ジャン=ポール・サヴィニャック

ジャン=ポール・サヴィニャックJean-Paul Savignac1936年5月8日 - 、ヴェルサイユ出身)は、フランス画家映画監督である。同姓同名の古典文学者(Jean-Paul Savignac)がいるが、まったくの別人である。

来歴・人物[編集]

1936年5月8日、フランス・イヴリーヌ県ヴェルサイユに生まれる。幼少期をオート=ガロンヌ県トゥールーズで送り終戦を迎える。1954年リセ・ピエール=ド=フェルマ校を卒業、パリへ移り、ピエール・シャルパンティエをパトロンにモンパルナスのアトリエ・シャルパンティエで画業に励む。装飾芸術美術館(Les Arts Décoratifs)の館長と親しくなる。

1959年、23歳のときにジャン・ドラノワ監督のジャン・ギャバン主演映画『ギャンブルの王様』の美術装飾助手を経験。1959年 - 1962年、徴兵でヨンヌ県ジョワニー駐屯地やパリの映画局で勤務。1962年の除隊後、ジャン=リュック・ゴダール監督の『女と男のいる舗道』で助監督になる。以来、『カラビニエ』(1963年)、そして『はなればなれに』(1964年)と『アルファヴィル』(1965年)というゴダールのもっとも幸福なアンナ・カリーナ主演作品3本の合計4本に助監督としてつき、ジャック・ドゥミ監督の『シェルブールの雨傘』(1964年)、アニエス・ヴァルダ監督の『幸福』にも助監督をつとめた。

1965年、助監督経験たった3年で、『アルファヴィル』を製作した製作会社ショミアーヌと映画プロデューサーアンドレ・ミシュランによって、『アルファヴィル』のエディ・コンスタンティーヌ主演映画の監督に抜擢される。前年1964年に公開されたアンリ・ドコワン監督の『Nick Carter va tout casser(ニック・カーターがすべてを壊す)』の続編、『Nick Carter et le trèfle rouge(ニック・カーターと赤のクローバー)』である。撮影には、サヴィニャックが初めて助監督を経験した『女と男のいる舗道』で撮影助手だったクロード・ボーソレイユ。のちにフランソワ・トリュフォーの遺稿を映画化した『小さな泥棒』(1988年)で知られる映画監督クロード・ミレールが初めて助監督を経験するのもこの作品であった。また、彼が助監督をつとめた『シェルブールの雨傘』と『幸福』のプロデューサー、マグ・ボダールパルク・フィルムも本作に出資している。

ゴダールが1966年の『男性・女性』、あるいは1967年8月の「商業映画との決別宣言」以降、毛沢東主義シネマ・ヴェリテに没入するに至り、当時のゴダールについて、あるいは五月革命についてのドキュメンタリーを監督し、師匠に伴走しようと試みたが、「ジガ・ヴェルトフ集団」には参加しないまま、戦線を離脱。映画からも離れ、1975年からは絵画の世界へ戻っていった。

ゴダールとカリーナのもっとも幸福な時期の目撃者であり、ヌーヴェルヴァーグのもっとも華やかな部分を生きた人物である。またスピードデビューを飾った『ニック・カーターと赤のクローバー』は、『アルファヴィル』の一種のスピンアウト作であり、彼の同僚助監督であり10年ゴダールに尽くしたシャルル・L・ビッチの長編デビュー作『最後の男』(1968年)も『アルファヴィル』と世界観を共有した作品であった。ゴダール自身の『未来展望』(1967年、オムニバス『愛すべき女・女たち』の一篇)とともに、「『アルファヴィル』の子どもたち」である。クリス・マルケル監督の『ラ・ジュテ』(1962年)がゴダールに起こしたインスパイアはこのように短時間で華やかに育った。

フィルモグラフィー[編集]

監督[編集]

撮影[編集]

  • La Route 1975年 監督・脚本ジャン=フランソワ・ビゾー

助監督[編集]

外部リンク[編集]