ゲルマニア

2世紀初頭のローマ帝国。緑部分がローマの支配を受けない「大ゲルマニア」(マグナ・ゲルマニア Magna Germania)で、ローマ領となったライン川西部と南部の「小ゲルマニア」と対になる。一般的に地理的名称の「大」・「小」はローマからの距離を意味し、遠い方を「大」、近いほうを「小」とする。

ゲルマニアGermania)は、古代ローマ時代の地名。おおよそライン川の東、ドナウ川の北の地域で、現在のドイツオランダポーランドチェコスロバキアデンマークとほぼ重なる一帯を指す。なお、中世前期ゲルマニアの諸地方のうち最も広い地域を占めるのは東部のスラーヴィア地方(ポーランドを中心とした一帯)で、これは中世やそれ以前の欧州においては「ゲルマン人」はゲルマン語派の諸部族のほかゲルマニアの東部地方に住むスラヴ語派の諸部族の両方を意味していたことを示唆している。

主にゲルマン人が居住した地域で、ライン川をはさんでガリアと隣接した。ローマ帝国はライン川の西側の属州を上流と下流に分け、それぞれ高地ゲルマニア属州低地ゲルマニア属州の名を与えていた。

紀元前1世紀ガリア戦争の際にローマ人としては初めてガイウス・ユリウス・カエサルが、ライン川を越えてこの地に侵攻した。

その後初代ローマ皇帝となったアウグストゥスはゲルマニアをローマ領内に加えることを構想し、ティベリウス大ドルススらの進撃によって一時期ローマ領はゲルマニア奥地にまで及んだ。しかしトイトブルクの戦いでの敗北後、ローマ軍はライン川の西にまで撤退し、以後この地はローマから独立を守りつづけた。

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