アランタ (駆逐艦)

HMAS アランタ 
HMASアランタ 第二次世界大戦中の艦影
HMASアランタ
第二次世界大戦中の艦影
基本情報
建造所 コッカトゥー島造船所
運用者  オーストラリア海軍
級名 トライバル級駆逐艦
モットー Conquer or Die(征服か死か)
建造費 500,000AUP
艦歴
起工 1939年11月15日
進水 1940年11月30日 - 12月1日
就役 1942年3月30日
退役 1956年6月14日
除籍 1956年12月21日
除籍後 1968年11月1日にスクラップとして売却
1969年2月13日に曳航中に沈没
要目
基準排水量 1,990 トン
2,122 トン(1945年改装後)
全長 377.1 ft (114.94 m)(両端部間)
355.6 ft(108.36 m)(垂直部間)
最大幅 36.475 ft (11.0935 m)
吃水 9 ft (2.7 m)
機関 パーソンズ蒸気タービン、2軸推進 44,000 shp (33 MW)
最大速力 36.5ノット (67.6 km/h:42 mph)
航続距離 5,700海里 (10,200 km)
15ノット(28km/h)時
乗員 士官12名、兵員178名(竣工時)
士官13名、兵員247名(後期)
兵装 竣工時:
45口径12cm連装砲×3基
4インチ連装高角砲×1基
39口径40mm4連装機銃×1基
エリコン 20mm単装機銃×6基
53.3cm4連装魚雷発射管×1基
爆雷投射機×2基
爆雷×46発
1945年改装:
エリコン 20mm単装機銃全撤去
ボフォース 40mm 単装機銃×6基
1949年改装:
45口径12cm連装砲×2基撤去
39口径40mm4連装機銃全撤去
爆雷投射機全撤去
ボフォース 40mm 単装機銃×1基追加
ボフォース 40mm 連装機銃×1基追加
スキッド対潜迫撃砲×1基追加
レーダー SG 1
SG 4
285P4型
253P型
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アランタ (HMAS Arunta, I30/D130) は、オーストラリア海軍駆逐艦トライバル級。艦名はアボリジニの一部族であるアランテ族enにちなむ。本艦は「アランタ」の名を持つ初めての艦であった。

艦歴[編集]

アランタは1939年1月にオーストラリア海軍局(Australian Naval Board)に発注され、ニューサウスウェールズ州シドニーコッカトゥー島造船所1939年11月15日に起工[1][2]。アランタはオーストラリア海軍のトライバル級駆逐艦では最初の艦であった[3]。その後1939年11月30日にオーストラリア総督夫人ザラ・ゴウリーの手で進水したが、アランタの艦体は船台の中ほどで停止してしまい、完全な進水は翌日に持ち越しとなった[4]。建造費は500,000AUPであった。アランタは竣工の一か月前である1942年3月30日に就役した[5]

第二次世界大戦[編集]

アランタは1942年5月17日にニューサウスウェールズ州沖で対潜哨戒を行い、最初の作戦行動を開始した[3] 。これらの任務の中で特筆すべきものとして、5月16日にアメリカ海軍の駆逐艦パーキンスオランダ海軍軽巡洋艦トロンプと共に成果のない対潜哨戒任務中にロシア船ワレン(Wellen)への発砲と調査を行ったことが挙げられる。5月18日、アランタとトロンプは、シドニーからポートモレスビーオーストラリア陸軍第14旅団の将兵4,735名を運ぶオランダ船4隻からなるZK.8船団を護衛した[6]

一か月後、アランタはオーストラリア沿岸を行くいくつかの船団を護衛し、さらに8月初旬にはニューギニアへ向かう複数の船団を護衛した。この任務の中で、アランタは1942年8月24日にポートモレスビー沖合において日本海軍潜水艦呂33を発見、爆雷攻撃を加え撃沈した[7]

1942年9月4日、アランタはポートモレスビーを発ち、ミルン湾の部隊へ補給物資を運ぶ輸送船アンシュン(Anshun)とオランダ船ダス・ヤコブ('s Jacob)からなるQ2船団をスループスワンと共に護衛した。9月6日の朝にアランタとアンシュンはミルン湾に入り、アンシュンはギリギリ(Gili Gili)のポンツーン浮桟橋に横付けすると荷下ろしを始め、安全のため夜間は沖に退避した。しかし、アランタがスワンとダス・ヤコブと合流して南へ向かっている間、現地指揮官からの命令でアンシュンは夜間も物資の揚陸を行うことになった。だがその結果、アンシュンは夜の間に日本の軽巡洋艦天龍と駆逐艦に攻撃されて沈んでしまった(ラビの戦い[8]

1943年1月、アランタは船団護衛任務へ戻る前にティモールから連合軍ゲリラを脱出させた[9]。同年5月にアランタはアメリカ海軍第74任務部隊(Task Force 74)に参加するため船団護衛任務から解放された[3]

アランタはウッドラーク島とキリウィナ島への上陸作戦であるクロニクル作戦に参加、7月には第74任務部隊から離れ、オーストラリア周辺で哨戒と船団護衛、改装を行った後、10月29日にブリスベンで第74任務部隊に復帰した。以降は11月5日までミルン湾でオーストラリア海軍の重巡洋艦オーストラリア、シュロップシャー、駆逐艦ワラムンガとアメリカ海軍の駆逐艦ラルフ・タルボット及びヘルムと行動した[10]

駆逐艦ニコラスから見たアランタ。1943年7月撮影。

11月下旬、アランタはニューギニアの日本軍弾薬集積所を砲撃し、1943年12月から1944年1月までアラウェの戦いグロスター岬の戦いセイダー上陸を支援した[3]。3月、アドミラルティ諸島の戦いに伴い第7騎兵連隊アドミラルティ諸島へ輸送し、上陸後の支援砲撃を行った。4月から9月にかけては、ホーランジアの戦いワクデの戦い(ここでアランタは日本兵1名を捕虜にした)、ビアク島の戦いヌムフォア島の戦いサンサポールの戦いモロタイ島の戦いと各地を転戦し上陸支援を行った[3]

ホーランジア上陸を支援するアランタの砲手。

続いて10月13日にアランタはフィリピンレイテ湾へ向かう艦隊に加わった。アランタはアメリカ海軍のハッチンスバッチダリーキレンビールからなる第24駆逐艦戦隊(Destroyer Squadron 24)に加わり、10月25日のスリガオ海峡海戦西村祥治中将率いる戦艦山城扶桑航空巡洋艦最上と駆逐艦4隻からなる第一遊撃隊第三部隊を迎撃した[9] 。アランタは日本の駆逐艦時雨魚雷攻撃を行ったが外れた[11]。日本艦隊は壊滅したが、時雨は猛烈な砲雷撃を逃れ脱出に成功した。

詳細な時期は不明ながら、1944年から1945年にかけてアランタの塗装はそれまでのオーストラリア海軍のグレー二色(MS4・507a)迷彩からアメリカ海軍の濃いブルー一色の塗装に変更されている[12]

アランタの至近に特攻機が落下した瞬間を捉えた写真。

1945年1月5日、レイテ島の戦いで上陸を援護中だったアランタは神風特別攻撃隊の特攻機による攻撃を受け、直撃は避けられたものの1機がアランタの至近に突入し乗員2名が死亡した[3] 。2月13日から15日にかけてアランタと姉妹艦ワラムンガはリンガエン湾を出発しマニラの西方約480km海上へ展開、北号作戦シンガポールから日本本土へ向かう日本海軍の航空戦艦日向伊勢、軽巡洋艦大淀と駆逐艦3隻からなる艦隊(完部隊)を攻撃するアメリカ陸軍航空隊航空機が被撃墜あるいは不時着した場合の搭乗員救助に備えた。しかし悪天候により航空攻撃は行われず、何も起こらなかった[13]。完部隊は全艦が無事に日本へ到着した。

アランタは3月から4月にかけて改装が行われた後、5月10日から11日にアイタペの戦い第6師団を支援した。6月10日にはブルネイ湾の戦い第9師団を支援し[3] 、6月下旬には7月1日の上陸に先立ちルートンとバリクパパンの敵陣地を砲撃している[3]。それからアランタはシドニーのコッカトゥー島に戻り改装中に終戦を迎えた。

戦後[編集]

改装完了後の1945年10月、アランタはイギリス太平洋艦隊(BPF)に加わりイギリス連邦占領軍(BCOF)に参加した[3]1946年3月まで日本近海で行動した後、極東艦隊の展開としてパプアニューギニアとフィリピンを巡航する。再び日本に戻ったアランタは1947年4月初めまで留まっていた[3]1948年6月にアランタはいくつかのメラネシアの島々を訪問、1949年の終わりから兵装・レーダーソナーの更新を含めた近代化改装の準備が始まり、1950年から実際に作業が行われた[3]。しかし6か月以内の予定で始まった改装は、実際には2年も費やしたため完了時には既に旧式化していた[14]

改装直後のアランタ。1952年11月撮影。

1952年11月にアランタは対潜駆逐艦に再分類され現役復帰した[15]。改装後にアランタのペナントナンバーD130に変更されている[16]1953年いっぱいをオーストラリア周辺で過ごしたアランタは、1954年1月に朝鮮半島へ向かい朝鮮戦争休戦後の国連軍による警戒活動を支援した[15]。同年8月にオーストラリアへ戻り1955年5月まで留まった後、マラヤ連邦に向かったアランタはイギリス海軍及びニュージーランド海軍との共同演習に参加した。アランタとワラムンガはシンガポールで改装を受けた後、オーストラリア海軍艦として初めて極東戦略予備隊(Far East Strategic Reserve)に加わり、12月まで任務にあたった[15]。その後アランタは1956年3月から4月にかけてオーストラリア北部を巡航、6月にノーフォーク島ピトケアン諸島を訪問した。アランタは1956年6月14日にシドニーで退役し予備役に置かれた。

退役と最期[編集]

予備役に置かれたアランタは1956年12月21日に除籍された[15]。その生涯でアランタは357,273海里(661,670km:411,142マイル)を航海した[9]。アランタは1968年11月1日まで保管された後、台湾台北にある中国鋼鉄(China Steel Corporation)にスクラップとして売却された[15]

アランタの艦体は1969年2月12日に日本の深田サルベージ建設曳船東興丸によって曳航され最期の地となるはずの台湾へ向かったが[15] 、翌2月13日に浸水が発生し、復旧作業の甲斐なく艦を救うことは不可能と判断された。アランタはその日、ニューサウスウェールズ州沖65マイルのブロークン湾の海底へと消えていった[15][17]

栄典[編集]

アランタは生涯で5個の戦闘名誉章(Battle Honour)を受章した。

Pacific 1942–45 ・ New Guinea 1942–44 ・ Leyte Gulf 1944 ・ Lingayen Gulf 1945 ・ Borneo 1945[18][19]

これら5個以外にもアランタは「Guadalcanal 1942」も受章しているが、こちらは受章にふさわしい功績を挙げていないとして後に抹消されている[20]。アランタは第二次世界大戦の大部分をアメリカ海軍第7艦隊の任務部隊で過ごしたため、オーストラリアの艦艇研究家ヴィック・カッセルズ(Vic Cassells)によれば「アメリカ海軍で最も有名なオーストラリア海軍駆逐艦の一隻であった」という[3]

脚注[編集]

  1. ^ Cassells, The Destroyers, p. 17-18
  2. ^ Gill 1957, p. 128.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l Cassells, The Destroyers, p. 20
  4. ^ Cassells, The Destroyers, pgs 18, 238
  5. ^ Cassells, The Destroyers, p. 18
  6. ^ Gill 1968, p. 63.
  7. ^ Jenkins, Battle Surface, p. 265
  8. ^ Gill 1968, pp. 172, 260.
  9. ^ a b c HMAS Arunta (I), Sea Power Centre
  10. ^ Gill 1968, p. 330.
  11. ^ 岡部いさく著「英国軍艦勇者列伝」大日本絵画刊 (2012年) p141
  12. ^ Malcolm George Wright(2014), British and Commonwealth Warship Camouflage of WW II: Destroyers, Frigates, Sloops, Escorts, Minesweepers, Submarines, Coastal Forces and Auxiliaries:Seaforth Publishing ISBN 978-1-84832-205-9, p41
  13. ^ Gill 1968, p. 599.
  14. ^ Donohue, From Empire Defense to the Long Haul, p. 171
  15. ^ a b c d e f g Cassells, The Destroyers, p. 21
  16. ^ https://uboat.net/allies/warships/ship/4437.html
  17. ^ Gillett, Ross (1989). Australian Ships. Frenchs Forest, NSW: Child & Associates. p. 129. ISBN 0-86777-107-0 
  18. ^ “Navy Marks 109th Birthday With Historic Changes To Battle Honours”. Royal Australian Navy. (2010年3月1日). オリジナルの2011年6月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110613184920/http://www.navy.gov.au/Navy_Marks_109th_Birthday_With_Historic_Changes_To_Battle_Honours 2012年12月23日閲覧。 
  19. ^ Royal Australian Navy Ship/Unit Battle Honours”. Royal Australian Navy (2010年3月1日). 2011年6月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年12月23日閲覧。
  20. ^ Cassells, The Destroyers, p. 234

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

関連項目[編集]