エルナン・コルテス

エルナン・コルテス
エルナン・コルテス
生誕 Hernán Cortés de Monroy y Pizarro
1485年
メデジンカスティーリャ王国
死没 1547年12月2日
カスティジェッハ・デ・ラ・クエスタスペイン王国
職業 コンキスタドール
著名な実績 アステカ王国の征服
署名
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初代バジェ・デ・オアハカ侯爵エルナン・コルテス・デ・モンロイ・イ・ピサロスペイン語: Hernán Cortés de Monroy y Pizarro, 1485年-1547年12月2日)は、スペインコンキスタドールメキシコ高原にあったアステカ帝国を征服した。

1992年から2002年ユーロ導入までスペインで発行されていた最後の1,000ペセタ紙幣の表面に肖像が使用されていた[1]

生涯[編集]

前半生[編集]

1485年、現在のエストレマドゥーラ地方メデジンにて生まれる。イスパニョーラ島の統治者であったニコラス・デ・オバンドの遠戚にあたる。

はじめ法律家を目指しサラマンカ大学に通ったが叶えられなかった。

当初、遠戚であったニコラス・デ・オバンドと共に、新大陸に渡る計画があったが、コルテスが大怪我をしたためかなえられなかった。その後、スペイン南部のカディスセビリアパロスなどで、新大陸から帰還した者の当地での発見、征服、金、原住民などの話を聞くなどして、見聞を広めた。

新大陸へ[編集]

1504年アロンソ・キンテーロ (Alonso Quintero) が率いる船で、イスパニョーラ島に渡り植民者となった。キンテーロが、第一発見者になるために取ったライバルを騙したり欺いたりする手法は、コルテスが新大陸でその後取った手法に少なからず影響を与えた。18歳のコルテスは、イスパニョーラ島の首都サント・ドミンゴで市民登録をして、建物を建てたり土地を耕したりする権利を得た。程なくして、統治者のニコラス・デ・オバンドがコルテスにエンコミエンダ制の権益を与え、彼をアスーア・デ・コンポステーラ (Azua de Compostela) の町の公証人にした。その後5年間、コルテスは植民地での地位の確立のために働いた。1506年、コルテスはイスパニョーラ島とキューバの遠征に参加し、多くの不動産とインディアンの奴隷を獲得した。

1511年、コルテスはディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャルのキューバ征服に参加した。その結果ベラスケスは、キューバの統治者となった。ベラスケスはキューバ支配におけるコルテスの働きに感心していた。コルテスの勇猛果敢なリーダーとして名声は、その後も続いた。そしてコルテスはベラスケスの秘書官となった。キューバにおいてコルテスはエンコミンダ制による収益や鉱山、牧畜などで生計を建てていた。秘書官としての地位により、彼は指導力も得た。1514年、コルテスは、労働力としてさらなる原住民の割当を要求していたグループのリーダーとなっていた。

アステカ征服[編集]

コルテスの征服路

時が経ち、コルテスと統治者ベラスケスとの関係は、緊張状態となっていた。1519年、コルテスはキューバ総督ディエゴ・ベラスケスの命令に違反して500人の兵、馬16頭、帆船11隻を率いてメキシコ湾岸沿いに進み、3月12日タバスコ川に到着、翌日の原住民との戦いに勝利する。ユカタン半島で8年前にこの地に漂着していたコンキスタドーレス、ヘロニモ・デ・アギラールと、パイナラの族長の娘マリンチェと出会い、彼ら二人を通訳兼案内人として先へ進んだ。7月26日に兵の逃亡を防ぐため船を沈める。同年8月、メキシコ湾岸にベラクルス市を建設する[2]と、内陸へと進んでいった。メキシコ高原に到達すると、アステカの宿敵であるトラスカラ人と戦い和睦して同盟を結び、さらにテスココなど各地の勢力と同盟を結んだ上でアステカへと向かった[3]。当時、過酷な税制によってアステカ支配下の諸民族は不満を強めており、これがコルテスらの軍と同盟を結ばせる動機となった。結果、スペインと諸民族の混成軍は膨大な数に上った。[4]10月16日チョルーラの虐殺が起きる。この虐殺においてスペイン人の正確な報告はない。モクテスマ2世がチョルーラの首長たちにコルテスをだまし討ちするよう命じたため、これを察知したコルテスがチョルーラの要人の殺害を命じた、あるいはトラスカラ人が宿敵のチョルーラ人に復讐するために起こしたと思われる。チョルーラの虐殺にアステカは震え上がった。

インディオたちに白い神ケツァルコアトルの化身と崇められるようになっていたコルテスは、アステカ王モクテスマ2世に「をお返しします」と言われて丁重に迎えられ、アステカの首都テノチティトランを6日間案内されて見学し、アステカが思いの外強力であることに気づいた。このとき、血塗られた神殿も案内された。まだ動いている心臓が銀の皿にのせられていたという。

弱腰を貴族たちに責められたモクテスマ2世が、前言を翻してスペイン人に立ち去るよう要求したため、コルテスは、わずかな兵をテノチティトランに残し体制を整えるために引き返した。

コルテスはベラクルスでパンフィロ・デ・ナルバエスに率いられたキューバ総督追討軍に夜襲をかけて破ると、ナルバエスの部下を味方に引き入れインディオを引き連れて再びテノチティトランに戻って来た。しかしこのとき、兵120名とともに留守を任されていたペドロ・デ・アルバラードたちが祭典中のアステカ人たちを虐殺し、激怒したアステカ人たちは反乱を起こしていた。1520年6月29日、コルテスは反乱を起こしたアステカ人たちをモクテスマ2世に説得させようとしたが、激怒した住民によってモクテスマ2世は殺され、6月30日には暴動はさらに拡大して、コルテスは命からがらテノチティトランを後にした。この事件はスペイン側からは「悲しき夜(ノチェ・トリステ)」と呼ばれ、約1,000名のスペイン人が死亡した[5]

テノチティトランを脱出したコルテス一行は、7月7日オトゥンバ谷で追撃してきたアステカ軍に追いつかれるが、逆にこれを大破し、アステカ軍はテノチティトランに引き返した。7月12日、トラスカラに到着したコルテスはテノチティトラン再征服の為の軍備を整えた。

一方アステカ人はモクテスマ2世のあとに新王クイトラワックを選んで団結していたが、スペイン軍が持ち込んだ天然痘が蔓延して、10月には在位わずか80日でクイトラワックは死亡し、かわって25歳の勇敢な戦士クアウテモックを王に推戴した。

1521年の始めコルテスは5万余のスペイン兵・トラスカラ・テスココの連合軍を率いてアステカに侵入すると、メキシコ中央盆地の都市を攻略して4月28日にテノチティトランを包囲した。3カ月以上の攻防の末、8月13日にテノチティトランは陥落し、クアウテモックは捕らえられた。8月21日、帝都テノチティトラン入りしたコルテス軍は伝染病で死んだインディオの死体を踏まずには進めない状態であり、コルテスでさえ気分を悪くするほどの耐え難い悪臭が漂っていたとされる[6]

征服後[編集]

アステカを征服すると、コルテスは征服した土地を部下に分け与え、自らも広大な土地を手に入れた。これにより、旧アステカにもエンコミエンダ制が大々的に成立することとなった。1523年、コルテスはカルロス1世から総督に任命されカリフォルニア南部を探検した。同時に、ホンジェラスやニカラグアへ遠征隊を派遣した。入植者たちは、広大な土地を与えられ、労働力としてインディオたちを金山や銀山で強制労働させ、奴隷として扱った[7]

1524年ホンジュラスのスペイン併合を宣言。

1525年2月26日、反乱を企てたとの疑いにより、クアウテモックを絞首刑に処した。この瞬間アステカは滅亡し、メキシコはスペインに併合された。

1527年、スペインに一時帰国。

1529年バジェ・デ・オアハカ侯爵に封ぜられる。

1530年、メキシコに戻り、大エンコメンデロとして富を築いた。

1533年、カリフォルニア半島の先端を確認した[8]

1540年、スペインに帰国。総督への再任を請願するも、却下される。1541年にはカール5世のアルジェ遠征に参加した。

1547年12月2日、セビーリャ近くのカスティリェハ・デ・ラ・クエスタにて赤痢により死亡。62歳。遺体は遺言により、メキシコシティと改称したテノチティトランに自身が建てたへスース病院内の礼拝堂に埋葬された。

なお、コルテスの封じられたバジェ・デ・オアハカ侯の侯爵位は、正妻の子マルティンが継いだ。その後、男系は絶えたが、女子相続人を通じ、2018年現在までバジェ・デ・オアハカ侯爵は存続している。

功罪と評価[編集]

エルナン・コルテス

コルテスはアステカ帝国を支配、そしてアステカ文明を完膚なきまでに粉砕し、その文化に全く理解を及ぼさなかった。また、コルテスはキリスト教徒、それも敬虔なるカトリック信徒であったがために、インディオの社会が持っていた人身供犠などの「野蛮」とされる側面のみをあげつらい、インディオの習慣を廃止させようとしたとの意見もある。

事実、彼らは征服先で黄金を略奪し、インディオの大量虐殺を行った。そして多くのインディオ女性を強姦し、さらには征服が一段落したのちは征服者としての政治的経済的な力でこれまた多くのインディオ女性を妾として所有した。[要出典]コルテス自身も、インディオ女性のマリンチェを妾として寵愛し、彼女との間に生まれた子供にマルティンと名付けており、現在も子孫がメキシコにいる。

かつてはコルテスの行為に関しては、インディオたちを人身供犠などを掲げる残酷な旧来の宗教の因習や鞏固な身分制から解放した、宣教師によって福音に接することが出来た、などと肯定的に捉える見解が大半を占めた。また、コルテス一行を評してナワトル語で書かれた『コディセ・フロレンティーノ』には「平和の神」と記されている。

しかし、スペイン人による支配と搾取は、先住民文化伝統宗教を徹底的に粉砕し、先住民は白人入植者たちに奴隷の様に使役されるという状況に置かれた。18世紀から19世紀にかけて多発したインディオの反乱は後にメキシコ独立の原動力とはなったが[注釈 1]、19世紀に独立したメキシコ帝国メキシコ合衆国の実権を手にしたのは、かつて略奪と虐殺を繰り返したコンキスタドールの子孫であった。インディオの社会的立場の向上は、20世紀にならなければ実現し得なかった。

日本語文献[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ なお、征服者であるコンキスタドール(とその後継者たち)は、16世紀後半にはスペイン政府が直接統治に乗り出したため、度々反乱を起こしたが、小規模のものにすぎず、独立には至らなかった。

出典[編集]

  1. ^ 裏面はフランシスコ・ピサロ
  2. ^ 「世界探検全史 下巻 道の発見者たち」p61 フェリペ・フェルナンデス-アルメスト著 関口篤訳 青土社 2009年10月15日第1刷発行
  3. ^ 「図説 ラルース世界史人物百科Ⅱ ルネサンス - 啓蒙時代」p76 - 77 2004年10月25日第1刷 フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編 樺山紘一日本語版監修 原書房
  4. ^ 「物語メキシコの歴史」p33 中央公論新社 大垣貴志郎 2008年2月25日発行
  5. ^ 「ラテンアメリカを知る事典」p172 - 173 平凡社 1999年12月10日 新訂増補版第1刷
  6. ^ “疫病に負けた先住民”. ニューズウィーク日本版(1992年1月2/9日号). TBSブリタニカ. (1992-1-2/9). p. 71. 
  7. ^ フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、椛山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 79ページ
  8. ^ 「世界探検全史 下巻 道の発見者たち」p58 フェリペ・フェルナンデス-アルメスト著 関口篤訳 青土社 2009年10月15日第1刷発行

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

スペインの爵位
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