ21 サハフ31 サハフ35/36 サハフ41 サハフ45
※「車両諸元表」
原典 1944年
前所有者:筑波鉄道 前所有者:筑波鉄道 前所有者:鉄道省 前所有者:鉄道省 前所有者:(空欄)
「私鉄車両めぐり」
鉄ピク 1971年
筑波ナロハ203 筑波ナハフ101 鉄道省ホハユ形3等郵便合造車 鉄道省ナハユ形3等郵便合造車
(刈谷工場でかなり改造される)
201が電装解除
※『写真が語る名鉄80年』
社史 1975年
筑波ナロハ203 筑波ナハフ101 鉄道省ホハユ3150形3186/3187 鉄道省ナユニ5360形 岡電デ200形201
「名古屋鉄道の車両前史」
鉄ピク 1986年
筑波ナロハ203 筑波ナハフ101 鉄道省ホハユ3186/3187 鉄道省ナユニ5360 201が電装解除
「名鉄三河線ものがたり」
鉄ピク 1995年
筑波ナロハ200形 筑波ナハフ100形 鉄道省ホハユ3170形 鉄道省ナユニ5360形 岡電デ200形

※『名古屋鉄道車両史 上巻』に掲載

サハ/サハフ各車の前身に関する記述です。サハフ41については詳述ある文献でいずれも改造を受けていることが書かれているので、種車そのまま使ったというわけではないようです(他は特にその手の記述なし)。それよりこれらサハ/サハフ各車は「○○形」と称されていたのでしょうか。形式名無しで「サハフ○○」と書かれているケースが大半です。

名称と言えば三河鉄道#路線で「路線名のない区間」とありますが、貨物営業料程表 では「三河本線」、「(市内線区間を含み)岡崎線」とされています。社史226頁の路線図にも「三河本線」、「岡崎線」の表記があり、岡崎線の文字は康生町までかかっています。三河鉄道時代の路線名については「岡崎線」のみがクローズアップされていますが、元々の区間が無名のままなのは不自然であり、愛電が有松線の開業時に既設線を「常滑線」としたように、レトロニム的に本線の名前も付けられたのでしょう(いつかは不明)。このほか岡崎市内線区間については藤井氏の著書で「市内電車は軌道線になった」「軌道線は岡崎市内線になった」との記述があり、(全区間が岡崎線なら)「軌道線」が市内区間を指す通称だったのかもしれません。--ButuCC+Mtp 2019年9月2日 (月) 16:38 (UTC)[返信]

  1. 路線名表記について、「貨物営業料程表」はまさにその常滑線が常滑線になっておらず、採用は困難と言わざるを得ません。社史については今週末に確認しますのでしばらくお時間をいただきたく思います。なお百年史では三河鉄道時代の路線名について「三河鉄道線」となっているほか、公式サイト内[1]の下の方にある歴史をクリックすると「三河鉄道の岡崎市内線となる」と書かれており、名鉄の見解も一貫したものではないようです。最終的には全論併記か何も書かないかの二択になるように思います。
  2. サハフの形式については、従来から三河鉄道デ150形電車でサハフ30形という表記がなされていたため、それに合わせたものです。特にこだわりはないので一律車号表記としてもよいのですが、対応する電動車のないサハフ35/36/41については何かしらのラベル(仮に記事を作成するとすればどんな記事名になるか)が必要なので、ご提案があればお願いします。プロジェクトの原則から外れますが、名鉄モ45形電車の例に倣えば名鉄ク2130形電車名鉄ク2140形電車でよいのかもしれません。
  3. サハフ41の種車について困惑しているのは、「ナユニ5360形」自体名鉄関係でしか資料が見当たらず、おそらく情報の出処が一箇所であることです。個人的には客車略図の神戸工場製ホユニ8680形の1928年称号だと思うのですが、検証できていません。この点、ホハユ3150形については客車略図の新橋工場製ホハ6590形の1928年称号であることが明らかです。

--210.48.133.123 2019年9月3日 (火) 01:04 (UTC)[返信]

貨物営業料(粁)程表ですが、ここに掲載されているのは今で言う東武本線や南海線みたいな線区総称かもしれません(新川臨港線、大浜臨港線が含まれていますし)。もう少し前のもの(昭和五年)を見ると豊橋線・常滑線・築港線を合わせて愛電本線とする鉄道停車場一覧でも使用された線区名が確認できます。鉄道停車場一覧も貨物営業粁程表も一部しか線名が掲載されていませんが、ほとんどが複数の線区をまとめてリスト化されています。
他の例だと豊田市史(および引用元の「西加茂郡産業一斑」および掲載時間表)では「本線」表記が確認できます。今後も三河鉄道時代(それも岡電合併後、1927-1941)の資料を優先的に当たっていこうと思います。--ButuCC+Mtp 2019年9月3日 (火) 13:29 (UTC)[返信]
『足助鉄道誘致運動小史』の資料編に掲載された《三河鉄道株式会社要覧》に「続いて同年十二月には三河本線と岡崎線とを繋ぐ上挙母―岩脇線の開通を見…」との記述がありました。--ButuCC+Mtp 2019年9月6日 (金) 12:28 (UTC)[返信]
  1. 9月3日に「百年史では三河鉄道線」と申し上げましたが、百年史では「三河鉄道本線」の誤りでした。「三河鉄道線」としているのはこちら[2]のPDFです(挙母線や岡崎市内線も三河鉄道線には違いないので不適当だと思いますけどね)。
  2. 社史について、仰るとおり社史226頁の路線図では三河岩脇 - 康生町の位置に「岡崎線」と記載してあるほか、753頁の年表で「三河本線と岡崎線を連絡」という記述があることを確認しました。「足助鉄道誘致運動小史」はこれを参照した可能性が高いですね。なお、上述の通り百年史の対応箇所では「三河鉄道本線」となっています。いずれにせよ、三河岩脇 - 上挙母についてはこれが根拠になるかどうか微妙なところです。
  3. 同時代史料で路線名の記載があるものは一点しか発見できませんでした。1941年岡崎市役所作成の地図において、百々 - 大樹寺の位置に「三河鉄道岡崎線」の記載があります。
  4. 岡崎市市勢要覧(大正14年版)には岡電の車両数が記載されていますが、1924年末11両、1925年末13両となっており、これを信じるのなら200形か11-12号のどちらかが1925年製造となります。11-12号については藤井氏の著書に図面の記載があるため、誤っているとすれば200形の方でしょうか。もっとも、門立開業が12月27日なので反映が遅れた可能性もあります。何か情報があればお願いします。

--210.48.133.123 2019年9月7日 (土) 10:58 (UTC)[返信]

『足助鉄道誘致運動小史』12頁の参照元は同著112頁からの「三河鉄道株式会社要覧」(時期が未掲載だが三河鳥羽-蒲郡間が未開通の頃)からの引用でしょう。逆に社史の記述がこの三河鉄道時代の要覧を根拠にしているとも考えられます。その次に掲載された資料は社史の転記で内容が一致していますが、そちらには(社史同様に)路線名の言及はありません。
「○○鉄道+線」というのは「社線」や「○○線」同様、路線名が判明しない、あるいは書く必要がない場面において用いられる表現(例1例2)ですので直ちにそれが路線名を指しているかは慎重に考える必要があります。以下には三鉄時代に「三河鉄道線」「三河線」とした例が出てきますが、それを留意する必要があります。
『夏季案内』(三河鉄道発行、発行日不詳だが上挙母―岩脇開業前)では「三河本線」「岡崎支線」、『三河鉄道沿線名所と伝説』(1936年、三河鉄道事業部発行)では「三河線」「三鉄市内線(216頁)」と記載されていました(後者は自治体紹介の欄くらいにしか路線名に記載がないため、岡崎線区間の解説に路線名が出てきませんでした)。「三河線」とする例は『路面電車と街並み・岐阜・岡崎・豊橋』にも見られます。
『名古屋鉄道百年史』(146頁)には何故か「三河鉄道蒲郡線」が西尾鉄道と競合関係にある旨の記述がありますね…。もっとも計画・工事期の線名は「第一期線、第二期線、第三期線」「北部線、南部線」「足助延長線、蒲郡延長線」「南部計画線」等々、様々な通称が各文献で統一せず使われており、ここにある「蒲郡線」はその類と思われます(西尾鉄道の愛電合併前時点の三河鉄道はまだ三河吉田すら到達していませんし)。
郷土教育愛知県誌』では(三河電気鉄道になっているが)「岡崎線が岡崎駅前から上挙母まで」「本線が西中金から刈谷を経て三河鳥羽まで」となっています。ただ、愛電が「愛知鉄道本線」「愛知電気鉄道常滑線」となっており表記のブレが激しいです(名岐鉄道の「名古屋線」は下記資料にもみられる総称)。
鐵道旅客手小荷物運賃算出表』では三河鉄道線に「三河本線」「岡崎線」とあります(合併前の同昭和2年版では「三河鉄道線」)。鉄道省関係はこの見解でほぼ一致しているようです。--ButuCC+Mtp 2019年9月7日 (土) 12:36 (UTC)[返信]

お疲れさまです。そろそろ路線節の記述について検討したいと思いますが、ButuCCさんに草案を作成していただくことはできますでしょうか。同時代史料や他路線記事の記述を矛盾しないものを優先的に採用していただければ賛成しやすいです。--210.48.133.123 2019年9月8日 (日) 23:34 (UTC)[返信]

イメージとしては愛知電気鉄道#保有鉄道路線のような形になると思います。
まず、「路線名が資料上に書かれていない」ことと「路線名が存在しない」ことはイコールではなく、例えばノート:岳南電車岳南線(過去)のように『鉄道要覧』上に記載されていなかったとか、「ない」ことを証明する必要があります。特に今回のような過去の鉄道事業者の話では純粋に資料不足という事が(各資料の著者が文献を作成した時に得られた情報が、という意味でも)あり得ることですし、ここまでの調査で得られた名称が「路線名に関する言及がない文献」と衝突する、という事はないと考えます。ですので、路線名の言及の無い文献の事は横に置き、言及のある文献を紹介する形で事例として以下のような表記があることを最初に文章で断ります(【】の部分は書かないかもしれない)。
  • 単一路線時代は「三河鉄道線」「三河線」【「社線」】等と呼ばれていたこと【これは後年も全路線を指す場合に使われる】。
  • 岡崎電気軌道合併後は当該区間を「岡崎線」と呼び、旧来の路線は「三河本線」「本線」【三河線】等と呼ばれたこと。
  • 「三河本線」の場合は新川臨港線、大浜臨港線を含むこと。
  • 「岡崎線」は鉄道線区間のみをさす場合と軌道線区間をも含む総称である場合があること。
  • 軌道線区間の狭義名称は「岡崎市内線」「市内線」「軌道線」などがあること。
現状では鉄道省、名鉄社史、三鉄広報資料の3点が揃った「三河本線」は特に問題はないと考えます。次に岡崎線についてですが、複数の定義があるという点で言えば愛電の西尾線と同じ状況ではないでしょうか。西尾線は狭義では岡崎新-吉良吉田のみですが、広義ではそこに西尾-港前間の平坂線も加わり、愛電本線と対になる線区総称となります。これが三鉄の岡崎線でも起きていると考えます(全区間を岡崎線とする資料として「姿を消した岡崎の名鉄線」(市川満、鉄ピク79年)も追加提示します)。
軌道線区間については藤井氏の著書に「三河鉄道軌道線片道乗車券」が掲載されており、「軌道線」の根拠はおそらくこれでしょう。ただ、刈谷町誌によれば三河鉄道には鉄道部と軌道部があり、軌道線というのは軌道部の区間を指しているのかもしれません。なので他文献で見られる「市内線」「岡崎市内線」という表記や、広義の範囲での「岡崎線」までこの切符をもって否定することは難しいと思います。
以上から路線の列挙は下のような形になります(リンク、詳細説明、駅方向などはここではまだ適当です)。

保有路線

  • 三河本線
    • 西中金 - 蒲郡(本線)
    • 新川町 - 新川口(新川臨港線)
    • 大浜港 - 大浜口(大浜臨港線)
  • 岡崎線
    • 上挙母 - 岡崎井田(鉄道線区間)
    • 岡崎井田 - 岡崎駅前(軌道線区間)

廃止路線

  • 門立支線:三河岩脇 - 門立
なお、今後の予定として愛電同様に路線図と未成線の掲載を考えています。まぁそれはすぐに直すべき案件ではないので、歴史節(現状概要節となっているところが本来の歴史節で、今の歴史節は年表。概要は概要で改めて記事の要約を用意する予定)の加筆と同時期に行うつもりです。--ButuCC+Mtp 2019年9月9日 (月) 15:11 (UTC)[返信]
(追)『岩津町誌』にも「三河本線」の記載がありました。--ButuCC+Mtp 2019年9月9日 (月) 16:45 (UTC)[返信]

大筋で異存ありません。起終点などは説明いただけると思うので、もし違和感があればこちらでお知らせします。--210.48.133.123 2019年9月9日 (月) 23:40 (UTC)[返信]

起終点などの説明とは上り下りの向きについてでしょうか(それ以外であればご指摘ください)。方向については『鉄道停車場一覧』では蒲郡開通後も起終点が変わっていなかったのでどうしようか迷っていました(現在でも鉄道要覧と旅客上の上り下りが異なることはあるので、その類と考えていた)。しかし社史を見返したところ「営業キロ程の変遷(687頁)」にて「蒲郡-西中金」「新川町-新川口」「大浜港-大浜口」「上挙母-岡崎井田」「岡崎駅前-岡崎井田」と記載されていましたので、キロ程含めこれを採用しようと思います(百年史の同じ項目でも同様)。岡崎線の方向がバラバラなのは鉄道/軌道でそれぞれ別扱いされ東京駅に近い側になっているためですね(鉄道線も軌道線も岡崎井田が末端となる)。--ButuCC+Mtp 2019年9月10日 (火) 12:54 (UTC)[返信]

了解しました。よろしくお願いします。--210.48.133.123 2019年9月10日 (火) 23:36 (UTC)[返信]

路線節を加筆しました(出典テンプレートの使い方はいずれsfn式か愛電記事のような参考文献連動式に変える予定なので今回は適当です)。--ButuCC+Mtp 2019年9月11日 (水) 18:56 (UTC)[返信]

内容自体はとてもよいと思いますが、(名鉄の)路線記事へのリンクが消滅しているのはまずいと思います。仮に追記しておきますが、書き方は後で変えていただいて結構です。--210.48.133.123 2019年9月12日 (木) 02:28 (UTC)[返信]


1-3号の改造について、岡崎図書館所蔵の『岡崎電気軌道の車両について』(藤井氏著)にて“大正13年11月28日付の認可で「車体老朽ニツキ改造」されている”との説明がありました。これの引用元について記載がありませんが、それに続く形で4号廃車時期(大正13年11月24日申請、翌年1月29日認可)については鉄道省の車両認可関係名簿によると書かれており、参照した一次資料はそれに類するものと思われます。--ButuCC+Mtp 2019年12月14日 (土) 05:13 (UTC)[返信]


豊田市近代の産業とくらし発見館の企画展に展示されていた「愛電タイムス」第64号(昭和5年7月1日、個人蔵)」の一面に後に頓挫する三鉄・愛電合併の記事があり、そこには『不日を以つて三河鐵道線は愛知電鐵の三河線(舊三河本線)、岡崎線と名を替へる。』と記載されていました。--ButuCC+Mtp 2020年11月1日 (日) 02:49 (UTC)[返信]

岡崎電気軌道について諸々[編集]

「4月16日説は出処が藤井氏のみであると考えられる」と各所で合併日の編集がされましたが、出処は社史ではないでしょうか(本文。年表は複写してないのでまだ未確認)。社史で採用されていることからおそらく孫引きでしょうが、以下の文献でも4月16日としています(同著者他文献は割愛)。

  • 『名古屋鉄道百年史』 ※4月
  • 『三河を走って85年』
  • 『路面電車と街並み : 岐阜・岡崎・豊橋』
  • 『名古屋鉄道車両史 上巻』(清水) ※4月
  • 『東海地方の鉄道敷設史 II』(井戸田)
  • 『日本鉄道旅行地図帳』(今尾)
  • 『名鉄の廃線を歩く』(徳田)
    • 「三鉄ものがたり」(新實)
  • 鉄道ピクトリアル
    • 「名古屋鉄道の系譜」(71、中川)
    • 「姿を消した岡崎の名鉄線」(79、市川)
    • 「名古屋鉄道のあゆみ -その路線網の形成と地域開発-」(86、青木)
    • 「名鉄三河線ものがたり」(95、白井)

岩津町誌』でも7月としているなど当時の資料は見逃せないものですが、一方で4月16日説もこれだけ広く散見されるとなると、注釈なりで両論併記せざるを得ないと思います。これについては確か岡崎市史の資料編に両社合併の文書が収録されていたはずなので、今度みてきます。

もう一件、最初の会社名が「岡崎馬車道」だったとする資料はご存知でしょうか。各務原鉄道の社紋にあるように「金を失う」を忌避する感覚は戦前からあったようですが、そもそも正式名称には当時の標準である「鐵」や古字の「銕」を用いればいいわけで、「鏃」の俗字である「鉃」を使う必要はあったのかな…と。--ButuCC+Mtp 2019年9月17日 (火) 11:33 (UTC)[返信]

出処が社史であるというご指摘について、その通りだと思いました。ただ、路線や駅の改廃と異なり登記事項なので正規の手続きを踏まねば法的効力が発生せず、正解は一つだけです。当時の商法では「決議後2週間以内に債権者保護公告」「債権者保護公告後合併期日までに2ヶ月以上」「合併後2週間以内に登記」となっており、官報には債権者保護公告が見当たらないのでおそらく新愛知新聞に記載があるものと思われます(今月中に調べます)。また1942年以前の商業登記は全て官報公告されているはずですが、付録部分が文字情報化されておらず検索できない上に日付がバラバラなので発見できていません。仮に社史以降の言及について注釈するのであれば、同時代史料に見られない旨を付け加えることは必須だと思います。

1911年の官報でも商業登記は全て記載されており、岡崎電気軌道への社名変更もどこかにはあるはずです。日付がわからないことには現実的ではないですが…--210.48.133.123 2019年9月18日 (水) 00:22 (UTC)[返信]

合併期日について、相違する原因がわかりました。まずは1927年9月9日付け官報を御覧ください。岡崎電気軌道の項目では7月19日合併により解散→7月29日登記、三河鉄道の項目では2月15日決議→4月16日合併→7月30日登記となっています。社史は三河鉄道の項を参照したのでしょうが、2月15日の決議で2月15日に債権者保護公告を行うことは不可能で、2月16日に行った場合、初日不算入の規定により合併できるのは4月17日以降となります。2週間以内の登記という点を踏まえても、岡崎電気軌道の解散日を合併期日と判断して差し支えないでしょう。--210.48.133.123 2019年9月18日 (水) 02:23 (UTC)[返信]

1911年10月14日付け官報で「岡崎馬車鐵道」となっているのを確認したため記事に反映します。--210.48.133.123 2019年9月18日 (水) 03:38 (UTC)[返信]

『新編岡崎市史』10巻(近代下、史料編)1194-1195頁にある「三河鉄道・岡崎電気軌道合併契約書」を確認してきました(甲=三鉄、乙=岡電)。以下一部引用します。
  • 第九条 甲乙ノ合併期日ヲ昭和弐年四月拾六日トス
  • 第十条 (前略)必要ナル決議ヲ経ル為メ昭和弐年四月拾五日ヲ期シ各株主総会ヲ開クモノトス
  • 第十一条 (前略)承認ヲ経タルトキハ其効力ヲ生スルモノトス 但シ効力発生後ト雖モ(中略)主務官庁ノ許可認可ヲ得ルコト能ハサルトキハ当然其効力ヲ失フモノトス
企業合併とか会社の話に疎いので色々ググりながらの考察ですが、合併契約書上の期日は第九条により4月16日としているものの、何らかの理由で認可が遅れて6月1日(≒認可書の到達?)となり、第十一条により官庁の認可が優先されて効力発生日も変わり、登記なりの手続きも6月1日以降にずれ込んだという事でしょうか。
ここまでの情報からすれば法的には7月19日で正しいように思われるので、7月説が主、4月説が従(注釈)という書き方がよさそうです。合併契約書の内容を見る限りは当初はやはり4月16日を目途に合併する予定だったとみられ、法的にはともかく実務上は4月15日の株主総会決議をもって合併扱いで営業していたのかもしれません。推測なので注釈には書きませんが社史が4月説を採用したのはそういう面があったのではないかと。--ButuCC+Mtp 2019年9月18日 (水) 11:21 (UTC)[返信]

契約書が4月15日決議4月16日合併になっているのなら、そもそも担当者の法的無知ですね。それに、鉄道省の認可は合併の効力が発生する条件であって、認可が下りなかった場合に遡って無効となるものではありません。ところで、合併契約書末尾の署名押印日付は何日になっていますか。これが2月16日以降であると、三河鉄道が登記所(岡崎区裁判所知立出張所)に偽造した株主総会議事録を提出したことが確定してしまいます。もちろん犯罪ですが、時代背景や後の粉飾事件を考えればあり得ないことではなさそうです。合併日が中途半端な日付であることを踏まえて現段階で推測を交えた仮設を立てれば次のとおりです。

  1. 4月15日決議4月16日合併とする合併契約書を作成・署名押印(4月上旬)
  2. 4月15日株主総会決議
  3. 三河鉄道が債権者保護公告の期間を満たすよう2月15日決議と偽造した議事録とともに4月16日合併とする登記申請書を提出(4月下旬)
  4. 実際には債権者保護公告も鉄道省の認可もないため、法的効力が生じておらず受理できない旨の回答(5月上旬)
  5. 5月18日に債権者保護公告を実施
  6. 6月1日鉄道省認可
  7. 認可後かつ債権者保護公告から2ヶ月経過により7月19日合併の効力発生
  8. 岡電が7月19日を期日とする何らかの根拠書類とともに登記申請書を提出
  9. 7月29日岡崎区裁判所が岡電の登記
  10. 7月30日岡崎区裁判所知立出張所が三河鉄道の登記(同じ書類を根拠とするが登記申請書は修正しない)

いずれにせよ岡崎市史と新愛知新聞を調査の上で、何らかの記載は行います。少し時間をください。--210.48.133.123 2019年9月19日 (木) 00:31 (UTC)[返信]

合併契約書の期日は昭和弐年壱月拾八日(1月18日)です。現在は株主総会の承認決議は効力発生の前日までで問題なく、契約締結後に債権者保護手続などを事前(本件であれば2月16日以前)に行っておけば総会決議翌日に合併は可能なようですが、当時は駄目だったのでしょうか。
注釈に関しては社史以降の文献に「4月16日」と書かれていること、その根拠は合併契約書であること、しかし(鉄道省認可が6月1日となっていることから)予定通りの期日に実施できなかったことがフォローされていれば概ね異論有りません。もちろんそうなった原因を突き止められればベストですが、「4月16日」「7月19日」という2つの日付が存在すること自体はこれで十分説明できると思います。--ButuCC+Mtp 2019年9月19日 (木) 11:35 (UTC)[返信]

債権者保護手続きについては旧商法の「決議後2週間以内」が2006年の会社法施行まで存在しました。注釈についてはご意見を踏まえて編集させていただきます。--210.48.133.123 2019年9月19日 (木) 23:36 (UTC)[返信]

資料の調査が完了しました。結論から言うと、市史・公告ともに決議日が2月15日となっており、ButuCCさんの引用ミスとなります。順次記事に反映します。--210.48.133.123 2019年9月20日 (金) 10:24 (UTC)[返信]

資料編の誤字は大変申し訳ありませんでした。2月15日総会決議なら合併契約書の期間設定に齟齬は無かったことになりますし、私の勘違いで余計な混乱が生じてしまったようで穴があったら入りたいです(^_^;
加筆内容も『新愛知』により広告が確認されていて素晴らしいです。調査していただきありがとうございました。--ButuCC+Mtp 2019年9月20日 (金) 13:02 (UTC)[返信]

本筋には大きく差し支えない内容なのですが、参考にしてもらえればと思います。鉄道会社の合併については商法上の手続きのみでは行えないということです。 そして補助的にですが、解散についても条文をのせています。

  • 鉄道 地方鉄道法第10条1項 地方鉄道会社ハ監督官庁ノ認可ヲ受クルニ非サレハ合併ヲ為スコトヲ得ス
        第27条2項 地方鉄道会社ノ解散ノ決議ハ主務大臣ノ認可ヲ受クルニ非サレハ其ノ効力ヲ生セス
    施行規則第30条   会社合併ノ認可申請書ニハ合併ノ事由及方法ヲ具シ合併契約書ノ謄本ヲ添付シ地方長官ヲ経由シ之ヲ提出スヘシ
        第45条2項 会社解散ノ決議認可申請書ニハ其ノ理由ヲ具シ社員ノ同意書又ハ株主総会ノ議事及決議ノ要領書ヲ添付シ地方長官ヲ経由シ之ヲ提出スヘシ
  • 軌道 軌道法  第22条  軌道会社ハ主務大臣ノ認可ヲ受クルニ非サレハ合併ヲ為スコトヲ得ス
        第26条  (地方鉄道法第27条の準用)
    施行規則第27条  (地方鉄道法施行規則第45条の準用)

以上の通り鉄道・軌道ともに主務官庁の認可後にしか合併を行うことができないことが分かります。

細かく見ていけば合併には

・申請書
・理由書・方法書
・契約書写し

解散には

・申請書
・社員同意書or株主総会議事録・決議録

以上のものが必要になります。

次に実際の運用でこの規制についてみていきます。私が鉄道省文書(国立公文書館所蔵)で確認した近しい時期の事例として京阪・新京阪と京阪・京津の史料があります。

  • 京阪・新京阪(平12運輸00482100・平12運輸00543100より作成)
契約日 S5.6.17
予定日 S5.9.15
決議日 S5.6.17
申請日 S5.6.26
認可日 S5.9.9
合併日 S59.15
  • 京阪・京津 (平12運輸00483100・平12運輸00548100より作成)
契約日 T13.8.30
予定日 T14.2.1
決議日 T13.9.27
申請日 T13.9.15
認可日 T14.1.27
合併日 T14.2.1
備考 申請書に追而株主総会資料を送付するとの文言(T13.10.6にて提出)

予定日は合併契約書内の合併予定日を指し、合併日は合併実施日を指しています。 この実施日を三河・岡崎合併日の資料として示していた統計資料ではどうなっているかを確認します。

認可日・合併(実施)日ともに一致。
認可日・合併(実施)日ともに一致。

これらのことから統計資料内の合併日は、当然といえば当然ですが合併契約書内の予定日と同一のものということになります。

今回の三河・岡崎の事例に当てはめると

  • 三河・岡崎
契約日 S2.1.18
予定日 S2.4.16→S2.7.19
決議日 S2.2.15
申請日 S2.2?
認可日 S2.6.1
合併日 S2.7.19

以上の様になるでしょう。 また、予定日に関して京阪・京津の予定日を決める契約書条文内に以下のような文言があります。

  • 第9条 甲乙ノ合併期日ハ大正拾四年貮月壹日トス
    但シ其ノ期日前ニ合併ニ関シ必要ナル手続ヲ遂行シ能ハサルトキハ甲乙両会社ノ代表者ノ協議ニ依リ右期日ヲ変更スルモノトス

実際の申請書や添付資料を確認しなければわかりませんが、これら考えられうることは、申請自体は決議日からそう離れないうちに行っており、審査過程が何らかの事情で遅滞し、予定日を過ぎてしまった。そのため予定日を訂正した契約書をもって6.1の認可を受けたすれば筋が通るかと思います。また官報内で日時が違う件ですが、合併終了を届け出ますので、そちらによるべきですので確たることは言えません。長文失礼いたしました。--花村碧会話2019年9月23日 (月) 16:39 (UTC)[返信]

商法上の問題について、厳密に言えば1日足りない(2月16日に公告したにもかかわらず2月15日付け)という問題が解決されていませんが、本文で4月説を取らないのであれば掘り下げる意味がないのでこの状態でよいかと思います。ButuCCさんに教えていただくまで契約書の存在を知らなかったので、こちらこそ感謝申し上げます。--210.48.133.123 2019年9月23日 (月) 23:56 (UTC)[返信]

社紋の謎[編集]

三河鉄道の社紋は文献により2パターンが確認できています(確か新實守氏が著書で逆さになっていることを指摘していたはずですが、どこに書いてあったか忘れました)。

  • (A):社史、百年史、現在の名鉄側の認識(レトロ社紋スタンプラリーin三河
  • (B):当時の三河鉄道作成の営業報告書『第○○報告』(豊田、岡崎図書館等所蔵)、新實氏関連書籍、かつて名鉄が発行した「70周年記念乗車券」(ネットで探してもオークションサイトの画像しかヒットしないので検索結果だけ掲示)

今枝憲治氏の『愛知電気鉄道 三河鉄道・碧海電気鉄道・岡崎電気軌道・知多鉄道・新三河鉄道・西尾鉄道の乗車券』掲載の三河鉄道関係乗車券の券面ではBタイプが主流ですがAタイプも数件確認できます。また、かつて存在した鬼瓦のマークは小垣江がB岩津がAとみられます。個人的には三鉄自身がBタイプを主に使っていることからこちらを推したいのですが、上記写真の境界杭といいAタイプもそこそこ見かけるのは謎です。名鉄自身が社史編纂時にAタイプを選んだ理由も分かりませんし…。なお、新實氏は三鉄社紋が逆さに収録されていることから新三河鉄道も逆さと判断しているようですが、今のところ新三河鉄道は社史掲載パターンに反する形状のものは発見できていません。--ButuCC+Mtp 2019年9月22日 (日) 17:00 (UTC)[返信]

岩津駅を建設したころに社紋を変えたのでしょうか?ところで、境界杭(Aタイプ)はどこにあるのでしょうか?岩津駅なのか、小垣江駅なのか?この種の写真だけではどこにあるのかわからないものはLocationテンプレートをつけていただくと助かります。--HQA02330会話2019年9月23日 (月) 00:53 (UTC)[返信]
境界杭は竹村駅です。--ButuCC+Mtp 2019年9月23日 (月) 05:22 (UTC)[返信]
よくよく考えてみると岩津駅は岡崎電気軌道が開業した駅であるから、途中で社紋の入った瓦を三河鉄道の物に入れ替えたか、駅舎自体を三河鉄道が立て替えたことになりますが。--HQA02330会話2019年9月23日 (月) 07:16 (UTC)[返信]
岩津駅についてはこちらをどうぞ。--ButuCC+Mtp 2019年9月23日 (月) 13:21 (UTC)[返信]
『第参拾五回報告』(自昭和4年10月1日、至昭和5年3月31日)においてもBタイプでした。--ButuCC+Mtp 2019年9月23日 (月) 13:21 (UTC)[返信]

社紋については特に資料を有していないので一般論ですが、複数の用例がある場合は本文中で並べて説明いただければと思います。infoboxのように一方を選択する必要がある場面ではButuCCさんの仰るとおり同時代史料優先で良いかと思います。新三河鉄道に関してはノート:新三河鉄道でお願いします(本件とは直接関係ないのですが、新三河鉄道で設立日が出典と一致しないなどの問題が見られるので、現在検討を行っています)。--210.48.133.123 2019年9月23日 (月) 23:56 (UTC)[返信]

情報 - ツイッターに掲出された資料に三河鉄道の社紋変遷について言及がありました。曰く昭和10年頃までは『切れ目が下向き(B)』であったのを、業績が悪いのはそこから金が漏れるからだと重役会で『切れ目が上向き(A)』に変更したとの事。この『社史異聞』と題された記事がどこに掲載されていたのか知りたいところですが(社内報の類か?)、ともあれヒントは得られたので昭和10年(1935年)以降の資料などを探求すればAの事例を発見できるかもしれません。

これで社史にAタイプが採用された経緯が判明したわけですが、現状のソースがツイッター掲載の画像のみであり、記事に使える出典が確保できたわけではないのが歯痒い所です。ツイートそのものが出典として有効か否かというのも一般論としてあるのですが(Template:Cite tweet/doc)、本件はそれ以前の問題として「掲載画像の資料の素性が分からない」というのがあり、仮に本件がツイッター出典として有効なケースだったとしても画像の詳細について記せなければ意味がなく、逆にそれが判明するならツイッターを出典とせずその文献名を書けばいい話になってきます。

昭和10年前後を境にBからAに変わったことを説明するためには当該画像にある記述かそれに準する記述がある資料を探すひつようがあります。単に変化の前後関係を示すだけなら昭和9年から11年あたりの営業報告書等の1次資料に使用された社紋の変化を確認するという手もありますが、今のところ同時期の資料では『三河鉄道沿線名所と伝説』(1936年)をはじめ社紋が見当たらないものしか発見できていません…。--ButuCC+Mtp 2020年5月2日 (土) 17:19 (UTC)[返信]

誰に聞いているのか不明ですが。。--HQA02330会話) 2020年5月4日 (月) 23:30 (UTC)。--HQA02330会話2020年5月7日 (木) 03:06 (UTC)[返信]
誰に聞いているとは…?
こういった情報募集や資料の検証では回答者を絞るメリットは何もないので、特定の誰かに向けて聞いているわけではありませんよ。ですから上記の「社史異聞」の素性についてご存知の方がいれば誰でも歓迎します。--ButuCC+Mtp 2020年5月5日 (火) 02:34 (UTC)[返信]

(追記)先のツイッターを投稿された方の他のツイートを見た限りの印象ですが、上記『社史異聞』掲載誌は名鉄社内報「れいめい」である可能性が高そうです。しかしそうなると記事への採用は検証可能性の点から難しいかもしれません。--ButuCC+Mtp 2020年5月19日 (火) 12:48 (UTC)[返信]

デワ1について[編集]

伊那電気鉄道所属電動貨車譲渡並びに設計変更の件というものがありました。該当しうるものがデワ1しかないので、少なくとも書類上は新造ではなさそうです。--210.48.133.123 2020年5月29日 (金) 07:26 (UTC)[返信]