スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国
- スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国
- Држава Словенаца, Хрвата и Срба (セルビア語)
Država Slovenaca, Hrvata i Srba (クロアチア語)
Država Slovencev, Hrvatov in Srbov (スロベニア語) -
←
←1918年
10月 - 12月→ (国旗) (国章)
スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の領土-
公用語 セルビア語、クロアチア語、スロベニア語 首都 ザグレブ - 国民評議会議長
-
1918年10月 - 12月 アントン・コロシェツ - 国民評議会副議長
-
1918年10月 - 12月 スヴェトザル・プリビチェヴィッチ 1918年10月 - 12月 アンテ・パヴェリッチ博士 - 変遷
-
成立 1918年10月29日 セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に合流 1918年12月1日
スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国(スロベニアじん・クロアチアじん・セルビアじんこく、セルビア語:Држава Словенаца, Хрвата и Срба / Država Slovenaca, Hrvata i Srba、クロアチア語:Država Slovenaca, Hrvata i Srba(国際音声記号は[dr̩ˈʒaʋa sloˈʋenaʦa xr̩ˈʋataɪ ˈsr̩ba])、スロベニア語:Država Slovencev, Hrvatov in Srbov)は、 第一次世界大戦末期の1918年10月29日、オーストリア=ハンガリー帝国内の南スラヴ人(=スロベニア人、クロアチア人、セルビア人)地域の統一国家として創設された。その点、チェコスロヴァキアやポーランド等と並ぶ「継承国家」の一つである。ただし他の国とは異なって、民族自決の原則を行使する政治主体として、連合国からの承認は最後まで得られなかった。しかし同年12月1日、セルビア王国およびモンテネグロ王国との統合が実現し、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国が誕生した。したがって約一か月の「短命」国家ではあったが、「南スラヴ人の国民国家」を標榜するユーゴスラビア成立に大きな役割を果たしたといえる。
国名にあるセルビア人はボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア=スラヴォニア(スレムを含む)、ダルマチア(コトル湾とバル付近のモンテネグロ海岸までを含む)の住民を指し、セルビア王国(今日のマケドニア共和国領を含む)、モンテネグロ王国、バナト・バチュカおよびバラニャ(歴史的ヴォイヴォディナのうちバナト、バチュカ、バラニャを含む。スレムはスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の一部となった)の住民は指さなかった。
歴史[編集]
端緒[編集]
南スラヴの文化的・政治的統一という思想(ユーゴスラヴィズム)は、1830年代クロアチアのイリリア運動以降の比較的長い系譜を有する。しかし具体的な政治行動として現実味を帯びるのは、第一次世界大戦が始まってからであった。 1914年6月28日のサラエヴォ事件を契機として第一次世界大戦が始まると、同年12月にセルビア王国政府は「ニシュ宣言」(Niš Declaration)を発した。この中でセルビア政府は初めて、(ハプスブルク領を含む)すべての南スラヴ人居住地域を解放して統一国家を樹立することが戦争目的であると表明した[1]。
一方、1917年にウィーンのオーストリア帝国議会内では、スロヴェニア人議員を中心とするユーゴスラビア・クラブ(Jugoslavenski klub)が結成された[2]。この会派には、オーストリア帝国領のうちカルニオラなどのスロベニア人地域、ダルマツィア、ボスニア・ヘルツェゴビナから選出されていたクロアチア人、セルビア人、スロベニア人議員33名が集まった[注釈 1]。その中心はスロベニア人民党のアントン・コロシェツである。そして同年5月30日に、帝国内の南スラヴ人居住地域の統一と自治を求める「五月宣言」(May Declaration)を発表する。この時点で帝国の解体までは想定されておらず、いわばハプスブルク帝国の「三重化」を求める内容であった。
1915年4月、連合国とイタリアの間でロンドン秘密条約が結ばれた[3]。その内容に、参戦の見返りとしてイタリアによるダルマツィア・アドリア海沿岸部の獲得が含まれていることが知られた。このため南スラヴの政治リーダーは切迫した危機感に迫られた。 開戦直後に亡命していたクロアチア人政治家のアンテ・トルムヴィッチらによって「ユーゴスラヴィア委員会」(Yugoslav Committee)が結成され[4]、連合国側の理解を得るべく活発な活動を開始する。 1917年に入るとロシアで二月革命が発生し、セルビアは最大の後ろ盾を失う危機に見舞われる。セルビア軍自身も劣勢に立たされ、南方へ撤退を重ねざるを得なかった。そしてギリシア領のコルフ島まで逃れ、セルビア政府はそこに拠点を築く[5]。 その後、ロンドンを本拠とするユーゴスラヴィア委員会との共闘を模索することとなる。 交渉の結果、1917年7月に十四条のコルフ宣言として実を結んだ。そこでは、将来に誕生する南スラヴの統一国家がカラジョルジェヴィチ朝のもとで立憲君主制を採用することが合意された。ただし、国制として、連邦制を志向するクロアチア側と集権制を維持したいセルビア側の立場は集約されず、後々の禍根の元ともなった。
建国[編集]
その後、1918年10月29日に、スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の創設が公式に表明された。この「国家」を宣言したのは、当時の有力政治家たちが集結した「スロベニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議」[6]で、議長はスロベニア人のアントン・コロシェツ、2人の副議長はセルビア人のスヴェトザル・プリビチェヴィッチとクロアチア人のアンテ・パヴェリッチ(1941年に樹立された対独協力政権、クロアチア独立国の指導者のアンテ・パヴェリッチとは別人)であった。
国是は旧オーストリア=ハンガリー帝国領の、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人の居住する地域すべてを統一することだったが、ヴォイヴォディナ(バナト、バチュカ、バラニャを含む)のセルビア人はこれに反対して、セルビア国民会議という最高権力機関の下、ノヴィ・サドで独自の政府を樹立し、1918年11月25日にセルビア王国に合流した。この前日の1918年11月24日には、当初スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の一部であったスレムの領域もまたここから脱退し、セルビア王国に合流していた。
戦勝国となった連合国に海軍を手渡すのを避けるために、オーストリア皇帝カール1世はすべての軍港、兵器廠、海岸要塞のオーストリア=ハンガリー帝国海軍全軍および商船隊を国民評議会に譲与し、今度はフランス、イギリス、イタリア、アメリカ合衆国、ロシア各政府に、スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国がオーストリア=ハンガリー帝国と交戦しておらず、国民評議会がオーストリア=ハンガリー帝国の全船隊を引き継いだ旨を通知する通牒を送付した。しかし、この船隊はイタリア王国海軍に攻撃され、すぐに瓦解した。
スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国は、国民評議会がセルビア王国(既にモンテネグロ王国、ヴォイヴォディナ、スレムと合流していた)に合流し、1918年12月1日にセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国を樹立するまで、終始国際的に承認されることはなかった。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史(新版)』岩波書店〈岩波新書〉、2021年。ISBN 978-4-00-431893-4
- 材木和雄「南スラヴ人統一国家構想の起源と展開:1917年「コルフ宣言」に至る過程」『広島平和科学』(広島大学平和科学研究センター)25号、2003年、145-188ページ。
- 材木和雄「「スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人の国家」の成立と崩壊:1918年のもう一つの南スラヴ人統一国家について」『社会文化研究』(広島大学総合科学部紀要Ⅱ)29号、2003年、1-62ページ。
- 柴宜弘「それぞれのユーゴスラヴィア:セルビア義勇軍の理念と実態」大津留厚編『「民族自決」という幻影:ハプスブルク帝国の崩壊と新生諸国家の成立』(昭和堂、2020年)、37-61ページ。