ジョルジョ・ゲッツィ

ジョルジョ・ゲッツィ
名前
愛称 Kamikaze[1]
ラテン文字 Giorgio Ghezzi
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1930-07-11) 1930年7月11日
出身地 チェゼナーティコ
没年月日 (1990-12-12) 1990年12月12日(60歳没)
身長 182cm
選手情報
ポジション GK
ユース
イタリアの旗 チェゼナーティコ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1947-1949 イタリアの旗 リミニ 44 (0)
1949-1951 イタリアの旗 モデナ 62 (0)
1951-1958 イタリアの旗 インテル 186 (0)
1958-1959 イタリアの旗 ジェノア 32 (0)
1959-1965 イタリアの旗 ミラン 123 (0)
代表歴
1954-1961 イタリアの旗 イタリア 6 (0)
監督歴
1966-1967 イタリアの旗 ジェノア
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ジョルジョ・ゲッツィGiorgio Ghezzi, 1930年7月11日 - 1990年12月12日)は、イタリアチェゼナーティコ出身の元サッカー選手。元イタリア代表。ポジションはゴールキーパー

経歴[編集]

クラブ[編集]

ミランの1961-62シーズンセリエA優勝メンバー(向かって後列左から2番目がゲッツィ)

地元のチェゼナーティコ英語版で育ち、リミニモデナを経て、1951年にインテルに加入。インテルには7年間在籍し、1952-53シーズンと1953-54シーズンの2度のスクデットを獲得した[2]。その後ジェノアに移籍したのち、1959年にロレンツォ・ブッフォンと入れ替わる形でミランに加入。1961年に就任したネレオ・ロッコ監督のもと1961-62シーズンにはスクデット、翌1962-63シーズンにはエウゼビオ擁するベンフィカを決勝で下し、イタリアのクラブとして初となるUEFAチャンピオンズカップのタイトルを獲得した[1][3]

代表[編集]

イタリア代表の一員として1954年のFIFAワールドカップスイス大会のメンバーに選出され、グループステージの全2試合に出場[4][5]。続くグループステージ突破をかけたプレーオフではジョヴァンニ・ヴィオーラが代わって出場したが、スイス代表に敗れて大会を終えた[6]

現役引退後[編集]

1966年にセリエBジェノアの監督に就任したが、翌1967年1月に退任した[1]

1990年12月12日、フォルリの病院で心臓発作により60歳で死去した[2]

タイトル[編集]

インテル
ミラン

脚注[編集]

  1. ^ a b c Alberto Costa. “GHEZZI, giorgio in "Enciclopedia dello Sport"” (イタリア語). Treccani. 2022年12月28日閲覧。
  2. ^ a b CIAO GHEZZI, KAMIKAZE” (イタリア語). La Repubblica (1990年12月13日). 2022年12月28日閲覧。
  3. ^ Giorgio Ghezzi: stats and matches” (英語). AC Milan. 2022年12月28日閲覧。
  4. ^ 1954 FIFA World Cup Switzerland™ Switzerland - Italy” (英語). FIFA. 2022年12月28日閲覧。
  5. ^ 1954 FIFA World Cup Switzerland™ Italy - Belgium” (英語). FIFA. 2022年12月28日閲覧。
  6. ^ 1954 FIFA World Cup Switzerland™ Switzerland - Italy” (英語). FIFA. 2022年12月28日閲覧。

外部リンク[編集]