スティーヴン・キング

スティーヴン・キング
Stephen King
2005年撮影
誕生 スティーヴン・エドウィン・キング
Stephen Edwin King
(1947-09-21) 1947年9月21日(76歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 メイン州 ポートランド
職業 小説家
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
最終学歴 メイン大学
活動期間 1967年 -
ジャンル ホラー小説
代表作キャリー』(1974年)
シャイニング』(1977年)
ザ・スタンド』(1978年)
スタンド・バイ・ミー』(『恐怖の四季』より・1982年)
デビュー作キャリー』(1974年)
配偶者 タビサ・キング(1971年 - )
子供 ナオミ・レイチェル・キング
ジョー・ヒル
オーウェン・キング
署名
公式サイト https://stephenking.com/
ウィキポータル 文学
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スティーヴン・エドウィン・キング(英:Stephen Edwin King1947年9月21日 - )は、アメリカ合衆国小説家ホラー作家。作品は世界各国で翻訳され読まれている。「ホラーの帝王」の異名を持ち現代アメリカを代表する作家の1人である。

概要[編集]

1974年に長編『キャリー』でデビュー。

ジャンルはホラーであるにもかかわらず、舞台は主にアメリカのごく平凡な町で、具体的な固有名詞をはじめとした詳細な日常描写を執拗に行うのが特徴(その作風から、従来の「非現実的な世界を舞台とした、怪奇小説」とは異なるモダン・ホラーの開拓者にして第一人者とされる)。

ホラーばかりではなく、『ショーシャンクの空に(原作:『刑務所のリタ・ヘイワース』)』『スタンド・バイ・ミー(原作:『The Body』)』や『グリーンマイル』など、映画化された話題作でも有名である。

日常の中に潜む「ちょっとした不思議」を題材にした作品も目立つ。

著作の多くが映画化またはTVドラマ化されている。世界幻想文学大賞(1982年、1995年、2004年)、ヒューゴー賞(1982年)、オー・ヘンリー賞(1996年)、ブラム・ストーカー賞(1988年、1996年、1997年、1999年、2007年、2009年)など、数々の文学賞を受賞している。

略歴[編集]

幼少期[編集]

1947年、メイン州ポートランドで、スコットランド人アイルランド人の祖先を持つ、父ドナルドと母ネリー・ルース・ピルズベリーの間の第2子として生まれる。子供を身ごもることすらできないと医者に言われた両親は、兄デヴィッドを養子に迎えるが、結局キングを授かることになった。

キングが2歳の時、父ドナルドは煙草を買いに行くと言って家を出たまま失踪。その後母は祖父母の面倒を見ながら朝から深夜まで働き、息子2人を育てあげた。父の行方はその後も分かっておらず、「やぶへびになりそうだから父親の消息は調べない」とキングはさまざまなインタビューで語っている。

小学校の最初の1年を病気のため休学し、家で大量のコミックブックを読んで過ごす。

ウサギを主人公にした短い物語(全4話)を書いて母に読ませる。1話につき25セントもらう。

1958年のクリスマスに母からタイプライターをもらう。『ファンタスティック』などのSF専門誌に投稿するようになる[注釈 1]。初めて採用された作品は1965年に『コミックス・レヴュー』誌に掲載された『私は十代の墓荒らしだった』[注釈 2]

少年時代から殺人事件の新聞のスクラップを集めていた。家に風呂がなく、凍えるような寒い日でも、親戚の風呂を借りにかなりの距離を歩いていた。だが、それにもかかわらず肥満児だった。

学生時代[編集]

1966年に高校を卒業後、母の勧めに従い教員免許を得るためオロノにあるメイン大学に入学する。20歳のときに投稿した小説『鏡の床』が、『スタートリング・ミステリー・ストーリーズ』誌に掲載された。大学2年から学内新聞の『ザ・メイン・キャンパス』のコラムを毎週書くようになる。

のちに妻となるタビサ・スプルースと、大学図書館でのアルバイト中に知り合う。

1970年に卒業。1971年の1月に結婚する。

卒業後[編集]

教師の口が見つからず、クリーニング屋で働いていた。仕事の合間に短編を書いて男性雑誌に売り、かろうじて家族を養った。この時代に書かれた短編は、『深夜勤務』にその他の作品と一緒にまとめられている。

同年の秋、キングはメイン州ハンプデンの公立高校ハンプデン・アカデミーに就職して英語のクラスを受け持った。年俸は6400ドル。放課後の職員会議や自宅でのテストの採点などに時間とエネルギーが奪われ小説が書けなくなり、作家として絶望しかける。経済的にもますます苦しくなり、トレーラーハウスで生活するようになる。学校の休暇中はクリーニング屋でアルバイトをしていた。妻はダンキンドーナツで働いて家計を助けた。この頃は売れ残りのドーナツをよく食べていたので、今ではドーナツは好きではないという。

小説家デビュー[編集]

1973年の春、米国大手出版会社のダブルデイ社が小説『キャリー』の出版を引き受けた。キングはこの作品を初稿3ページまで書いて一度はゴミ箱に捨てていたが、タビサ夫人が拾って読み、完成させるように励ました。ハードカバー版の契約金は2500ドルだった。これを機にアパートに引っ越す。ペーパーバック版の権利が転売されても高くはないだろうと考えたキングは高校との雇用契約を更新したが、その後ペーパーバック版の権利がシグネット・ブックスに40万ドルという高額で売れたことを知らされる(このうちキングの取り分は20万ドル)。

1974年2月、母ネリーが癌で死亡。『キャリー』のハードカバー版は、1974年の春に出版され、その後映画化されてヒットする。

同年の秋、キングはメインを離れ、コロラド州ボルダーに移り住み、1年弱の滞在の間、コロラドを舞台とした『シャイニング』を書く。

1975年の夏、メイン州に戻り居を構えて、ボルダーを舞台とした『ザ・スタンド』を書き上げる。『デッド・ゾーン』もこの時期に書かれる。

その後[編集]

80年代半ばには以前からのアルコールに加えて薬物依存(コカイン咳止めシロップ、大麻その他)になる。キングによれば、この時期に書かれた『トミーノッカーズ』は、自身のアルコールと薬物の寓話である。妻から「治療を受けるか家族と別れるか」の選択を迫られたキングは治療を選び、依存症を克服する。

1999年6月19日、メイン州西部にある別荘の近くを散歩中、危険運転常習者のライトバンにはねられ重傷を負い、脚に障害が残った。

キングとタビサの間には3人の子供、ナオミ・レイチェル、ジョセフ・ヒルストロムオーウェン・フィリップがおり、また現在3人の孫がいる。タビサ、ジョセフ・ヒルストロム(筆名ジョー・ヒル)、オーウェン・フィリップは作家として活動している。

映像化作品について[編集]

テレビドラマ化された作品も多く、『ローズ・レッド』(2002年〜2003年)、『デッド・ゾーン』(2002年〜2007年)、『ヘイヴン -謎の潜む町-』(2010年〜2015年)、『アンダー・ザ・ドーム』(2013年〜2015年)などがヒット作として知られている。監督した映画4作のうち3作がキング原作というフランク・ダラボン作品をはじめ、トビー・フーパーロブ・ライナーミック・ギャリスも複数作を監督している。

スタンリー・キューブリック監督が映画化した『シャイニング』が気に入らず、自らテレビドラマ『シャイニング』(1997年)を監修した。キューブリック監督の映画を「空っぽのキャデラック」と酷評しているが、著名な監督が自らの作品を映画化することは光栄に思っていたようである(当時、映画版『シャイニング』は、原作のストーリー性を求める向きも強かったためラジー賞にノミネートされるなど、酷評が多かった)。

そのほかキングが製作総指揮をとった映像作品としては、ラース・フォン・トリアー原作のテレビドラマをリメイクした『スティーヴン・キングのキングダム・ホスピタル』がある。原作の舞台をメイン州に移し、キングによる脚本をもとにリメイク作品が製作されたもので、原作に比べ大幅に改変が加えられた作品となっている。

自ら携わった映像作品に出演することもあり、『地獄のデビル・トラック』、『ペット・セメタリー』など多くは端役やカメオ出演であるが、オムニバス映画『クリープショー』第2話の「ジョディ・ベリルの孤独な死」では主役を演じている。

短編小説の映画化権を、学生や駆け出しの映画製作者に彼らを応援する目的で1ドルで売っている。これをダラー・ベイビー(ダラー・ディール)と呼び、上記『ショーシャンクの空に』以来、複数作でキング原作の映画の監督を務めたフランク・ダラボンも、元は学生時代に『312号室の女』を短編映画化し、彼の知遇を得ていた。

作品同士のリンク[編集]

キングの作品は『ダーク・タワー』シリーズを中心に多くの作品がリンクしている。さらに、『ダークタワー』シリーズとは別にキャッスルロックデリー(ともにメイン州の架空の街)等を繋がりにリンクする作品も多く、細かいリンクを辿るとほぼ全ての作品が繋がっている。

また、『レギュレイターズ』と『デスペレーション』では、全く同じ題材を全く違う視点、展開、タッチで描くという試みも行っている。

キングが創造した主な町としては以下が挙げられる。(右に登場した作品を挙げる)

また、実在する町も登場する。

またメイン州の都市であるバンガールイストンポートランドオーガスタブランズウィック等も頻出する。

他にも稀に作品の中に過去の作品やキングの名が登場することがある。

リチャード・バックマン[編集]

別ペンネームリチャード・バックマン(Richard Bachman)名義で、『死のロングウォーク』、『バトルランナー』、『痩せゆく男』、『レギュレイターズ』などを発表した。『死のロングウォーク』は、キングの事実上の処女長編小説である。

キングが別ペンネームのリチャード・バックマンを使った理由は、キングが小説家としてのキャリアをスタートさせた当時、米国出版業界では1人の作家は1年に1冊だけ出版する、という風潮があった。そのころ多作型の作家は、別ペンネームを使うことで年に複数冊の作品を出版していたので、それにのっとりキングもリチャード・バックマン名義を別に使うことで、年に2冊みずからの作品を出版しようとした経緯がある。

その他の意図としては、同じ作家が別ペンネームで書いた本がどれだけ売れるかキングが試してみようとした、とも言われている。

なお、この試みはディーン・R・クーンツピーター・ストラウブもかつてしていたとキングは述べている。

主な作品[編集]

長編[編集]

短編集[編集]

中編集[編集]

  • If It Bleeds If It Bleeds(2020年)未訳

ノンフィクション[編集]

映画・テレビオリジナル脚本[編集]

映像化作品[編集]

映画[編集]

テレビ[編集]

その他[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1961年、14歳のときフォレスト・J・アッカーマン編集の『スペースメン』に短編 "The Killer" を投稿して、不採用になった。約20年後キングのサイン会にアッカーマンがこの原稿を持って現れ、キングを驚かせた。のちに、この短編は『フェイマス・モンスターズ・オブ・フィルムランド』1994年春号(#202)に掲載された。表紙には「キングの初めてのストーリー」とある。(画像)。キングもこれが初めての投稿作品であると『小説作法』で述べている。しかし14歳のキングが原稿に添えた手紙には「これまで2年間投稿している」とある(画像)
  2. ^ "I Was a Teenage Grave Robber" 掲載時のタイトルは変更された。
  3. ^ キューブリック監督の『シャイニング』に不満だったから脚本を書いて出演までしたのだが、村上春樹『THE SCRAP』(文藝春秋1987年)によれば、「恐怖小説作家が真剣に恐怖とは何かと考えはじめたり、ユーモア小説作家が真剣にユーモアとは何かと考えはじめたりすると、物事はわりにまずい方向に流れちゃうみたいである」という。

出典[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]