デイヴィッド・マシューズ (ニューヨーク市長)

デイヴィッド・マシューズ(David Mathews, 生年不詳 - 1800年7月)は、ニューヨーク法律家政治家アメリカ独立戦争では王党派に属し、1776年から1783年までニューヨーク市長を務めた。

生涯[編集]

デイヴィッド・マシューズはニューヨークにおいて誕生した[1]。マシューズは1754年にニュージャージー大学を卒業した[2]。マシューズは弁護士業を経営し、1775年にオレンジ郡民訴裁判所および刑事裁判所の書記官を務めた[3]

1776年2月、マシューズはニューヨーク植民地総督ウィリアム・トライアンからニューヨーク市長に選任された。1776年3月、マシューズは大陸軍総司令官ジョージ・ワシントンの誘拐計画に関与したとして拘束を受けた。総司令官近衛兵トマス・ヒッキーが大陸軍内で反乱を扇動したとして逮捕された際、マシューズは活動資金を供与したとして訴えられた。ニューヨーク州議会は「議会の権威とアメリカの自由に対する謀議に加担した」として、マシューズの逮捕を命じた。だが容疑は立証されず、間もなくマシューズは釈放された。その後1776年8月にイギリス軍がニューヨークを占領すると、マシューズは市長としての職務を再開した。

1783年11月、イギリス軍がニューヨークを撤退したとき、マシューズは他の王党派の人間とともにノバスコシアへ逃れた。マシューズはケープ・ブレトン島副総督ジョセフ・フレデリック・ウォレット・デスバレスから司法長官および執行評議会議員に選任された。

家族[編集]

デイヴィッド・マシューズの父親はヴィンセント・マシューズ(Vincent Mathews, 1695-1784)、母親はカタリナ・アベール (Catalina Abeel, 1698-1784) であった[1]。両親はともに、ニューヨークの出身であった。父親のヴィンセントはアイルランド王国からの移民の子であり[4]。母親のカタリナはネーデルラント連邦共和国からの移民の孫であった[5]。カタリナは、ヴィンセントの2番目の妻であった[6]

デイヴィッド・マシューズは1758年11月6日にサラ・シーモア (Sarah Seymour) と結婚した[7]。デイヴィッドはサラとの間に多くの子をもうけた[1]

注釈[編集]

  1. ^ a b c David Mathews, RootsWeb's WorldConnect Project: Peter's Database
  2. ^ Maclean, John (2006). History of the College of New Jersey, at Princeton.. Vol.1. Lulu.com. pp. p.171. ISBN 9781430301967 
  3. ^ Coke, Daniel Parker (1971). The Royal Commission on the Losses and Services of American Loyalists, 1783 to 1785.. Ayer Publishing. pp. p.168. ISBN 9780833709950 
  4. ^ Vincent Mathews, RootsWeb's WorldConnect Project: The Lake-Allison Connection(英語)
  5. ^ Catalina Abeel, RootsWeb's WorldConnect Project: The Lake-Allison Connection(英語)
  6. ^ Biography at the Dictionary of Canadian Biography Online(英語)
  7. ^ David MATHEWS, RootsWeb's WorldConnect Project: Gregory Family - United States, England, Scotland(英語)

外部リンク[編集]

公職
先代
ホワイトヘッド・ヒックス
ニューヨーク市長
1776年2月 - 1783年11月
次代
ジェイムズ・デュアン