チムトシムベロ

チムトシムベロ
青年時代のチムトシムベロ
プロフィール
出生: 1874年5月25日
同治13年4月初10日)[1]
死去: 1942年康徳9年)8月1日
満州国興安南省通遼県
出身地: 内モンゴルジェリム(哲里木)盟ゴルロス(郭爾羅斯)前旗
職業: 政治家
各種表記
繁体字 齊黙特色木丕勒
簡体字 齐默特色木丕勒
拼音 Qímòtèsèmùpīlè
ラテン字 Ch'i-mo-t'o-se-mu-p'i-lo
発音転記: チモトスムピロ
テンプレートを表示

チムトシムベロは、中華民国満洲国の政治家。満洲国では蒙政部大臣などをつとめた。モンゴル族克荘

事績[編集]

清末民初の活動[編集]

チンギス・カンの弟のジョチ・カサルの末裔。幼い頃からモンゴル族貴族としての教育を受け、モンゴル語満洲語漢語を習得した。1897年光緒23年)、扎薩克輔国公爵に任ぜられる[2]1898年(光緒24年)に哲里木盟副盟長となり、1905年(光緒31年)に盟長に昇進した。1907年(光緒27年)、鎮国公爵となった[3]

中華民国建国後の1912年民国元年)、多羅貝子に任ぜられる。1913年(民国2年)、多羅郡王となった。1914年(民国3年)に和碩親王に任ぜられ、同年3月に約法会議議員となっている[4]北京政府から優遇されていたチムトシムベロだったが、やはり清朝復興を望み、これを画策するようになった。例えば1925年(民国14年)には、川島浪速が画策した「満蒙独立盟約」に参加したとされる[5]。その一方で、チムトシムベロは吉林省内で隠然たる勢力を保持し、吉林省を統治していた張作相とも姻戚関係を有していた[6]

満州国での活動[編集]

満洲事変(九・一八事変)勃発後、チムトシムベロは日本の支援を受けて蒙古自治会を組織した。さらに、満鉄の支援により鄭家屯で開催された蒙古王公会議にも出席している。翌1932年2月の満州国建国最高会議にも参加した。満洲国建国後の1932年(大同元年)3月14日、興安局局長に任ぜられた[7]。同年8月3日、興安局が興安総署に改組され、そのまま署長に留任している。1934年康徳元年)12月1日、興安総署が蒙政部に昇格した際にも、そのまま大臣に任ぜられた[8]

1937年(康徳4年)5月7日、チムトシムベロは参議府参議に異動している[9]1938年(康徳5年)、関東軍が蒙古王公に旧領に対する所有権・徴税権を放棄するよう求めてくると、これに率先して賛成した。1941年(康徳8年)3月、参議を辞職し、満洲電信電話株式会社副総裁に就任している。およそ1年後に辞任、帰郷した。1942年8月1日、故郷のゴルロス前旗で死去[5]。享年69(満68歳)。

[編集]

  1. ^ 『大満洲帝国名鑑』。
  2. ^ 長春档案信息資源網による。徐主編(2007)、2317頁は、1898年としている。
  3. ^ 長春档案信息資源網による。徐主編(2007)、2317頁は、1901年としている。
  4. ^ 徐主編(2007)、2317頁。
  5. ^ a b 長春档案信息資源網。
  6. ^ 吉林省方志館。
  7. ^ 「東省特別区長官に張景恵氏」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月15日。ただし同記事は「公安局長」と誤記している。
  8. ^ 郭主編(1990)、1754頁。
  9. ^ 「満州国内閣改造きょう発表、六大官勇退」『東京朝日新聞』1937年5月8日夕刊。

参考文献[編集]

晩年期のチムトシムベロ
  • 老周「斉黙特色木丕勒」吉林省方志館ホームページ 〔現在リンク切れ〕
  • 「斉黙特色木丕勒(1874 - 1942)」長春档案信息資源網(長春市档案局ホームページ)
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 山室信一『キメラ-満洲国の肖像 増補版』中央公論新社中公新書)、2004年。ISBN 4-12-191138-5 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4 
  • 『大満洲帝国名鑑』挙国社、1934年。 
  満州国
先代
(創設)
興安局長
1932年3月 - 8月
次代
(興安総署長に改組)
先代
(興安局長から改組)
興安総署長
1932年8月 - 1934年3月
次代
(蒙政大臣に改組)
先代
(興安総署長から改組)
蒙政大臣
1934年3月 - 1937年5月
次代
張景恵