ソイロ・ベルサイエス

ソイロ・ベルサイエス
Zoilo Versalles
1963年
基本情報
国籍  キューバ
出身地 ヴェルダード
生年月日 (1939-12-18) 1939年12月18日
没年月日 (1995-06-09) 1995年6月9日(55歳没)
身長
体重
5' 10" =約177.8 cm
150 lb =約68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手
プロ入り 1958年
初出場 MLB / 1959年8月1日
NPB / 1972年7月19日
最終出場 MLB / 1971年9月28日
NPB / 1972年10月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ソイロ・カサノヴァ・ベルサイエス・ロドリゲスZoilo Casanova Versalles Rodriguez , 1939年12月18日 - 1995年6月9日)は、キューバ出身のプロ野球選手遊撃手)。右投右打。

発音リスペリングZOY-lo vair-SY-yez (ゾイロー・ヴェアサイエズ)。

経歴[編集]

キューバのヴェルダードに生まれた。メセイ・ドミンゴス高校を経た後、1958年のシーズン前、18歳でワシントン・セネタース(現:ミネソタ・ツインズ)と契約した。早くも翌1959年シーズンには19歳でメジャーデビューを果たしている。

ベルサイエスの能力が開花したのは、チームがワシントンD.C.からミネソタへ移転した1961年である。正遊撃手としてのちにMLBで一二を争うと言われるまでになった守備力を発揮し[1]、打撃面でもその俊足から一番打者に定着した。レギュラー3年目の1963年にはオールスターゲームへ選出されるとともに、その守備力が評価されてゴールドグラブ賞を獲得した。

ベルサイエスのキャリアのハイライトは、1965年である。同シーズンにチームはミネソタへ移転して初めてリーグ優勝しているが、ベルサイエスは一番打者及び遊撃手としてチームを牽引し、126得点、45二塁打、12三塁打、308塁打、76長打はリーグトップ(122三振もリーグ最多だった)、182安打はリーグ2位となるなどの活躍を見せ、オールスター出場・ゴールドグラブ賞獲得のみならず、アメリカンリーグの最優秀選手(MVP)に輝いた。

1967年シーズン終了後、ベルサイエスはロサンゼルス・ドジャースへトレード移籍する。1968年、プレー中のケガで背中を痛め、以降、成績は下降線をたどっていく。翌1969年にはクリーブランド・インディアンスへ移籍したが、シーズン中の7月、更にワシントン・セネタース(現:テキサス・レンジャーズ)へトレードされる。同シーズンは遊撃手よりも二塁手三塁手としての出場が多くなっていた。

1970年シーズン直前にワシントンから放出されたベルサイエスは、1年間、メキシカンリーグでプレーする。そして1971年3月にアトランタ・ブレーブスと契約し、プレーするものの往年の活躍は見られず、同年限りで引退することとなった。

1972年7月、ベルサイエスは日本へ渡り広島東洋カープに入団した。シーズン当初から不振の続くカープは、起爆材料として大リーグで最優秀選手の実績を残したベルサイエスを獲得することとした。当時のカープは、いわゆる純血主義を唱え、外国人選手は日系人や、日本人と同様に扱われる[2]在日韓国・朝鮮人などアジア系の定住者(入団以前に日本に帰化した選手を含む)以外採用したことがなかったが、カープ初の外国人選手としてベルサイエスを獲得したのである。ベルサイエスは主に三塁手として出場したが、背中のケガに加え、デビュー戦でいきなり右足を捻挫、打順も7番か8番という有様で終始精彩を欠き、同シーズンがベルサイエスのキャリア最後のシーズンとなった。

引退後はミネソタ州ミネアポリスに住み、ゴルフクラブ販売などの事業を始めた。しかし、故郷キューバを恋しがり、ほとんど英語が話せなかったベルサイエスの事業は成功しなかった。多額の債務を整理するため、MVPトロフィーやゴールドグラブの賞品を手放すことになったとも伝えられている。晩年は不遇だったようであり、背中のほか、心臓と胃に持病を抱えていた。

1995年6月9日、ベルサイエスはミネソタ州ブルーミントン近郊にて55歳で死去した。2006年、ミネソタ・ツインズはベルサイエスを「ミネソタ・ツインズ名誉の殿堂」メンバーに選出した。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1959 WS2
MIN
29 64 59 4 9 0 0 1 12 1 1 0 0 0 4 0 1 15 0 .153 .219 .203 .422
1960 15 47 45 2 6 2 2 0 12 4 0 0 0 0 2 0 0 5 0 .133 .170 .267 .437
1961 129 542 510 65 143 25 5 7 199 53 16 9 4 2 25 2 1 61 8 .280 .314 .390 .704
1962 160 624 568 69 137 18 3 17 212 67 5 5 10 7 37 8 2 71 13 .241 .287 .373 .660
1963 159 666 621 74 162 31 13 10 249 54 7 4 7 0 33 2 5 66 11 .261 .303 .401 .704
1964 160 718 659 94 171 33 10 20 284 64 14 4 7 2 42 1 8 88 5 .259 .311 .431 .742
1965 160 728 666 126 182 45 12 19 308 77 27 5 6 8 41 3 7 122 7 .273 .319 .462 .781
1966 137 596 543 73 135 20 6 7 188 36 10 12 3 3 40 2 7 85 11 .249 .307 .346 .653
1967 160 626 581 63 116 16 7 6 164 50 5 3 3 3 33 2 6 113 15 .200 .249 .282 .531
1968 LAD 122 436 403 29 79 16 3 2 107 24 6 4 6 1 26 4 0 84 7 .196 .244 .266 .510
1969 CLE 72 242 217 21 49 11 1 1 65 13 3 1 0 2 21 1 2 47 7 .226 .298 .300 .597
WS3 31 79 75 9 20 2 1 0 24 6 1 0 0 0 3 0 1 13 1 .267 .304 .320 .624
'69計 103 321 292 30 69 13 2 1 89 19 4 1 0 2 24 1 3 60 8 .236 .299 .305 .604
1971 ATL 66 210 194 21 37 11 0 5 63 22 2 1 4 1 11 1 0 40 7 .191 .233 .325 .558
1972 広島 48 141 132 13 25 7 0 4 44 10 0 3 2 1 6 1 0 28 3 .189 .223 .333 .556
MLB:12年 1400 5578 5141 650 1246 230 63 95 1887 471 97 48 50 29 318 26 40 810 92 .242 .290 .367 .657
NPB:1年 48 141 132 13 25 7 0 4 44 10 0 3 2 1 6 1 0 28 3 .189 .223 .333 .556
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • WS2(ワシントン・セネタース)は、1961年にMIN(ミネソタ・ツインズ)に球団名を変更

表彰[編集]

MLB

記録[編集]

MLB
NPB

背番号[編集]

  • 5(1959年 - 1960年)
  • 2(1961年 - 1968年)
  • 15(1969年)
  • 17(1969年)
  • 18(1971年)
  • 49(1972年)

脚注[編集]

  1. ^ 伊東一雄. メジャーリーグこそ我が人生:パンチョ伊東の全仕事. サンケイスポーツ. p. 20-21 
  2. ^ ドラフト外入団の場合を中心に、形式的に外国人選手枠で登録されることがあった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]