トーマス・マン

トーマス・マン
Thomas Mann
ヴァイマル訪問時(1949年)
誕生 パウル・トーマス・マン (Paul Thomas Mann)
1875年6月6日
ドイツの旗 ドイツ帝国
自由ハンザ都市リューベック
死没 (1955-08-12) 1955年8月12日(80歳没)
スイスの旗 スイス
チューリヒ近郊キルヒベルク
職業 小説家
国籍 ドイツの旗ドイツ国の旗ドイツの旗ナチス・ドイツの旗 ドイツ
チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
代表作ブッデンブローク家の人々』(1901年)
トーニオ・クレーガー』(1903年)
ヴェニスに死す』(1912年)
魔の山』(1924年)
ファウストゥス博士』(1947年)
デビュー作 『転落』(1894年)
配偶者 カタリーナ・マン
子供 エーリカ、クラウスゴーロ、モーニカ、エリザベート、ミヒャエル
親族 ハインリヒ・マン(兄)
署名
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ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1929年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:「主に現代の古典としての認識を広く得た傑作『ブッデンブローク家の人々』に対して」[1]
ハインリヒ・マン(左)とトーマス・マン

パウル・トーマス・マン(Paul Thomas Mann、1875年6月6日 - 1955年8月12日)は、ドイツ出身の小説家評論家

リューベックの富裕な商家に生まれる。当初は実科を学んだが処女小説『転落』が認められて文筆を志し、1901年に自身の一族の歴史をモデルとした長編『ブッデンブローク家の人々』で名声を得る。その後市民生活と芸術との相克をテーマにした『トーニオ・クレーガー』『ヴェニスに死す』などの芸術家小説や教養小説の傑作『魔の山』を発表し、1929年ノーベル文学賞を受賞した。

1933年ナチスが政権を握ると亡命し、スイスアメリカ合衆国で生活しながら、聖書の一節を膨大な長編小説に仕立てた『ヨセフとその兄弟』、ゲーテに範を求めた『ワイマルのロッテ』『ファウストゥス博士』などを発表。終戦後もドイツに戻ることなく国外で過ごしたが、『ドイツとドイツ人』などの一連のエッセイや講演でドイツの文化に対する自問を続けた。

ハインリヒ・マン、長男クラウス・マンも著名な作家である。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

トーマス・マンは1875年、中世にはハンザ同盟に属していた北ドイツの商業都市リューベックに生まれた。マン家は18世紀末以来この地で商家を営む豪商の家系であり、祖父ヨハン・ジークムント・マンはオランダ名誉領事およびリューベック市民代表、父トーマス・ヨハン・ハインリヒ・マンは市参事会議員として市長に次ぐ地位にある要人であった。母ユーリア・マン(旧名ユーリア・ダ・シルヴァ=ブルーンス)はブラジルで貿易商を営んでいた娘であり、ポルトガル系ブラジル人を母に持つ異国的な風貌の女性である。ヨハン・トーマス・ハインリヒ・マンは彼女との間に三男二女をもうけ、作家ハインリヒ・マンが長男・第一子、トーマス・マンが次男・第二子に当たる。なお二人の妹ユーリア(1877年 - 1927年)、カルラ(1881年 - 1910年)は結婚後ともに自殺している。

マンの両親は読書家であり、マンは国内外の小説や童話を初めとする多くの書物に触れて育った。1882年に、当時の上流家庭の子息が通うドクター・ブセニウスの予備高等学校に入学。1889年にカタリーネウム高等学校(ギムナジウム)に入学、兄が大学入学資格の取れる科に進んだのに対しマンは実科コースに進んだ。しかしマンは優れた成績は残しておらず、予備高等学校時代には6年目に落第、高等学校でも2年落第を受けている。一方詩作は早くから始めており、高等学校時代に教室で学んだシラーの詩と『ドン・カルロス』、またリヒャルト・ワーグナーの楽曲に感銘を受けた。

1891年、マンが16歳のとき父ヨハンが死去し、前年に設立100年を迎えていたヨハン・ジーグムント・マン商会が解体する。一家は屋敷を売り翌年ミュンヘンに移るが、マンのみ実科終了資格を取るために2年間リューベックに残った。1893年、同級生を集めて5月と7月に校内雑誌『春の嵐』を作り詩や散文数篇を寄せる。1894年3月、兵役を1年で終えることができる志願兵資格を得られるだけの学級を終えたため高等学校を中退、一家の待つミュンヘンに移った。

作家生活と家庭[編集]

1893年4月よりマンは南ドイツ火災保険会社の見習いとして働き始め、その傍ら小説作品の執筆を続けた。10月、処女作品となる短編小説『転落』がライプツィヒの文芸雑誌『社会』に掲載される。この作品によって抒情詩人リヒャルト・デーメルから賛辞の手紙を受け、マンは筆によって立つことを決意、保険会社を辞してミュンヘン工科大学の聴講をしながら作品の執筆を行った。この頃にショーペンハウアーニーチェの哲学に興味を持つ。1896年より『幸福への意志』『幻滅』『小フリーデマン氏』『ルイスヒェン』など一連の短編作品を発表、1898年に最初の短編集『小フリーデマン氏』が出版される。

1897年夏、マンは兄ハインリヒとともにローマに滞在し、兄弟で合作絵本などを作っているうち、一家の歴史を題材にした小説を共同で書くことを思い立った。この思いつきに兄は次第に興味を失っていったが、マンはその後多数の親戚を訪れて証言を取り、10月に執筆に取り掛かった。2年半の執筆期間を経て1901年5月、11部からなる長編『ブッデンブローク家の人々』が完成。翌年10月に出版されると広く読者を集め、第一次大戦前までにはデンマーク語スウェーデン語オランダ語チェコ語に訳されるベストセラーとなった。『ブッデンブローク家の人々』はその後1929年にノーベル文学賞を与えられた際に受賞理由として挙げられている。1903年代表作の一つ『トーニオ・クレーガー』発表。

1905年ミュンヘン大学に務めるユダヤ系数学教授の娘で当時学生だったカタリーナ・プリングスハイム(愛称カティア Katia またはカトヤ Katja)と結婚。その後彼女との間にエーリカ(de:Erika Mann)、クラウス(作家)、ゴーロde:Golo Mann、歴史家)、モーニカde:Monika Mann)、エリーザベトde:Elisabeth Mann、ピアニスト)、ミヒャエルde:Michael Mann、ヴァイオリニスト)の6子をもうけた。マンは朝9時から3時間を執筆時間に当て、マン家ではこの3時間を「魔術師の時間」と呼び静寂を保つように務めたという。

1910年、ミュンヘンでグスタフ・マーラーの『交響曲第8番』初演を聴き、マーラー自身と知り合う。翌年、マーラーが死去した直後にヴェネチアを旅行。1912年にマーラーの死に触発されて書かれた中編『ヴェニスに死す』を発表する。

第一次大戦前後[編集]

1912年、夫人カタリーナが肺病を患ったためスイスのダヴォスにあるサナトリウムで半年間の療養生活を送った。この年の夏見舞いに訪れたマンは、夫人から聞いた体験や挿話を元に小説を書くことを思い立つ。当初短編小説のつもりだったその作品はその後12年の間書き続けられたのち『魔の山』として発表されることになった。

1914年第一次世界大戦が勃発。マンはこの大戦を文明に対する文化としてのドイツの戦いと位置づけてドイツを積極的に擁護したが、この立場はロマン・ロランや実の兄ハインリヒ・マンから批判を受け、一時兄弟で仲違いをすることになった(1922年に和解)。1915年より2年の間『非政治的人間の省察』を執筆、協商国フランス帝国主義民主主義に対し、反民主主義的不平等人格主義のドイツを擁護して論じた。1918年にドイツが敗戦すると、マンはドイツにおける市民社会の代弁者として各地で講演に招かれ、1923年の著作『ドイツ共和国について』でヴァイマル共和政への支持をドイツの知識層に呼びかけた。1924年魔の山』発表。1926年より『ヨセフとその兄弟』に着手。旧約聖書の一節をそれだけで図書館が建つと言われるほどの膨大な資料をもとに長大な小説に仕立て上げたもので、その後幾度も中断を経て1944年まで書き継がれた。1929年ノーベル文学賞受賞。翌年に受賞第1作となる『マーリオと魔術師』を発表する。

1930年前後よりナチスが台頭すると、マンは国家社会主義の新聞に対して論陣を張り、1930年にはベルリンで講演『理性に訴える』を行いナチズムの危険性を訴えた。またこの講演では労働者階級による抵抗を励ますと同時に社会主義共産主義への共感が増していることを表明している。1933年1月30日ヒトラーが政権を握ると、兄ハインリヒ・マンとともにドイツ・アカデミーを脱退。2月23日から夫婦でスイスに講演旅行中にベルリン国会炎上事件が起き、ミュンヘンにいた長男クラウスから助言を受けてそのままスイスに留まる決意をする。1936年、マンはドイツ国籍およびドイツにおける財産を奪われ、自宅に残してきた日記、書簡、資料やメモ類を永久に失った。

亡命生活と戦後[編集]

1933年秋、マンはスイスチューリッヒ近くのキュスナハトKüsnacht)に住居を定めた。1935年のマン60歳の誕生日もスイスで盛大に行なわれ、出版社から贈られた祝詞集にはアルベルト・アインシュタインバーナード・ショークヌート・ハムスンなどからの手書きの言葉が寄せられた。同年ハーヴァード大学名誉博士を授与される。1936年11月、チェコスロバキア国籍を取得。1937年スイスにおいて雑誌『尺度と価値(Maß und Wert)』を創刊、1940年の廃刊まで同誌で反ナチスの論陣を張る。1938年、アメリカに移住しプリンストン大学客員教授に就任(のちに名誉教授)。大戦中のアメリカではドイツ、オーストリアからの亡命者を支援した。

1939年、長編小説『ワイマルのロッテ』をストックホルムに亡命中のフィッシャー社より刊行。文豪としての名声を得たゲーテと、彼がかつて『若きヴェルテルの悩み』のロッテのモデルとしたシャルロッテ・ブッフとの再会を描いており、のちに作品の一節をニュルンベルク裁判でイギリスの裁判官がゲーテ自身の言葉として引用したことが問題となった。

1940年6月、フランス降伏後の「緊急救出委員会」に協力。10月よりBBC放送を通じて毎月定期的に、ドイツ国民にナチスへの不服従を訴え続けた。しかし国外で富裕な生活を送りながら反独活動をしたことは戦後ドイツでマンに対する賛否両論が起こる原因となった。

1941年1月、ルーズベルト大統領の賓客として、ホワイトハウスに滞在。4月にカリフォルニア州パシフィック・パリセーズに家を建て永住を決める。1944年6月、アメリカ市民権を取得。1947年、長編『ファウストゥス博士』を発表。40年以上前の短編プランをもとに着手されたもので、自身の芸術と文学に対する集大成を行なった。1949年フランクフルト・アム・マインよりゲーテ賞を受賞。

キルヒベルクのマンの墓

1952年6月、パシフィック・パリセーズを離れ、ヨーロッパ各地を巡ったのち12月にチューリッヒ南隣のキルヒベルクKilchberg)に移り住む。この年レジオン・ドヌール将校十字章を受章。1953年、22年ぶりに故郷リューベックを訪れる。1954年、『詐欺師フェーリクス・クルルの告白 回想録の第1部』を出版。

1955年3月、リューベック名誉市民、およびベルリン・ドイツ芸術アカデミー名誉会員に選ばれる。5月にはフリードリッヒ・シラー大学名誉博士号を贈られ、ドイツ・シラー協会名誉会長となった。6月には80歳の誕生日を記念し東ドイツで全集が刊行。チューリヒで行なわれた祝賀会で全集が手渡され、フランスからの祝詞集にはヴァンサン・オリオール大統領、ロベール・シューマン外相、シュヴァイツァーピカソロジェ・マルタン・デュ・ガールモーリアックマルローカミュらが言葉を寄せた。この年の7月、オランダで病に倒れ、チューリッヒ州立病院へ送られる。8月12日、心臓冠状動脈血栓症により同地にて死去。遺体はキルヒベルクに葬られた。埋葬式に数百人が集まり、ヘルマン・ヘッセが別れの言葉を述べた。

日本における受容[編集]

日本での初翻訳は1910年(明治43年)に『帝国文学』第16巻9号に掲載された林久夫訳による短編『箪笥』(現在では普通『衣装戸棚』と訳される)であり、単行本では1927年(昭和2年)に日野捷郎(實吉捷郎)の訳による『トオマス・マン短編集』『トニオ・クレエゲル』が初である。以後多数の翻訳が出ているが、1940年に刊行開始した三笠書房の全集は、戦時中に敵性作家と見なされたため中絶を余儀なくされた。その後1971年-1972年に新潮社から全12巻の全集が刊行されており、全作品と代表的な評論、および主要な書簡が収められている。

またマンの日記は、死後20年間開封するべからずとの本人遺言に従って1975年に初めて開封され、ドイツ本国では全10巻で刊行されている。日本語訳版は紀伊国屋書店で(1985年から)順次刊行され、10巻目が2016年に刊行した。

マンから影響を受けている作家には三島由紀夫吉行淳之介北杜夫大江健三郎辻邦生らがいる。三島は『国文学 昭和45年5月臨時増刊号』で、三好行雄との対談においてマンからの影響を語っており、マンによって初めて西欧的な二元論にぶつかったと述べた。またドナルド・キーンによれば、三島は自身の代表作『金閣寺』の文体を「鴎外 プラス トーマス・マン」だと述べており、キーンは『暁の寺』にも『魔の山』からの文体的影響を指摘している(『悼友紀行』、中央公論社)。北は学生時代からマンの作品に親しんでおり、北杜夫というペンネーム自体が『トーニオ・クレーガー』から由来したものである。彼のデビュー作『幽霊』は『トーニオ・クレーガー』から、代表作『楡家の人々』は『ブッデンブローク家の人々』から、それぞれ強い影響を受けている。辻も学生時代からマンの小説を愛読し、パリに留学した頃には『ブッデンブローク家の人々』を精読して文章ごとにカードを作って作品の構成や手法を徹底的に研究したという(『パリの手記』より)。また『ファウストゥス博士』も、仏語訳をもとに研究し、マン論を岩波書店で出している(参考文献を参照)。

独文学者山口知三(1936-2021)は、その著『三つの国の物語 トーマス・マンと日本人』(鳥影社  2018年)において、「1920年から1930年代にかけてのトーマス・マン文学の日本への受容史を振り返り、マンの実像と当時の日本のゲルマニストたちによって紹介されたマン像の落差の問題を、鋭く追及した」(斎藤佑史)[1]

著作一覧[編集]

長編小説[編集]

『魔の山』
『ヴェニスに死す』
『非政治的人間の省察』

中・短編小説[編集]

  • 転落(Gefallen, 1894年)
  • 幸福への意志(Der Wille zum Glück, 1896年)
  • 幻滅(Enttäuschung, 1896年)
  • 死(Der Tod, 1897年)
  • 小フリーデマン氏(Der kleine Herr Friedemann, 1898年)
  • 道化者(Der Bajazzo, 1897年)
  • トービアス・ミンダーニッケル(Tobias Mindernickel, 1898年)
  • 衣装戸棚(Der Kleiderschrank, 1899年)
  • 報い(Gerächt, 1899年)
  • ルイスヒェン(Luischen, 1900年)
  • 墓地への道(Der Weg zum Friedhof, 1900年)
  • 神の剣(Gladius Dei, 1902年)
  • トーニオ・クレーガーTonio Kröger, 1903年)
  • トリスタンTristan, 1903年)
  • 飢えた人々(Die Hungernden, 1903年)
  • 神童(Das Wunderkind, 1903年)
  • ある幸福(Ein Glück, 1904年)
  • 預言者の家で(Beim Propheten, 1904年)
  • 悩みのひととき(Schwere Stunde, 1905年)
  • ヴェルズンゲンの血(Wälsungenblut 1905年)
  • 逸話(Anekdote, 1908年)
  • 鉄道事故(Das Eisenbahnunglück, 1909年)
  • なぐりあい(Wie Jappe und Do Escobar sich prügelten, 1911年)
  • ヴェニスに死すDer Tod in Venedig, 1912年)
  • 主人と犬(Herr und Hund, 1918年)
  • おさな児の歌(Gesang vom Kindchen, 1919年)
  • 混乱と幼い悩み(Unordnung und frühes Leid, 1926年)
  • マリオと魔術師(Mario und der Zauberer, 1930年)
  • すげかえられた首(Die vertauschten Köpfe - Eine indische Legende, 1940年)
  • 十戒(Das Gesetz, 1944年)
  • あざむかれた女(Die Betrogene, 1953年)

エッセイ・講演[編集]

  • フリードリヒ大王と大同盟(Friedrich und die große Koalition, 1915年)
  • 非政治的人間の考察(Betrachtungen eines Unpolitischen, 1918年)
  • ドイツ共和国について(Von deutscher Republik, 1922年)
  • ゲーテとトルストイ(Goethe und Tolstoi, 1923年)
  • ドイツ共和国について(Von deutscher Republik, 1923年)
  • 理性に訴える(Deutsche Ansprache. Ein Appell an die Vernunft., 1930年)
  • 市民時代の代表者としてのゲーテ(Goethe als Repräsentant des bürgerlichen Zeitalters, 1932年)
  • 作家としてのゲーテの生涯(Goethes Laufbahn als Schriftsteller, 1933年)
  • リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩(Leiden und Größe Richard Wagners, 1933年)
  • フロイトと未来(Freud und die Zukunft, 1936年)
  • 来るべきデモクラシーの勝利について(Vom zukünftigen Sieg der Demokratie, 1938年)
  • ショーペンハウアー(Schopenhauer, 1938年)
  • この平和(Dieser Friede, 1938年)
  • 自由の問題(Das Problem der Freiheit'7, 1939年)
  • ドイツとドイツ人(Deutschland und die Deutschen, 1947年)
  • 我々の経験から見たニーチェ哲学(Nietzsches Philosophie im Lichte unserer Erfahrung, 1947年)
  • ゲーテとデモクラシー(Goethe und die Demokratie, 1949年)
  • シラー詩論(Versuch über Schiller, 1955年)

主な訳書[編集]

全集[編集]

トーマス・マン全集新潮社、初版1971年 - 72年、再版1975年 - 77年

  • 第1巻、ブデンブローク家の人々(森川俊夫訳)
  • 第2巻、大公殿下(山下肇訳)、ワイマルのロッテ(佐藤晃一訳)
  • 第3巻、魔の山(高橋義孝訳)
  • 第4-5巻、ヨゼフとその兄弟たち(高橋義孝菊盛英夫・佐藤晃一訳)
  • 第6巻、ファウストゥス博士(円子修平訳)(※理由は不明だが、訳が省略されている箇所がいくつもある)
  • 第7巻、選ばれし人(佐藤晃一訳)、詐欺師フェーリクス・クルルの告白(高橋義孝訳)
  • 第8巻、短篇(藤本淳雄ほか訳)、戯曲(森川俊夫訳)、詩(山下肇訳)
  • 第9-10巻、評論(佐藤晃一ほか訳)
  • 第11巻、評論3(森川俊夫ほか訳)
  • 第12巻、書簡 1894年 - 1955年(浜川祥枝ほか訳)
  • 別巻、トーマス・マン研究(円子修平ほか訳)

「トーマス・マン日記」[編集]

紀伊國屋書店出版(全10巻)

単行本[編集]

ある詐欺師の告白(高橋義孝訳)、トニオ・クレーガー(福田宏年訳)、ヴェニスに死す(関楠生訳)

文庫版訳書[編集]

※1980年代後半以降の刊行のみ記す。

博物館[編集]

ニダのトーマス・マン博物館

トーマス・マンの故郷リューベックのメング街に「ブッデンブロークハウスドイツ語版」がある。かつてマン家がこの場所に住んでいた。建物自体は第二次世界大戦で破壊されたが、これを後に再建し、トーマス・マンと兄ハインリヒ・マンの記念館としたものである。1階にはマン兄弟関係書籍が展示販売されており、2階はハインリヒ・マンの、3階はトーマス・マンの展示場となっている。

リトアニアニダにあるトーマス・マン博物館では、マンの草稿などが展示されている。この博物館の建物は、かつてマンが過ごした別荘を利用したものである。

またチューリッヒ工科大学にトーマス・マン資料館があり、草稿・著書などの資料を収蔵している。

参考文献[編集]

※現項目は、主に村田『トーマス・マン』を参照している。

  • 村田経和 『トーマス・マン』 清水書院〈人と思想〉、1991年、新装版2015年
  • 小塩節 『トーマス・マンとその時代』 中公新書、1992年
  • 辻邦生 『トーマス・マン』 岩波書店〈20世紀思想家文庫〉、1983年/岩波同時代ライブラリー、1994年/『辻邦生全集 15』(新潮社、2005年)収録
  • 池内紀 『闘う文豪とナチス・ドイツ-トーマス・マンの亡命日記』 中公新書、2017年
  • クラウス・シュレーター 『トーマス・マン』 山口知三訳、理想社、1971年
  • クラウス・ハープレヒト 『トーマス・マン物語』 岡田浩平訳、三元社(全3巻)、2005-2008年
  • ハンス・ビュルギン、ハンス=オットー・マイヤー編 「トーマス・マン年譜」 森川俊夫
『マン全集 別巻』 新潮社、1972年、pp.443-762

近親者による伝記、回想

  • カーチャ・マン『夫トーマス・マンの思い出』 山口知三訳、筑摩書房、1975年
  • ヴィクトル・マン『マン家の肖像』 三浦淳訳、同学社、1992年
  • クラウス・マン『転回点―マン家の人々』 小栗浩ほか訳、晶文社、新版1986年
  • ゴーロ・マン『ドイツの青春』 林部圭一ほか訳、みすず書房、1993年
  • エーリカ・マン/クラウス・マン『生への逃走』 前川玲子訳、松籟社、2022年

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 日本独文学会『ドイツ文学』第164号、2021、226-231頁。引用は226頁から。
  2. ^ 評論「非政治的人間の考察」、「ワーグナーと現代」初版は、各1970年代初頭に刊行

外部リンク[編集]