サマタ瞑想

仏教用語
サマタ, シャマタ
パーリ語 Samatha
サンスクリット語 śamatha
中国語 奢摩他
(拼音Samatha)
日本語
(ローマ字: shi)
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サマタ瞑想[1](サマタめいそう、: samathabhāvanā[注釈 2])は、こころを特定の対象に結びつけて集中力を養う瞑想である[2]サマタ: samatha)、シャマタ: śamatha)、奢摩他[3]とは、ひとつの対象に心を落ち着かせることを意味する仏教用語であり、[4][3]漢訳される[5]

上座仏教のサマタ瞑想[編集]

上座部仏教では業処と呼ばれる瞑想対象が40種類ある。現在、欧米で広まっているヴィパッサナー瞑想(観行)の一類である、上座部仏教のマハーシの文脈における瞑想では、準備段階としてサマタ(止)の一種である慈悲の瞑想が行なわれる。最も一般によく使われるサマタは呼吸を対照する安那般那念(別名アーナーパーナ・サティ)である。

元来の上座部仏教では、ヴィパッサナー瞑想の前の段階として集中力を強化するためにサマタ瞑想が行われるが、現代ではサマタ瞑想を簡略化して初めからヴィパッサナー瞑想に入る方式が広く行われている[6]

Idha āvuso bhikkhu samathapubbaṅgamaṃ vipassanaṃ bhāveti.
Tassa samathapubbaṅgamaṃ vipassanaṃ bhāvayato maggo sañjāyati.
So taṃ maggaṃ āsevati bhāveti bahulīkaroti.
Tassa taṃ maggaṃ āsevato bhāvayato bahulīkaroto saññojanā pahīyanti. Anusayā vyantīhonti.

ある比丘が、サマタの導きにより、ヴィパッサナーを修習(bhava)する。
サマタの導きによりヴィパッサナーを修習すると、その者に(解脱への)道が生じる。
彼は、その道を実行し、修習し、大きくする。
その道を実行し、修習し、大きくした者は、彼のは解き放たれ、随眠が滅びる。

パーリ仏典, 増支部四集, 10. 倶存経(Yuganaddhasuttaṃ), Sri Lanka Tripitaka Project

仏典の止の概念[編集]

パーリ語サマタsamatha)、サンスクリットシャマタśamatha, 奢摩他、漢訳: [4])は、仏教の用語で、ひとつの対象に心を落ち着かせることであり、(し)と翻訳される[5]。仏教では、止 (samatha) が深まると三昧 (samādhi) という状態から禅那 (jhāna) という境地に至るとされた[7]とも漢訳される三昧は、何らかの対象に集中している状態[7]、または対象に集中することによって生じる集中力を指す[8]。禅那は段階的に、4つの色界禅(初禅から第四禅)、4つの無色界禅、滅尽定に区分される[7]

「止」の原語であるサマタないしシャマタは、仏典においてのみ使われており、インドの一般の文献には見られない[9]。仏教が成立した初期の頃には、『ウパニシャッド』やジャイナ教と同じく、dhyāna(禅定)や、yoga といった表現が用いられた[9]。止の原語である samathaśamatha は『ウパニシャッド』では使われず、それに近い śamaśānti であればヒンドゥー教での中心的な概念となっている[9]。samatha という言葉は仏教の成立後しばらく後に用いられるようになったと考えられる[9]。漢訳では一般には止であり、奢摩他と音写されることもある[9]。六息念の sthāpanāsthāna も止と訳されるが、意味は同一ではない[10]

初期の経典『小部』では止観のように観の字は併記されず、止や心寂止がよく登場するため、特に心寂止という言葉は、観よりも早く成立したと考えられる[11]説一切有部などの後代には、止観という言葉が生まれている[9]。この時代の初期・中期(2-3世紀ごろ)の「六足・初智」や『大毘婆沙論』では、止と観のバランスが重要であると強調されている(も参照)[12]。後の(4-5世紀)[12]、『倶舎論』の「賢聖品」において、止は不浄数息の2つの修行法を指し、そこでを達成する[13]。この時代になって初めてこのような具体的な修行法が定められている[12]。『順正理論』では、観で煩悩を断じるときに止を伴う必要があるとされている[13]

仏教一般における止行[編集]

「止」は静かな澄み切った心の状態であり[14]、こうした上で対象を正しく観察するということが(かん、: vipassanā)であり、不離の関係にあり併せて止観という[5]。このため、観とで、鳥の双翼あるいは、車の車輪のようにたとえられる[4]。対象に集中するという瞑想は、仏教以外の修行でも共通する修行であり特別なことではないが、他の修行を実践するための土台となる[14]

大乗仏教では止に対する5つの障害があるとし、心が重い懈怠(けだい)、注意深さのない失念、心が対象をとらえず沈む惛沈(こんじん)と対象にとどまらず散ってしまう掉挙(じょうこ)、惛沈・掉挙に結びついていることそれ自体、不要な時にこれら障害を対抗する実践を行っていることである[14]。懈怠に対しては信仰と決断力と努力と心の巧妙さ(信、欲、勤、軽安)であり、失念に対抗するのはであり、惛沈・掉挙には正知であり、探求心と心の落ち着きが残りに対抗する[14]

注釈[編集]

  1. ^ この著書『アビダンマ講義シリーズ第七巻』では、「サマタ(samatha)」を瞑想であると紹介した後に「サマタ瞑想」と呼び始めている。一方で『アビダンマ講義シリーズ第二巻』では、「サマタ(サマーディ)瞑想」逆に「サマーディ(サマタ)瞑想」といった表記が混在している。また、同著者の『沙門果経』(サンガ、2015年 ISBN 978-4-86564-013-7 )では、「サマーディ瞑想」と呼んでいる。この通り、同一著者において呼称は統一されていない。なお、サマーディとは原語であり、漢訳でと記され、止によって達する状態のことであり、別の概念である。
  2. ^ samatha (止)と bhāvanā (修習,バーヴァナー)の複合語。

出典[編集]

  1. ^ アルボムッレ・スマナサーラ 著、藤本晃 訳『ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ 第七巻』サンガ、2012年11月、9頁。 [注釈 1]
  2. ^ マハーシ・サヤドー 『ヴィパッサナー瞑想』 星飛雄馬訳、サンガ〈サンガ文庫〉、2017年、148頁。
  3. ^ a b 水野弘元 『仏教要語の基礎知識』 春秋社、新版2006年、220頁。
  4. ^ a b c 総合仏教大辞典編集委員会「止観」『総合佛教大辞典』法蔵館、2005年、518-519頁。ISBN 4-8318-7070-6 
  5. ^ a b c 中村元「止」『佛教語大辞典』東京書籍、1975年、506頁。 
  6. ^ 青野貴芳 「ミャンマーの三系統のヴィパッサナー瞑想を整理する」『別冊サンガジャパン(1)』 サンガ、2014年、63頁。
  7. ^ a b c 箕輪顕量 「上座仏教の瞑想概観」『別冊サンガジャパン(1)』 サンガ、2014年、18頁。
  8. ^ マハーシ・サヤドー 『ヴィパッサナー瞑想』 星飛雄馬訳、サンガ〈サンガ文庫〉、2017年、150頁。
  9. ^ a b c d e f 中村元「原始仏教における止観」『印度學佛教學研究』第23巻第1号、1974年、24-29頁、doi:10.4259/ibk.23.24 
  10. ^ 洪鴻榮「止・観の語源 : 安那波那念におけるsamatha・vipasyanaとsthapana・upalaksanaについて」『印度學佛教學研究』第50巻第2号、2002年、889-886頁、doi:10.4259/ibk.50.889 
  11. ^ KongkarattanarukPhrapongsak「阿含・Nikayaにおける止観の成立と展開」『印度學佛教學研究』第57巻第2号、2009年3月20日、903-900頁、doi:10.4259/ibk.57.2_903 
  12. ^ a b c KongkarattanarukPhrapongsak「説一切有部文献における止観」『印度學佛教學研究』第59巻第1号、2010年12月20日、381-378頁、doi:10.4259/ibk.59.1_381 
  13. ^ a b 洪鴻栄「倶舎論における止観」(pdf)『印度學佛教學研究』第51巻第1号、2002年12月20日、369-372頁、doi:10.4259/ibk.51.372 
  14. ^ a b c d ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ 著、菅沼晃 訳『ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく』春秋社、2001年、106-135、頁。ISBN 978-4-393-13335-4  全面的な再改訳版。(初版『大乗仏教入門』1980年、改訳『智慧の眼』1988年)The Opening of the Wisdom-Eye: And the History of the Advancement of Buddhadharma in Tibet, 1966, rep, 1977。上座部仏教における注釈も備える。

関連項目[編集]