タイコンデロガ (空母)

タイコンデロガ
就役直後(1944年5月30日、ノーフォークにて)
就役直後(1944年5月30日、ノーフォークにて)
基本情報
運用者 アメリカ海軍
艦種 航空母艦
級名 エセックス級
艦歴
起工 1943年2月1日
進水 1944年2月7日
就役 1944年5月8日
退役 1973年9月1日
除籍 1973年11月16日
その後 1975年9月1日にスクラップとして売却
要目
排水量 27,100トン
全長 888 ft (270.6 m)
最大幅 147.5 ft (45 m)
吃水 28.7 ft (8.8 m)
乗員 士官、兵員3,448名
兵装 5インチ(127 mm)連装砲×4基、同単装砲4基の計12門
搭載機 90 - 100
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タイコンデロガ (USS Ticonderoga, CV/CVA/CVS-14) はアメリカ海軍航空母艦で、エセックス級航空母艦としては10番目に就役した。

エセックス級正規空母のうち後期に建造された15隻は、1943年の対空火器改善計画により、艦首を延長して機銃座を増設する等の設計変更を踏まえて建造されている。このため、「長船体型(a long-bow unit[1])」「ロングハル[2]」あるいは本艦を一番艦(ただし起工は「シャングリラ」、竣工は「ハンコック」のほうが早い)として「タイコンデロガ級航空母艦[3]」と呼称・分類することがある。もっともこれは非公式な分類であり、アメリカ海軍では区別せず全て「エセックス級」として扱っている。

また、飛行甲板の短縮(艦首のボフォース 40mm機関砲およびMk.51 射撃指揮装置の視界確保のため先端が切り詰められている)、飛行甲板左舷の切り欠き(左舷に設置するMk.37 砲射撃指揮装置の視界確保のため少しくびれた形状になっている)といった設計変更も実施された[4][5]が、この特徴は同艦とハンコックにのみ見られるものである[6]

アポロ計画では、月飛行を終えて地球に戻ってきたアポロ16号アポロ17号宇宙船宇宙飛行士回収した[注釈 1][注釈 2]スカイラブ計画では、スカイラブ2号の宇宙飛行士3名を収容した[注釈 3]

艦名はアメリカ独立戦争時の古戦場に由来し、18世紀にニューヨーク州北部に作られたタイコンデロガ要塞から取られている。イロコイの言葉で「二つの水に挟まれた場所」の意味がある。この名を持つ艦としては4隻目。「ビッグT」「ティコ」等の愛称で呼ばれた[10]

艦歴[編集]

就役まで[編集]

1943年2月1日にバージニア州ニューポートニューズニューポート・ニューズ造船所で起工、当初「ハンコック」の艦名が予定されていたが、5月1日に「タイコンデロガ」に改名された[注釈 4]。1944年2月7日にステファニー・サラ・ペルによって進水し、5月8日にノーフォーク海軍工廠で初代艦長ディキシー・キーファー大佐の指揮のもと就役した。

第二次世界大戦[編集]

1944年[編集]

「タイコンデロガ」は第89航空団を乗艦させ、バージニア州ノーフォークで約二ヶ月間の整調航海に従事した。6月26日に英領西インド連邦へ向けて出航する。航海の途中も航空作戦及び訓練を指揮しつつ、ポートオブスペイン(現在のトリニダード・トバゴ首都)に6月30日到着する。続く15日にわたってタイコンデロガは乗組員及び搭載航空団への集中的な訓練を行う。

7月16日に西インド連邦を出発し21日にノーフォークに帰還。翌日よりノーフォーク海軍工廠でオーバーホールを受ける。ここで飛行甲板の面積を拡大する改装も実施している[11][注釈 5]

オーバーホールは8月27日に完了し、30日に出航、9月4日にパナマ運河を通過してサンディエゴに向かった。13日にサンディエゴに停泊し、ハワイへの輸送任務にあたる。77機の艦載機と海兵隊航空団を搭載し、19日にサンディエゴを出航。5日後にハワイへ到着した。

「タイコンデロガ」はほぼ一ヶ月真珠湾に留まり、輸送艦「カリーナ (USS Carina, AK-74)」と共に艦載機用爆弾の洋上補給訓練を行った。それらの訓練後に昼夜の着艦及び対空防御訓練を10月18日まで行い、真珠湾を出港し西太平洋に向かう。短期間のエニウェトク停泊後、29日にウルシー環礁に到着する。ウルシーでは第6空母部隊の指揮官アーサー・W・ラドフォード少将が乗艦し、「タイコンデロガ」はフレデリック・C・シャーマン少将指揮する第38.3任務群に加わる。

10月半ばから11月初めまでの間、ダグラス・エアクラフトの設計主任エド・ハイネマンが「タイコンデロガ」に乗り込んでいる。第一線の設計者に前線を見学させ、指揮官やパイロット、整備員たちの生の意見を設計に反映させようという海軍の施策に基づくものである[12]が、ここで彼が得た教訓は、A-1スカイレイダー攻撃機等の開発に活かされている。

「タイコンデロガ」は第38任務部隊の一部として1944年11月2日に出撃した。僚艦と合流すると部隊はレイテ攻略部隊の地上支援攻撃を再開した。「タイコンデロガ」は5日の朝に最初の攻撃を開始する。部隊はルソン近くでの敵艦攻撃と対地上攻撃に二日を費やした。重巡洋艦「那智」の撃沈などに貢献した一方、神風特別攻撃隊の攻撃にもさらされた。その後補給のために後退した。

11月11日に第38任務部隊は第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将に率いられた日本の増援船団を攻撃し、「島風」などを撃沈した。12日から13日にかけてはマニラ空襲を敢行し、僚艦と共に在泊艦艇を撃滅した[注釈 6]。その後ウルシーに帰還し、22日に出撃した。25日、艦上機がルソン島中部を空襲し、重巡洋艦「熊野」、軽巡八十島」や輸送艦などを撃沈した[注釈 7]。 第38任務部隊は再び特攻隊の攻撃を受け、空母「エセックス」「イントレピッド」が損傷した。「タイコンデロガ」は他の艦艇とともに対空砲火の援護を行い、被害を受けた姉妹艦の艦載機を収容した。

12月に第38任務部隊はコブラ台風に遭遇し、「タイコンデロガ」は損傷を受けなかったものの、他の艦の修理のため12月末にはほとんど行動できなかった。

1945年[編集]

1月6日に第38任務部隊はルソン島への攻撃を行った。この攻撃で第38任務部隊の航空隊は32機の撃墜を記録した。1月8日には沖縄攻撃のため北上したが悪天候により中止した。その後の1月中頃に第38任務部隊は南シナ海で活動した。

1月21日に台湾への攻撃任務を実施していた際、特攻隊の攻撃を受ける。正午過ぎ、一機が「タイコンデロガ」の飛行甲板を貫通し、格納庫で爆発した[注釈 8]。 火災と誘爆が生じたが、キーファー艦長による的確なダメージコントロールが功を奏した。まず風向による延焼を防ぐため艦の進行方向を変更させたうえで、次に弾薬庫等の区画への注水を命じて引火を防いだ。注水により艦は左舷に10度傾斜したが、この傾斜により、可燃物や艦載機の残骸等を舷側から投棄する作業が容易になった[15]

特攻機の襲来はなおも続き、二機目が右舷から突入して艦橋付近で爆発した。これによりキーファー艦長も全身55箇所を負傷するほどの重傷を負ったものの、艦橋内にマットレスを敷いて横たわった状態でその12時間もの間的確なダメージコントロールを指示し続けた[16]。14時までに火災を制御下に置くことができたものの、「タイコンデロガ」は本格的な修理のためにアメリカ本国へ帰還することになった。2月15日にワシントン州ピュージェット・サウンド海軍造船所へ到着し、そこで修理を受けた。対空火器増設等の改装も併せて実施している。

修理は4月20日に完了し、5月1日に真珠湾に到着すると航空部隊を載せて訓練を行った。「タイコンデロガ」は途中でマーシャル諸島の日本軍拠点に空襲を行いながらウルシーに向かい、5月22日に到着し第58.4任務群に加わったが、直後に第58任務部隊は第38任務部隊に改称した。

6月2日~3日および8日、「タイコンデロガ」は九州への攻撃に参加した。その後南大東島および北大東島の空爆に加わってからレイテへ補給と休息を行うために向かった。 レイテでの補給及び休息中、「タイコンデロガ」は第38.4任務群から第38.3任務群へ異動となった。7月1日、「タイコンデロガ」は第38.3任務群の他の艦とともにレイテを出発し、日本本土空襲に向かった。 2日後、減速ギアが故障したため空襲には加わらず、グアムのアプラ港へ向かい19日まで同港に留まった。7月28日に「タイコンデロガ」は第38.3任務群の他の艦とともに呉軍港空襲に加わった。この空襲で、本艦のSBC2(VB-87所属)が重巡「利根」への攻撃中に対空砲火で墜落し、レイモンド・ポーター中尉とノーマン・ブリセット三等軍曹が捕虜となったが、二人は広島市への原子爆弾投下で死亡した[17]広島原爆で被爆したアメリカ人)。

7月30日には本州中部の工業地帯へ、8月9日から10日には本州北部と北海道への空襲に加わった。

8月15日の終戦後は日本国内の捕虜収容所の捜索を行い、食料医薬品などを投下した。戦艦「ミズーリ」艦上での正式な日本の降伏後の4日後の9月6日に「タイコンデロガ」は東京に入港した。

近代化[編集]

SCB-27C改装を受けた「タイコンデロガ」(1954年)
SCB-27C改装を受けた「タイコンデロガ」

終戦後は一旦本国に帰還した後、マジックカーペット作戦に加わり、推定2~4千人の復員に携わった。大戦終結に伴う海軍の縮小に伴い、「タイコンデロガ」も他の同型艦の多くと同様に予備役に編入される。1947年1月9日よりモスボール処理され保管状態に入ったが、SCB-27C改装により近代化することが決定した。

改装工事は1952年4月4日よりニューヨーク海軍造船所で実施され、蒸気カタパルトなどを装備した「タイコンデロガ」は1954年9月11日に再就役した。

再就役後の1955年秋に「タイコンデロガ」は4種類の新型航空機(A4D-1スカイホークF4D-1スカイレイF7UカットラスF3H-2Nディーマン)のテストに参加した。

11月から8ヶ月間地中海を巡航した後、1956年8月2日にノーフォークに帰還し、SCB-125改装を受けた。この改装は1957年初頭までに完了し、5月にカリフォルニア州アラメダに移った。

9月16日、「タイコンデロガ」は極東に向かうためにサンフランシスコ湾を出港。 途中ハワイ真珠湾に寄港しながら10月15日に日本の横須賀に到着した。その後6か月間、日本北部からフィリピン沖までを巡航した。 1958年4月25日にアラメダに帰還した。

ベトナム戦争[編集]

ベトナム近海で活動中(1966年)
アポロ17号を回収中(1972年12月19日)

1964年8月2日、トンキン湾周辺海域で活動中に、米駆逐艦「マドックス」が北ベトナム海軍の艦艇に攻撃されたとの連絡を受ける。数分以内に「タイコンデロガ」は4機のF-8クルセイダー戦闘機を駆逐艦の援助に派遣し、北ベトナムの魚雷艇をズーニーロケット砲と機関砲で攻撃した。これにより北ベトナムの魚雷艇1隻が撃沈され2隻が損傷した。

2日後の8月4日夜には駆逐艦「ターナー・ジョイ」から北ベトナム艦艇の襲撃の連絡を受け航空隊を派遣、2隻の魚雷艇の撃沈を記録した。

リンドン・ジョンソン大統領はこれらの攻撃への報復を命じ、8月5日に「タイコンデロガ」は空母「コンステレーション」とともに四ヶ所の魚雷艇基地とそれらを支える石油貯蔵施設に空爆を加えた。この攻撃により、25隻の魚雷艇が破壊され、基地や石油貯蔵施設は完全に破壊された。

9月に一旦アメリカ本国へ帰還しオーバーホールを行った後、1965年11月5日に再びベトナム水域に展開し、いわゆる北爆に参加した。 ベトナム沖での半年の間に、「タイコンデロガ」は航空運用に合計116日を費やし、ベトナム沖での空母運用海域であるディキシーステーションとヤンキーステーションでの活動にそれぞれでほぼ均等に時間を割いた。 「タイコンデロガ」の航空隊は北ベトナムにおいて35の橋と多数の倉庫、兵舎、トラック、ボート、そして鉄道車両やハイフォンの北のに位置する主要な火力発電所を破壊した。

1965年12月5日、同年11月からのベトナム沖での任務を終えて横須賀へ帰還する途中、北緯27度35分2秒・東経131度19分3秒(喜界島の南東約150キロ)で水素爆弾(B43・核出力1メガトン)1発を装着したA-4E攻撃機がエレベーターから海中に転落する事故が発生した。機体は乗員(ウェブスター大尉)ともに水没した。核攻撃アラートに就くために飛行甲板にあげる途中であった。現場の水深は約5,000メートルあり回収は不可能であるとされている。事故は1981年の国防総省の報告書で明らかにされたが、詳しい場所については1989年に明らかにされた。周辺海域の調査によれば放射能汚染は認められていない。

1966年5月13日に「タイコンデロガ」はサンディエゴに帰還した。11月13日に再びトンキン湾に展開し、ローリング・サンダー作戦に参加。11,650回の戦闘出撃を記録した。 1967年4月に横須賀経由で帰国。1968年1月にも再びベトナム沖に展開。1968年7月まで北爆任務を行った。 1969年3月4日以降も四ヶ月間ホーチミンルートへの攻撃に参加。1969年4月15日にアメリカ海軍EC-121機撃墜事件が発生した際には再び日本海に展開した。 1971年、「タイコンデロガ」はスンダ海峡に赴き、蘭印作戦におけるバタビア沖海戦で沈んだABDA艦隊重巡ヒューストン」および豪州海軍軽巡パース」の慰霊式を行った。

1972年、「タイコンデロガ」はアポロ計画最終段階において、回収艦を務めた[18]。4月27日、アポロ16号司令船「キャスパー (Casper) 」が地球に戻ってきた[7]。月飛行と月面着陸を達成したジョン・ヤング船長、ケン・マッティングリー司令船操縦士、チャールズ・デューク月着陸船操縦士および「キャスパー」は、本艦に収容された[19]

同年12月19日、アポロ計画における最後の有人月面着陸となったアポロ17号が地球に帰還し、司令船「アメリカ (America) 」はサモア諸島沖の南太平洋に着水した。司令船「アメリカ」と、ユージン・サーナン船長、ロナルド・エヴァンス司令船操縦士、ハリソン・シュミット月着陸船操縦士は、本艦に収容された[8]

1973年6月、スカイラブ計画でもスカイラブ2号の回収艦を務めた。6月22日に宇宙船が着水すると、司令船および宇宙飛行士3名(ピート・コンラッド船長、ジョセフ・カーウィン科学飛行士、ポール・ウェイツ飛行士)を収容した[9]

退役[編集]

「タイコンデロガ」は1973年9月1日に退役し、1975年9月1日にスクラップとして売却された。

「タイコンデロガ」は第二次世界大戦での戦功で5つの従軍星章、3つの海軍部隊栄誉章、1つの部隊勲功章を、ベトナム戦争の戦功で12の従軍星章を受章した[20]

艦名はタイコンデロガ級ミサイル巡洋艦「タイコンデロガ」に受け継がれた。

創作作品への登場[編集]

ヨークタウン級空母エンタープライズ」として出演[注釈 9]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ アポロ16号の宇宙飛行士は、ジョン・ヤング船長、ケン・マッティングリー司令船操縦士、チャールズ・デューク月着陸船操縦士(ムーンウォーカーは、ヤング船長とデューク操縦士)[7]
  2. ^ アポロ17号の宇宙飛行士は、ユージン・サーナン船長、ロナルド・エヴァンス司令船操縦士、ハリソン・シュミット月着陸船操縦士(ムーンウォーカーは、サーナン船長とシュミット操縦士)[8]
  3. ^ スカイラブ2号の宇宙飛行士は[9]ピート・コンラッド船長、ジョセフ・カーウィン科学飛行士、ポール・ウェイツ飛行士。
  4. ^ 経緯については「ハンコック (空母)を参照されたい。
  5. ^ 先端を延長して艦首の射撃指揮装置を飛行甲板両端に移設、左舷の切り欠きを除去。
  6. ^ 軽巡洋艦「木曾」、駆逐艦4隻(秋霜初春沖波)が沈没するか着底し、7隻の商船も破壊された。
  7. ^ 【マニラ=共同】[13] マニラ北西約百キロのサンタクルス町の沖で、沈没した舊日本海軍の軍艦二隻が發見された、これはクラーク米軍基地のスキンダイビング・クラブが二十七日連絡してきたもので、二隻は水深約三十米の海底で發見されたといふ 同クラブの話では、最初に發見されたのは、比島沖海戰で第二艦隊(栗田健男司令長官)の第七戰隊の旗艦だつた重巡洋艦「熊野」(八、五〇〇トン)、もう一隻は「熊野」の南約十キロの海底で發見されたが、これは輕巡洋艦「八十島」(二、五〇〇トン)といわれる 兩艦とも一九四四年十一月二五日に、レイテ沖海戰後の掃討作戰にあたつていた米空母タイコンデロガの艦載機に撃沈されたと傳えられている 同クラブの會員たちは「熊野」の艦内で白骨の遺體を發見したほか、鐡かぶと、防毒マスクなどを見たと語つている(記事おわり)
  8. ^ (英語原文はp.1)ワシントン(國際)二十日發[14] 海軍省十九日發表によれば、航空母艦タイコンデロガ號(二萬七千噸、エセックス級)は去る正月台灣附近で日本軍神風機の爆撃により火を發し損傷を蒙つたが、その後修理成つて再び作戰に從事している、タイコンデロガ號に對する右自殺攻撃により米軍は三百三十七名の戰死傷者を出した、自殺戰は一月二十一日同艦を攻撃した、正午前に日本急降下爆撃機一機が雲の中から現れて飛行甲板に突入したが、爆彈は當時弾藥補充を待つ航空機の雑沓してゐた格納甲板附近で爆發した、ガソリンのため火は見る見るうちに寝室の方へひろがった、火藥庫は爆發を防ぐために水が注ぎ込まれ燃える航空機とガソリン・タンクは、中へ放り込まれた、火は他の艦船の援助なくして一時間半後に鎭火した。(記事おわり)
  9. ^ 映画開始25分頃、ハルゼー提督が艦橋から艦上機の訓練を見守るシーンで、空母の艦首飛行甲板に「CV-14」が映る。なお映画終盤で「エンタープライズ」が真珠湾に帰港するシーンは「キアサージ」で撮影された。
  10. ^ 第二次大戦終結直前にタイコンデロガが特攻攻撃を受ける場面がある。しかし実際この時期に本艦が攻撃を受けた記録はなく、フィクションである。

出典[編集]

  1. ^ Raven 1988, pp. 42, 56.
  2. ^ Friedman 1983, p. 151.
  3. ^ St. John 2000
  4. ^ 多田智彦「エセックス級のメカニズム (特集 米空母エセックス級)」『世界の艦船』第761号、海人社、2012年6月、84-91頁、NAID 40019305383 
  5. ^ NavSource Online: Aircraft Carrier Photo Archive”. 2019年6月2日閲覧。
  6. ^ Friedman 1983, p.151
  7. ^ a b アポロ16號無事歸還 三飛行士とも元気 明後日朝ヒッカム帰着”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1972.04.27. pp. 08. 2024年3月22日閲覧。
  8. ^ a b アポロ無事地球歸還 三宇宙士今朝9時20分着水”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1972.12.19. pp. 08. 2024年3月22日閲覧。
  9. ^ a b スカイラブ飛行士 あす大統領を訪問【空母タイコンデロガ號上にて=UPI】”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1973.06.23. pp. 08. 2024年2月13日閲覧。
  10. ^ Ship Nicknames”. 2019年9月30日閲覧。
  11. ^ World War II Database USS Ticonderoga”. 2019年6月24日閲覧。
  12. ^ 湯沢豊(編集)『『世界の傑作機 NO.6 - ダグラスA-1 スカイレイダー』』文林堂、1987年。 
  13. ^ 舊日本軍の沈没艦發見 重巡「熊野」など二隻”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1972.01.28. pp. 08. 2024年3月22日閲覧。
  14. ^ タイコンドロガ號 神風機襲撃後復役”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1945.07.20. pp. 04. 2024年3月22日閲覧。
  15. ^ USS TICONDEROGA CV 14”. 2019年6月2日閲覧。
  16. ^ ウォーナー 1982a, p. 338
  17. ^ Record Shows 17 Americans Died In Hiroshima Blast”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1977.12.06. pp. 01. 2024年3月22日閲覧。
  18. ^ アポロ16號”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1972.03.25. pp. 08. 2024年2月13日閲覧。
  19. ^ Spacemen In Good Shape; Srriving Here Tomorrow”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1972.04.28. pp. 01. 2024年3月22日閲覧。
  20. ^ NavSource Online: Aircraft Carrier Photo Archive USS TICONDEROGA (CV-14)”. 2019年6月3日閲覧。


参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]