チャールズ・ゴードン=レノックス (第6代リッチモンド公爵)

第6代リッチモンド公爵
チャールズ・ゴードン=レノックス
Charles Gordon-Lennox
6th Duke of Richmond
生年月日 1818年2月27日
出生地 イギリスの旗 イギリスイングランドロンドンリッチモンド・ハウス英語版
没年月日 (1903-09-27) 1903年9月27日(85歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリススコットランドフォッシャバーズ英語版ゴードン城英語版
出身校 オックスフォード大学クライスト・チャーチ
所属政党 保守党
称号 第6代リッチモンド公爵、第6代レノックス公爵、初代ゴードン公爵ガーター勲章士(KG)、枢密顧問官(PC)
配偶者 フランセス

内閣 第3次ダービー伯爵内閣第1次ディズレーリ内閣
第1次ソールズベリー侯爵内閣
在任期間 1867年3月8日 - 1868年12月3日[1]
1885年6月24日 - 1885年8月[1]

内閣 第2次ディズレーリ内閣
在任期間 1874年2月21日 - 1880年4月28日

内閣 第2次ディズレーリ内閣
在任期間 1874年2月 - 1876年8月

内閣 第1次ソールズベリー侯爵内閣
在任期間 1885年 - 1886年

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 ウェスト・サセックス選挙区英語版[2]
在任期間 1841年6月29日 - 1860年10月21日[2]

その他の職歴
イギリスの旗 貴族院議員
1860年10月21日 - 1903年9月27日[2]
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第6代リッチモンド公爵チャールズ・ヘンリー・ゴードン=レノックス: Charles Henry Gordon-Lennox, 6th Duke of Richmond, KG, PC1818年2月27日 - 1903年9月27日)は、イギリスの政治家、貴族。

ヴィクトリア朝中期から後期の保守党政権で閣僚職を歴任した。父が爵位を継承する1819年までセトリントン卿 (Lord Settrington)、1819年から自身が爵位を継承する1860年までマーチ伯爵 (Earl of March) の儀礼称号で称された。

経歴[編集]

第5代リッチモンド公爵チャールズ・ゴードン=レノックス英語版とその夫人キャロライン(初代アングルシー侯爵英語版ヘンリー・パジェットの娘)の間の長男としてロンドンの自邸リッチモンド・ハウス英語版に生まれる[3]

ウェストミンスター・スクールを経てオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学[3]

1841年から爵位を世襲する1860年までウェスト・サセックス選挙区英語版選出の保守党庶民院議員を務めた[3]。1860年10月に爵位を世襲して貴族院議員に列する[2]

第三次ダービー伯爵内閣期の1867年3月、クランボーン子爵(後のソールズベリー侯爵)が第二次選挙法改正に反対して辞職し、その後任に通商大臣サー・スタッフォード・ノースコート准男爵が就任したのに伴う玉突き人事で通商大臣に就任した[4]。続く第1次ディズレーリ内閣でも留任した[5]

野党期の1869年暮れに保守党貴族院院内総務英語版を務めていたケアンズ伯爵が辞職したのに伴い、温和な人物だったリッチモンド公がその後任となる。以降、党首ディズレーリがビーコンズフィールド伯爵に叙されて貴族院に移籍する1876年8月までその地位にあり、ディズレーリの方針を貴族院から支持した。しかし当時のディズレーリの貴族院保守党に対する影響力は微妙であり、そのため党内反ディズレーリ派の間にはソールズベリー侯爵を保守党貴族院院内総務に推す声が根強くあった[6]

1874年2月に成立した第2次ディズレーリ内閣には陸軍大臣としての入閣を希望していたが、ディズレーリはそのポストを財政に強い庶民院議員から任命したがっていたため、結局リッチモンド公は枢密院議長貴族院院内総務として入閣することになった[7]。農業問題に精通していたため、その分野で活躍した[8]

リッチモンド公はヴィクトリア女王のお気に入りの貴族であったため[8]、1876年1月13日に新たに連合王国貴族爵位としてゴードン公爵を与えられた[3]。これによりゴードン=レノックス家は4つの公爵位を保持する唯一の家柄となった。四公位の所領全て合わせた土地面積は28万エーカーにも及ぶという[8]

1885年から1886年に成立した第1次ソールズベリー侯爵内閣では通商大臣スコットランド担当大臣を務めた[3]

1903年9月27日スコットランドマレーフォッシャバーズ英語版にあるゴードン城英語版において死去した。85歳だった[3]

栄典[編集]

爵位[編集]

1860年10月21日に死去した父から以下の爵位を継承した[9][3]

1876年1月13日に以下の爵位を新規に与えられた[9][3]

勲章[編集]

その他[編集]

家族[編集]

1843年にアルジャーノン・グランヴィル英語版の娘フランセス・ハリエット・グランヴィル(1824年 - 1884年)と結婚し、彼女との間に以下の6子を儲ける[3]

  • 第1子(長女)キャロライン・ゴードン=レノックス(1844年 - 1934年)- 結婚せず
  • 第2子(長男)チャールズ・ヘンリー・ゴードン=レノックス (1845年 - 1928年)- 第7代リッチモンド公爵位を継承。政治家
  • 第3子(次男)アルジャーノン・チャールズ・ゴードン=レノックス(1847年 - 1921年) - 陸軍軍人
  • 第4子(三男)フランシス・チャールズ・ゴードン=レノックス(1849年 - 1886年) - 陸軍軍人
  • 第5子(次女)フロレンス・ゴードン=レノックス(1851年 - 1895年) - 結婚せず
  • 第6子(四男)ウォルター・チャールズ・ゴードン=レノックス英語版(1865年 - 1922年) - 政治家。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b 秦(2001) p.510
  2. ^ a b c d UK Parliament. “Earl of March” (英語). HANSARD 1803–2005. 2013年12月29日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k Lundy, Darryl. “Charles Henry Gordon-Lennox, 6th Duke of Richnond” (英語). thepeerage.com. 2013年12月29日閲覧。
  4. ^ ブレイク(1993) p.537
  5. ^ ブレイク(1993) p.570
  6. ^ ブレイク(1993) p.602-603/617
  7. ^ ブレイク(1993) p.630
  8. ^ a b c 森(1987) p.203
  9. ^ a b Heraldic Media Limited. “Richmond, Duke of (E, 1675)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2015年12月21日閲覧。

参考文献[編集]

  • ブレイク男爵英語版 著、谷福丸 訳、灘尾弘吉監修 編『ディズレイリ』大蔵省印刷局、1993年。ISBN 978-4172820000 
  • 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年。ISBN 978-4469240979 
  • 秦郁彦 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840-2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220 

外部リンク[編集]

グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
ジョン・レノックス卿英語版
サリー伯爵
西サセックス選挙区英語版選出庶民院議員
1841年1860年
同一選挙区同時当選者
チャールズ・ウィンダム英語版 1841–1847
リチャード・プライム英語版 1847–1854
ヘンリー・ウィンダム 1854–1860
次代
ヘンリー・ウィンダム
サー・ウォルター・バートロット英語版
公職
先代
サー・スタッフォード・ノースコート
イギリスの旗 通商大臣
1867年1868年
次代
ジョン・ブライト
先代
初代アバーデア男爵
イギリスの旗 枢密院議長
1874年1880年
次代
第5代スペンサー伯爵
先代
第2代グランヴィル伯爵
イギリスの旗 貴族院院内総務
1874年 - 1876年
次代
初代ビーコンズフィールド伯爵
先代
ジョゼフ・チェンバレン
イギリスの旗 通商大臣
1885年
次代
エドワード・スタンホープ閣下英語版
先代
新設
イギリスの旗 スコットランド担当大臣
1885年1886年
次代
サー・ジョージ・トレヴェリアン英語版
名誉職
先代
ジェイムズ・ダフ (第5代ファイフ伯爵)
バンフシャー州知事英語版
1879年1903年
次代
第7代リッチモンド公爵
党職
先代
初代ケアンズ伯爵
保守党貴族院院内総務英語版
1870年1876年
次代
初代ビーコンズフィールド伯爵
イングランドの爵位
先代
チャールズ・ゴードン=レノックス英語版
第6代リッチモンド公爵
第3期
1860年1903年
次代
チャールズ・ゴードン=レノックス
イギリスの爵位
爵位創設 初代ゴードン公爵
第2期
1876年1903年
次代
チャールズ・ゴードン=レノックス