ひまわり (1970年の映画)

ひまわり
I Girasoli
Sunflower
Подсолнухи
ソフィア・ローレン
監督 ヴィットリオ・デ・シーカ
脚本 チェーザレ・ザヴァッティーニ
アントニオ・グエラ
ゲオルギー・ムディヴァニロシア語版
製作 アーサー・コーン
カルロ・ポンティ
製作総指揮 ジョセフ・E・レヴィーン
出演者 ソフィア・ローレン
マルチェロ・マストロヤンニ
リュドミラ・サベーリエワ
音楽 ヘンリー・マンシーニ
撮影 ジュゼッペ・ロトゥンノ
ダヴィド・ヴィニツキーロシア語版
編集 アドリアーナ・ノヴェッリイタリア語版
製作会社 Compagnia Cinematografica Champion (C. C. Champion S.p.A.)
レ・フィルム・コンコルディアフランス語版
モスフィルム
配給 イタリアの旗 ユーロ・インターナショナル・フィルムイタリア語版
ソビエト連邦の旗 不明
アメリカ合衆国の旗 アヴコ・エムバシー・ピクチャーズ英語版
日本の旗 ブエナ・ビスタ
フランスの旗 不明
公開 イタリアの旗 1970年3月13日
ソビエト連邦の旗 1970年5月25日
アメリカ合衆国の旗 1970年9月24日
日本の旗 1970年9月30日
フランスの旗 1970年10月14日
上映時間 107分[1]
製作国 イタリアの旗 イタリア
フランスの旗 フランス
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 イタリア語
ロシア語
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ひまわり』(原題(イタリア語): I Girasoli )は、1970年イタリアフランスソビエト連邦アメリカ合衆国ドラマ映画ヴィットリオ・デ・シーカ監督。出演はソフィア・ローレンマルチェロ・マストロヤンニリュドミラ・サベーリエワほか。

戦争によって引き裂かれた夫婦の行く末を悲哀たっぷりに描いた作品で、地平線にまで及ぶ画面一面のヒマワリ畑が評判となった。数あるローレン主演の映画の中で最も日本で愛されている作品である[要出典]

1964年のイタリアソ連合作の戦争映画イタリアの勇士たちよロシア語版イタリア語版英語版[注釈 1][注釈 2]に引き続き、冷戦時代に西側スタッフがソ連ロケを認められた作品である。『イタリアの勇士たちよ』も、第二次世界大戦の東部戦線でのイタリア旅団の悲劇を扱い[注釈 3]、戦時資料とイタリア人帰還兵・戦没兵の手記を元に脚本が書かれた[2]。ソ連のひまわり畑、酷寒の雪中での兵士の脱落など、主要モチーフは『ひまわり』と驚くほど似通っており、主要ロケ地も同じチェルネーチー・ヤールロシア語版ウクライナ語版村である。が、前者は興行成績・注目度共に地味な作品であったため(特に日本では殆ど知られていない)、今日でも「『ひまわり』は冷戦時代初の西側のソ連ロケ作品」と誤報[3]されることが少なくない。同一テーマを、西側人気女優を主役に起用して大悲恋物語に仕立て直したものが『ひまわり』との見方も成り立つ。

作品の構想と準備に10年の歳月を要したというデ・シーカ監督は、夫を探して異郷への長い旅に出る主人公を、現代のユリシーズになぞらえる[4]。西側の企画をソ連に持ち込んだ例は当時の映画界では異色だが、製作総指揮のジョセフ・E・レヴィーンと製作のカルロ・ポンティは度々モスクワに赴きソ連側を説得、撮影を実現させた[4]

ロケ地となったひまわり畑はソビエト連邦時代のウクライナの首都キエフから南へ500キロメートルほど行ったヘルソン州にあるとされていた[5][注釈 4]が、NHKの現地取材では、ポルタヴァ州(ウクライナ中部・ドニエプル川左岸)の州都ポルタヴァの約27km北に位置するチェルネーチー・ヤールロシア語版ウクライナ語版(Чернечий Яр)村[注釈 5][注釈 6]で行われたと特定されている[3]

音楽はヘンリー・マンシーニが担当、数多くの映画音楽を手がけた中でも特に評価が高い作品で、主題曲は世界中でヒットした。

日本での初公開は1970年9月30日。2020年には「ひまわり 50周年HDレストア版」として上映され、修復作業は上映会を企画した日本の企業「アンプラグド」によって行われた[注釈 7]2022年には、ロケ地であるウクライナへのロシアの侵攻を受け、映画館や地方自治体によるチャリティー上映会が日本各地で開催された[7][注釈 8][注釈 9]

ストーリー[編集]

第二次世界大戦終結後のイタリア。出征したきり行方不明の夫の消息を求め、関係省庁へ日参する女性の姿があった。

戦時中、洋裁で生計を立てる陽気なナポリジョバンナアフリカ戦線行きを控えた兵士アントニオは海岸で出会い、すぐに恋に落ちる。12日間の結婚休暇[注釈 10]を目当てに結婚式を挙げた2人は、幸せな新婚の日々を過ごす[注釈 11]が、休暇の12日間は瞬く間に過ぎてしまう。精神疾患による除隊を目論んだアントニオは首尾よく精神病院に入院するが、あえなく詐病が露見、懲罰のためソ連戦線へと送られることになる。見送るジョバンナに「毛皮がお土産だ」と笑顔を見せるアントニオら大勢の兵士を乗せた汽車は、ミラノ中央駅を出発する。

終戦後、ジョバンナは年老いたアントニオの母親を励ましながら、夫の帰りを何年も待ち続け、ようやく同じ部隊にいたという男を見つける。男の話によると、アントニオは敗走中、極寒の雪原で倒れたという。ジョバンナは愛するアントニオを探しに、ヨシフ・スターリン亡き後のソ連へ行くことを決意する。

当時のソ連は社会主義国家であり、ジョバンナが降り立ったモスクワは別世界だった。かつてイタリア軍が戦闘していたというウクライナの村でアントニオの写真を見せて回るジョバンナだったが、一向に消息が掴めない。ジョバンナの前に、地平線の彼方まで続くひまわり畑が広がる。多くの兵士たちがこのひまわりの下に眠っているという。無数の墓標が並ぶ丘[注釈 12]まで案内した役人の男性はジョバンナに「諦めたほうが良いのでは」と言うが、彼女はきっぱりと「夫はここにいない」と言って拒絶する。かすかな情報を頼りにモスクワに戻ったジョバンナは、とある工場から出て来る労働者の中に、戦後も祖国へは戻らずにロシア人として生活しているイタリア人男性を見出す。しかし彼は多くを語らず、また、アントニオのことも知らないと言う。ジョバンナはもしやアントニオもと、微かな期待を抱く。

言葉も通じない異国で、なおも諦めずにアントニオを探し続けるジョバンナは、郊外の村で写真を見せた3人の中高年の女性たちから、身振りを交えてついて来るように言われ、一軒の慎ましい家に案内される。そこには、若妻風のロシア人女性マーシャと幼い女の子カチューシャが暮らしていた。言葉は通じずともジョバンナとマーシャは互いに事情を察する。マーシャはジョバンナを家に招き入れる。室内には枕が2つ置かれた夫婦のベッドがあった。マーシャは片言のイタリア語で、アントニオと出会った過去を話し始める。雪原で凍死しかけていた彼をマーシャが救ったのだが、その時アントニオは、自分の名さえ思い出せないほど記憶を無くしていたという。

やがて汽笛が聴こえ、マーシャはジョバンナを駅に連れて行く。汽車から次々と降り立つ労働者たちの中に、アントニオの姿があった。駆け寄ったマーシャをアントニオは抱き寄せようとするが、マーシャは彼をとどめてジョバンナの方を指さす。驚くアントニオが見たのはやつれ果てたジョバンナの姿だった。かつての夫と妻は距離をおいたまま、身じろぎもせず互いを見つめ合う[注釈 13]。ジョバンナの表情が悲しみで歪み、アントニオが何か言おうと一歩踏み出した途端、ジョバンナは背を向け、既に動き出していた汽車に乗せてくれと叫び、飛び乗る。そして、座席に倒れ込むように座ると、見知らぬロシアの人々が奇異の目で見る中、声を上げてむせび泣く。

ミラノに帰ったジョバンナは、壁に飾ってあったアントニオの写真を外して額縁ごと叩き潰し、泣きながら踏みつけ、自暴自棄に陥って男たちと遊び回る荒れた生活に身をやつすようになる。そんな中で訪ねてきたアントニオの母親は、ジョバンナの不実を咎めるが、ジョバンナはソ連で再会したアントニオの現状を母親に激白し「死んでいたほうがましだった」とぶちまける。

その後、アントニオとマーシャ夫婦は新築の高層アパートに引っ越すが、新しい生活のスタートであるはずのその日の晩も、アントニオは物思いに沈んでほとんど口を利かない。そんなアントニオを見てマーシャは「もう私を愛してないの?」と涙を浮かべる。

マーシャの許しを得、病気の母を見舞うとの口実で出国許可を得たアントニオは、約束していた毛皮をモスクワで買い求め、ミラノへ向かう。嵐で停電したアパートの暗闇の中、再会したアントニオとジョバンナだったが、感情がすれ違う。アントニオはもう一度2人でやり直そうと訴えるが、その時、隣の部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。赤ん坊を見て名前を訊く彼に、ジョバンナは赤ん坊の名はアントニオだと言う。ジョバンナもまた別の人生を歩んでいることを知ったアントニオは毛皮を渡し、ソ連に帰ることを決心する。

翌日のミラノ中央駅。モスクワ行きの汽車に乗るアントニオをジョバンナが見送りに来る。二度と会うことはないと2人はわかっている。アントニオは動き始めた汽車の窓辺に立ったままジョバンナを見詰める。遠ざかり消えてゆく彼の姿に、ジョバンナは抑えきれず涙を流し、ホームにひとり立ち尽くす。彼を乗せた汽車が去っていったこのホームは、以前戦場へ行く若き夫を見送った、その同じホームだった。

キャスト[編集]

役名 俳優 日本語吹替
TBS TVO[10]
ジョバンナ ソフィア・ローレン 此島愛子 勝生真沙子
アントニオ・ガルビアーティ マルチェロ・マストロヤンニ 羽佐間道夫
マーシャ リュドミラ・サベーリエワ 北島マヤ 平田裕香
ヴァレンチーナ(ソ連女性官吏[注釈 14]) ガリーナ・アンドレーエワ
アントニオの母 アンナ・カレーナイタリア語版 塙英子
ひまわり畑の農婦 ナディア・チェレドニチェンコロシア語版ウクライナ語版
エットーレ ジェルマーノ・ロンゴイタリア語版
復員兵 グラウコ・オノラートイタリア語版
モスクワのイタリア人労働者 シルヴァーノ・トランクィリイタリア語版
駅の女性 マリーザ・トラヴェルシイタリア語版
ソ連の役人 グナル・ツィリンスキーロシア語版
駅の切符売り ピッポ・スタルナッツァイタリア語版
ジョバンナの赤ん坊 カルロ・ポンティ・ジュニアイタリア語版
不明
その他
桑原たけし
筈見純
松尾佳子
藤夏子
高村章子
加藤修
田中秀幸
湯浅実
演出 田島荘三
翻訳
効果
調整 杉浦日出弥
制作 トランスグローバル
解説 荻昌弘
初回放送 1976年11月8日
月曜ロードショー
2022年8月6日
『土曜シネマスペシャル』

※出演者の筆頭はソフィア・ローレン(フィルムクレジット、日本封切時のパンフレット共に)。 ※出演者のフィルムクレジットは、オープニングが俳優名のみで計17人。エンディングが役名-俳優名で計11人。 ※「ジョバンナの赤ちゃん…カルロ・ポンティ Jr」は、日本封切時のパンフレットには記載されているが[4]、フィルムクレジットには全く登場しない。カルロ・ポンティ・ジュニアは、ソフィア・ローレンとカルロ・ポンティの実子。

スタッフ[編集]

ロケ地[編集]

イタリア[編集]

ソ連[編集]

  • ソフィア・ローレンを含むロケ隊は、モスクワ州北西のカリーニン州(現トヴェリ州)の幹部専用の保養所に投宿していた。施設の仕様は当時のソ連では最高クラスで、しかもすぐ外には、絵のような風景が広がり、本場のロシアの民家も何軒も残っている、撮影には申し分のない場所だった。が、保養所は通常業務も続けていたため、ローレンはモスクワから来た高官たちの歓待攻めに遭い、一日の撮影疲れを癒す暇も無いほどであった。彼女が保養所を出る頃には、贈り物の山は大型トランク3つ分になっていた。ソ連各地の名産工芸品のほか、彼女が既に毛皮外套を5着も持っていることを知らずに、高価な黒貂の外套を贈った大臣もいた。ローレンは当初「ロケはシベリアで行う」と聞いていたため、寒さに備えて毛皮外套を5着も用意して行ったが、実際には撮影隊はシベリアまでは行かず、しかも彼女のソ連での撮影は夏の半年間だけだった[11]
  • マストロヤンニは、冬の雪原の場面以外の撮影時は、モスクワ都心のホテルに滞在していた[12]

※ロシア語版 Wikipedia には、「スターリングラードのイタリア兵の退却場面は、カリーニン州(現トヴェリ州)・コナコヴォ地区のゴロドニャロシア語版(モスクワ中心部から約130km北西)のヴォルガ川氷上で撮影された」とあるが、これは「要出典」扱いとなっている(2022年8月現在)[注釈 19]。日本封切時のパンフレットによると「四方八方へ600キロにもわたって広がる冬のウクライナの大雪原」[注釈 20]

※日本封切時のパンフレットには、「ものがたり」(あらすじ)に「モスクワ郊外の住宅地」、「プロデューサー・ノート」に「ドン河畔の農家のたたずまい」とあるが[4]、「ドン河畔の農家」のロケの有無は不明で、フィルムでも箇所の特定は難しい。配給側に於ても「脚本上の想定地」と「実際のロケ地」の情報が混同され、未整理の状態だったことがうかがえる。

受賞[編集]

ソフィア・ローレンは1970年ダヴィッド・ディ・ドナテッロ主演女優賞を受賞。音楽のヘンリー・マンシーニは1971年アカデミー作曲賞の劇映画作曲賞にノミネートされた。

※日本封切時のパンフレットには、マストロヤンニが「この作品で…1970年のカンヌ映画祭最優秀男優賞を獲得している」とあるが[4]、これは誤りで、同年の同賞はマストロヤンニの『ジェラシーイタリア語版英語版』(1970年)出演に対して授与されたものである。

考証の間違い[編集]

考証の間違い[編集]

  • カラビニエリ(王国憲兵隊)は灰緑色の軍服を前線でしか着用しない。イタリア本国で着用する制服は青色である。

(附)編集(撮影)ミスと思われる箇所[編集]

  • サッカー場の時計 - 最初、カメラをジョバンナから左に回して行き、サッカーゴールの真後ろで止めた時には、画面上方の電光スコア掲示板の横の時計の針は8時を指している。が、その直後にジョバンナの姿を数秒間アップにし、再びカメラをサッカーゴール真後ろの位置に切り替えた時には、時計は7時38分を指している。(モスクワの夏の日の入りは午後9時を過ぎるので[注釈 22]、8時に明るいのは不思議なことではない。)
  • グムでの買物が夏 - アントニオのミラノ再訪は1月下旬である(テレビのサンレモ音楽祭中継が時期を示し、しかもアントニオは冬物コートを着ている)。が、その前にアントニオがグムで土産の毛皮を買う場面では、他の買物客の大半が夏服である。その直前の夫妻のイタリア行き申請の場面での「この人の母親が病気で、急いでイタリアへ」というセリフと、マーシャの衣裳がこの時までに「夏から秋へ」と巧みに計算されていることとを突き合わせると、毛皮を買う場面が夏なのはチグハグで、ミラノ訪問までに間が空き過ぎている。モスクワでは、8月下旬か9月上旬まで待てば、街行く人がみな秋物という場面は簡単に撮れる。にもかかわらずこの結果となったのは、きめ細かいスケジュールが立てられなかったか、何かの事情で秋撮りが中止となったか、いづれかであろう。

公開時のエピソード[編集]

墓地の場面をめぐるソ連当局との攻防[編集]

『ひまわり』は、作品中の2人の婦人に敬意を表し、国際婦人デー[注釈 23]に合わせて1970年3月8日にモスクワで封切られる予定だった。が、フィルム編集も完了した公開直前に、ソ連の担当部署が、イタリア兵墓地の場面をカットせよと要請して来た。カルロ・ポンティは「絶対に切れない」と回答し、ソ連側の返事を待たずにフィルムをイタリアに持ち帰り、3月13日にローマでノーカット版の封切を強行した。ソ連はその直前にも脚本共同執筆者のムディヴァニロシア語版をローマに派遣し、再度ポンティとデ・シーカの説得を試みたが、ポンティの考えは変わらなかった。「あの場面は非常に重要です。もしカットすれば、あの作品は作品ではなくなってしまいます。これは監督、脚本家、全製作陣の総意でもあります。それにもう2日かしかありません」[13]公開は強行され、作品はイタリアでは絶賛されたが、モスフィルムのスタッフはそのことをイタリアの仕事仲間からの電報によってしか知り得なかった[11]

ソ連が墓地場面のカットにこだわったのは、作品を見たイタリア人の反応を怖れたからだった。ロシアのジャーナリスト、エフゲーニー・ジルノーフによれば、ソ連東部戦線のイタリア人捕虜の約4分の3にあたる約3万人が餓死または病死[注釈 24]していたが、戦後のイタリアからの照会に対し、ソ連は彼ら戦闘によらない戦没者を「消息不明」「データが無い」と説明して来た。また証拠隠滅のために、イタリア人捕虜埋葬地は全て潰された[13]
このひたすら隠し通すソ連の態度は、かえって「本当はソ連のどこかで生きているのでは」とイタリア人の想像力を過剰に膨らます結果を呼ぶ。当時の作品公開前のイタリアでも、一部のネオ・ファシストが、まだソ連で生きている捕虜たちを帰還させよ、遺骨を返還せよという運動を起こしていた。その空気を知る駐イタリア・ソ連大使ルィジョーフは、公開目前の『ひまわり』のことを知り、「墓地の場面はカットすべき」と本国に進言して来たのである[13]

事後承諾をソ連に強要したポンティであったが、いくつかの妥協案は試みている。フィルムのエンディングクレジットの最後の字幕「登場人物・出来事はすべて架空のものです。類似の事件や人物が現実にあったとしても、みな全くの偶然です」の字幕[注釈 25]もその一環である。またポンティは駐伊大使に「我々スタッフ一同は、ソ連にイタリア兵墓地が存在しないことを認めます」という念書を送っている。が、大使の怖れは消えず、在伊ソ連人に、上映会場へも封切前の記者会見場へも行かないよう呼びかけた。危惧通り、封切後に大使はイタリアの極右団体から「もしイタリア人捕虜を釈放しなければ、欧州のソ連人外交官20人を殺害する」と脅迫状を受け取った[13]

封切強行後、KGBの思想・イデオロギー部門のトップ、ボブコーフは、イタリア撮影隊と映画人に関する非常にネガティブな印象の報告を党中央委員会に上げている。そしてソ連映画人の体験談から、外国との共同作業は慎重すぎるほど慎重であるに越したことはない、と結論づけている[13]

念書の内容とは逆に、西側の製作陣と配給会社は、墓地の場面がセットであることと、ソ連からカットの要請があったことは極秘にしていたと思われる。日本封切時のパンフレットに、試写を見た小森和子が、「ソ連外務省[注釈 26]の役人が、ジョバンナと汽車の旅まで共にしてウクライナのひまわり草原にまで案内し、ソ連がイタリアの捕虜や戦死者をまつったというところなどは、いささかソ連PRのにおいがしないでもない」[注釈 27]と、裏の現実とは正反対の感想を書いているからである。

「行方不明者」に関する真相解明の進展は、グラスノスチ冷戦終結を待たねばならなかった。1991年、イタリア・ソ連の2国間合意で戦没者名簿が公表された[14]。長い歳月が流れ、しかもロシア文字の名簿には誤りも多く、遺族捜しは難航しているが、それでもロシアの民間人が保管していたイタリア兵認識票百数十点が、ミラノ山岳兵協会[注釈 28]の尽力で遺族に届けられた例がある[14]

「イタリア映画」扱いだった日本封切[編集]

-「世界初」にこだわった宣伝、沈黙するソ連-

封切から数十年後の『ひまわり』の解説は、多くが「イタリア・ソ連合作映画」に回帰している(『マストロヤンニ自伝 わが映画人生を語る』の巻末用語解説[15]、『ヴィットリオ・デ・シーカを感動する』の「ひまわり」の記事[16]など)。また Wikipedia の各国記事の8割が、イタリアとソ連を含む合作映画と記載している(2022年9月現在)[注釈 29]。が、1970年の日本封切当時は、多くの報道機関が『ひまわり』を「イタリア映画」(もしくはイタリア・アメリカ合作映画)と紹介していた。
映画の「国籍」(○○国映画、A国B国合作映画など)の厳密な定義は難しいのだが、最初に発表された「国籍」は大抵そのまま定着する(『007は二度死ぬ』- 日本ロケが行われた英米合作映画、『おろしや国酔夢譚』- ソ連ロケが行われた日本映画[注釈 30]、『デルス・ウザーラ』- 外国から監督を招聘したソ連映画 など)ことと比較すれば、『ひまわり』のように発表数十年後に「国籍」が揺らぐのは、かなり珍しいケースと言える。

そして「イタリア映画」とした紹介記事は、みな例外なく「イタリア(西側)映画初のソ連ロケ作品」を謳っている。一方、封切用パンフレットでは、「イタリア映画」「西側映画」の明言は避けているが、やはり「はじめて外国のカメラが、ソ連国内の奥深く入ることになった」[4]と、世界初にこだわっている。

前者の報道例を挙げると、

  • 「…初めてソ連国内でのロケを実現させた外国映画だ」読売新聞 1970年6月22日(夕刊)東京本社版第7面「初のソ連ロケが実現 デ・シーカ監督「ひまわり」」
  • 「…初めてソビエトでのロケを実現した外国映画というわけだが、…」読売新聞 1970年9月29日(夕刊)東京本社版第9面「スクリーン 戦争が生んだ悲しい思い 「ひまわり」(イタリア) 出会いと別れのうまい描写」
  • 「イタリア映画『ひまわり』が近く公開される。…ソ連国内の奥深くにまで、外国映画のロケ隊がはいったのは、おそらくこの映画がはじめてだといわれる」朝日新聞 1970年9月9日(夕刊)東京本社版第9面「戦争と女心を描く イタリア映画『ひまわり』 デ・シーカ 10年来の企画」
  • 「…これはソ連以外の国民によってソ連で作られた最初の映画ということになる」『スクリーン』1970年7月号 p.106-107「封切作品紹介 伊=米映画 ひまわり」より p.106
  • 「…ソ連以外の他国民によってソ連で作られた最初の映画ということで、…」『キネマ旬報』1970年8月上旬号「監督のいる風景」
  • 「…ローレンの夫カルロ・ポンティ製作、ビットリオ・デ・シーカ監督のイタリア映画で、ソ連には他国との合作映画はあるが、ソ連に外国の映画製作陣が乗込んで自主製作した作品はこれが最初である」『キネマ旬報』1970年9月上旬号 p.72「外国映画批評 ひまわり」(大黒東洋士)
  • 「…ソ連との合作映画なら前例はあるが、ソ連から見れば無関係の外国映画としては最初のソ連ロケ撮影を行い…」『スクリーン』1970年10月号 p.158-162「大スターは歩みつづける(15) ソフィア・ローレン物語」(清水千代太)より p.158
  • 「…イタリアの故ビットリオ・デ・シーカ監督の「ひまわり」が、西側映画として初の大規模なソビエト・ロケを許されて "歴史的な出来事”といわれたのは六年前だった」読売新聞 1975年4月2日(夕刊)東京本社版第7面「外に開くソビエト映画界(上)」

一方、後者の報道例は、

  • 「…はじめて外国のカメラが、ソ連国内の奥深く入ることになったわけである」日本封切時のパンフレット[4] パンフレット上の映画「所属先」の記載は、「カルロ・ポンティ・プロダクション作品」「アブコ・エンバシー映画提供」「ブエナ・ビスタ映画配給」。
  • 「…西欧の映画が、現代のソ連のなかにキャメラをもちこんで劇映画をつくったのは、おそらくこれがはじめてだろう」『キネマ旬報』1970年8月上旬号 p.43-44「KINEJUN試写室 大きな運命に息づく男女の愛 ひまわり」(品田雄吉)より p.44
  • 「…「ひまわり」は、はじめて西側のカメラがソ連に入ったと話題を呼んでいる作品である」『キネマ旬報』1970年8月上旬号 p.80-81「外国映画紹介 新作情報 「ひまわり」の話題あれこれ」より p.80

宣伝に話題性は必須だが、これは藪をつついて蛇を出しかねないきわどい路線である。前者は、ソ連との協同作業について深入りされれば、3月の泥仕合まで明るみに出かねず、後者は映画マニアが少し調べれば簡単に露見する嘘だからだ。にもかかわらず、日本封切当時の報道(配給会社から提供された情報、すなわち事実上の宣伝が含まれる)は、他にセールスポイントが無いのかと思えるほど「世界初」にこだわり続けていた。

一方のソ連は、『ひまわり』に関しては沈黙を続けていた。例えば、当時の駐日ソ連大使館が月2回発行していた日本語広報紙『今日のソ連邦』には、話題の新作映画の記事は必ず登場し、1970年も『ヨーロッパの解放』(5月1日号、p.48-49)、『赤いテント』(9月15日号、p.47-49)、『チャイコフスキー』(10月15日号、p.24-27)などが取り上げられているが、『ひまわり』に関する記述はゼロである。日本でのヒットが予想されていた大作で、かつソ連の名女優サベーリエワが出演しているにもかかわらず、「ソ連ロケあっての『ひまわり』」という手柄自慢さえ登場しなかった。

ヘルソン州説の起源は?[編集]

長年に亘り、作品中のひまわり畑のロケ地はウクライナのヘルソン州と思われていた(実際はポルタヴァ州[3])。このヘルソン州説は「実際の激戦地に近いポルタヴァ州から目を逸らすためソ連が流布した嘘」という説もあるが[3]、証拠は見つかっていない(2022年9月現在)。当時のソ連は、真のロケ地・ポルタヴァ州の積極的アピールもしなかった代わり、ヘルソン州という偽情報を積極的に流布した痕跡もないのである。

ヘルソン州説形成の雛型とも言える映画記事は、1970年に早速登場している。

ロケ撮影はソ連の首都モスクワから南方1000マイルに及ぶ広大なウクライナ地方の草原やソ連内の著名な場所で行われたが、これはソ連以外の国民によってソ連で作られた最初の映画ということになる。 — 『スクリーン』(近代映画社)1970年7月号[17]

一方、日本封切時のパンフレットには、ウクライナのロケ地が2ヵ所言及されている。「広大なウクライナ地方のひまわり畑」と「冬のウクライナ/四方八方へ、600キロにもわたって広がる雪の世界」である[4]。即ち、この記述の源泉は、次の2通りが考えられる。

  • ウクライナの夏ロケ地と冬ロケ地に関する情報が、映画記者の頭の中で混同され、「600キロ四方→600キロ南→相当長距離の南→1000マイル南」と、頭の中で伝言ゲーム的に変換されて行った。
  • 配給元の広報担当者の話をそのまま書いた。単位マイルが不用意に出て来ることから、情報発信者はアメリカ人である確率が高い[注釈 31]

いづれにせよ、このフレーズは、ソ連に少しでも土地勘のある人間からは絶対に出て来ない。モスクワの1000マイル(約1609㎞)南は、黒海を飛び越してアナトリア半島トルコ共和国)に達するからだ。配給元も映画記者も、ウクライナがソ連のどこにあるかも知らない地理音痴ばかりという状況で、混乱した情報をやり取りしているうち、この手のいい加減なフレーズが一人歩きを始め、
「「モスクワの遙か南方」で「ひまわりの名所」であれば、ヘルソン州あたりだろう」
となった。これは有力な説の一つとなり得る。

東欧での公開[編集]

ソ連での公開は、Wikipedia 日本語版インフォボックスが1970年5月25日(出典あり)[18]、ドイツ語版本文が「ローレンポンティを招待し、1970年6月」。またソフィア・ローレンのソ連ロケを詳説したウェブ記事では「予定より1年遅れて1971年に公開されたが、イタリアほど盛り上がらなかった」[11]。観客動員数は、ロシア語の映画作品情報サイト「キノポーイスク」によると、イタリアが7千4百万人、ソ連が4億1千6百万人[19]。但し当時のソ連は、年間延べ約50億人が映画を見る映画大国だったので[20]、この数字だけからは好評とは判断できない。

Wikipedia ドイツ語版では、「ただのメロドラマ」という冷ややかな西ドイツメディアの批評と、東ドイツの「戦争の残酷さと、それが人々にもたらす苦しみとを、普遍的に描き切った作品」「反戦映画にして、なおも普通の人々の生きる力と高い道徳性への希望を失わせない作品」という共感的な批評とが、併せて紹介されている。

関連項目[編集]

  • ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニ主演、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画。
  • 赤いテント - 1969年のイタリアソ連合作映画。日本での封切は『ひまわり』と同じ1970年9月だが、『赤いテント』の方が22日早く、ソ連-西欧諸国の本格的合作映画としては日本初公開となった[21]
  • チャイコフスキー - 1970年の映画。ロシア帝国出身のアメリカ人映画音楽作曲家、ディミトリ・ティオムキンがソ連に企画を持ち込み、ソ連楽壇の全面協力のもと6年がかりで製作された。当初は、初の米ソ合作映画かと目されたが、配給権をめぐる米ワーナー・ブラザーズとの交渉が公開直前までまとまらず決裂[注釈 33]、「モスフィルムソ連映画」として発表された。ティオムキンはエグゼクティブプロデューサー・音楽監督としてスタッフに名を連ねている。日本での封切は同年12月。
  • 青い鳥 - 1976年の映画。初の公式米ソ合作映画(ソ連はレンフィルムが参加)。共同作業の正式調印(1973年11月)に先立って両者は2年もの話し合いを重ね、キャスト・スタッフの費用の一切は米が負担、ソ連は場所・スタッフ・機材などを提供、撮影は全てソ連で行い、配給は英語圏が米、東欧がソ連、他の地域は複雑に分割と、条件が事細かに決められた[23]
  • 言葉にできない - オフコースの楽曲。1982年6月30日日本武道館公演では曲の後半部分で『ひまわり』の中の、一面に広がるひまわり畑のシーンがスクリーンに映された。このアイデアについて小田和正は「まさに言葉にできないほどの、圧倒的な花の映像が欲しかったので、映画の版権の一部を買い取って武道館一面、ひまわりで埋めたんだ」と、後のインタビューで答えている。
  • Wikipedia 内の『ひまわり』関連写真ファイル - いずれも写真版権(使用権)は投稿者のみが獲得しており、Wikipedia 内でもコピー投稿は不可。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ タイトルは各国で差異がある。ロシア語『彼らは東部戦線へ行った』、イタリア語『イタリアの勇士たちよ』、英語『攻撃と退却』。
  2. ^ 主演はアーサー・ケネディ。またピーター・フォークがイタリア人軍医(中尉)役で出演している。
  3. ^ イタリア人兵士が一人また一人と斃れて行き、最後の一人は雪中で凍死するという構成を取っている。場面はソ連の夏の麦畑とひまわり畑に始まり、冬の吹雪の雪原で終わる。
  4. ^ 日本封切時のパンフレットには「ウクライナ地方のひまわり畑」としか書かれていない[4]。「ヘルソン州説」はいつ誰が唱え始め、またどの程度信用されていたかは要検証事項である。
  5. ^ NHKかごしまWEB特集での表記は「チェルニチー・ヤール村」[3]
  6. ^ チェルネーチー・ヤール村はディカーニカロシア語版ウクライナ語版英語版から約5km東北東と、ごく近くにある。ディカーニカは小さな町(都市型集落)だが、ゴーゴリの『ディカーニカ近郷夜話』で世界的に名を知られている。
  7. ^ 本国イタリアの権利管理会社では、『ひまわり』はせいぜいローレンがイタリアの女優賞を取った程度の作品であり、デ・シーカの代表作とは見なされなかったため、長年に亘って顧みられず、マスターフィルムは缶の中で劣化し、修復不能な状態となっていた。特にカルロ・ポンティの製作会社が倒産してからは、権利や資料が散佚し、世界各国を探しても使えるフィルムは見つからなかった。調査の過程で、『ひまわり』が日本で最も人気であることを知った加藤武史(アンプラグド代表)は、50周年記念上映を決意し、日本に残されていた映写用ポジフィルムから、独自にデジタル修復作業を行なった。[6]
  8. ^ 2022年4月17日の時点で Amazon.co.jp の外国の戦争映画 の 売れ筋ランキングでHDニューマスター版のDVDが1位、Blu-rayが2位になった[8]
  9. ^ 2022年5月2日の時点で Amazon.co.jp の外国のラブロマンス映画 の 売れ筋ランキングでHDニューマスター版のDVDが1位、Blu-rayが2位になった[9]
  10. ^ 日本封切時のパンフレットでは「14日間」と誤記されている[4]
  11. ^ アントニオが新婚早々に作ったのは、祖父も父も結婚式の翌日に作ったという、卵24個で作るプレーンオムレツ。アントニオがバターを使おうとすると、ジョバンナは「私の家は油よ」という。さすがに大きすぎて全部は食べれず、「しばらく卵とは絶交だ」。
  12. ^ この丘には慰霊碑があり、ソ連の詩人ミハイル・スヴェトロフロシア語版の詩「イタリア人」の一節が刻まれていた。"Молодой уроженец Неаполя!Что оставил в России ты на поле? Почему ты не мог быть счастливым Над родным знаменитым заливом?" (訳:ナポリに生まれし若者よ!/なぜ君はロシアの平原に置き去りにされたのだ?/なぜ幸福になれなかったのだ、故郷の名高い湾を見下ろしながら。)
  13. ^ ジョバンナの背後で動き出した列車とテーマ曲が見事にシンクロする名場面である。
  14. ^ Wikipedia ロシア語版では「労働組合長」。
  15. ^ 固有名詞だが、字義は「高い丘」「水源地の丘」の2通りの解釈が可能。
  16. ^ 1960年8月にモスクワ市に編入。現在は地名ザハールコヴォは使われておらず、通りや桟橋の名に僅かに残るのみである。
  17. ^ 旧ザハールコヴォ村は、Wikipedia ロシア語版では「ジョバンナが村で夫の消息を尋ね歩く場面」と書かれているが、写真を照合すると、小型トラックの走る水辺の平らな道である。
  18. ^ この寺院は、1975年のソ連のコメディ映画『運命の皮肉、あるいはいい湯を』にも写っている。
  19. ^ 「要出典」タグ貼付は2016年6月6日。
  20. ^ マルチェロ・マストロヤンニ紹介のページにある。大雪原を訪れた彼は驚き、当時雪原を逃げまどったイタリア兵の労苦に比べれば、自分の(大戦中の)労働キャンプの生活など楽なものだった、と述懐している[4]
  21. ^ イタリア語版 Wikipedia では un bar(軽食堂)という単語が使われているが、実際には2つのビリヤード台の方が目立つ配置である。アントニオはこの店で公衆電話をかけ、電話を切ってからテレビを強調した音響とカメラワークになる。
  22. ^ モスクワの夏時間導入は1981年、夏時間に合わせた通年時間採用が2011-2014年、現在の通年時間に戻ったのが2014年10月。即ち当時の時計は今と同じである。「モスクワ時間」のロシア語版参照。
  23. ^ 日本ではあまり馴染みのない日だが、ソ連では国の祝日。当時は「国際女性デー」よりも「国際婦人デー」の訳語が一般的だった。
  24. ^ 凍死、寒さによる体力消耗も含む。
  25. ^ イタリア語原文:Tutti i personaggi e gli eventi di questo film sono immaginari. Ogni riferimento a fatti, cose e persone della vita reale è da ritenersi puramente casuale.
  26. ^ 外務省と同じ建物だが、アップで写されたプレートは対外貿易省である。
  27. ^ 小森「いつの世にも咲きほこってほしい名作」[4]
  28. ^ 山岳兵は引退後も山岳兵を名乗る。「関連項目」の「アルピーニ」参照。
  29. ^ 例外として、ブルガリア語・韓国語・ペルシア語版は「イタリア映画」、カタロニア語版が「イタリア・フランス合作映画」、アラビア語・ヘブライ語版は本文記事が「イタリア映画」・インフォボックス内が「イタリア・フランス・ソ連」映画、インドネシア語版は本文記事が「イタリア映画」・インフォボックス内が「イタリア・ソ連」映画。
  30. ^ 『おろしや国酔夢譚』封切時のパンフレット(東宝出版事業室、1992年6月)には、レンフィルムとの製作協定調印(1990年10月)の事実と、ロシア・レニングラード市(当時)・レンフィルムの撮影協力の様子が、感謝と敬意を込めて丁寧に記録されている。『ひまわり』のパンフレットにモスフィルムの名が一言も登場しない[4](フィルムの冒頭クレジットには数秒間出る)のとは対照的である。
  31. ^ メートル法採用は、イタリアが1861年、ソ連が1925年(導入決定は1918年)。日本のメートル法化も当時はほぼ完了していた。
  32. ^ 一部の字幕では「アルプス隊」。
  33. ^ 「もともと、この「チャイコフスキー」、ソ連とワーナー映画の合作ということでスタートしたものだが、製作費の一切はソ連もち。ワーナー側は世界配給権を手に入れるための工作に専念していたのだった。この話がはっきり決らぬまま、製作が開始され、撮影が全部終了してもまだ、配給権のことではもめつづけていたが、結局、今春(引用者註:1970年春)、ソ連側とワーナーの話し合いはこじれ、両者は完全に手を切ってしまったもの。もともと、合作などではなかったのである」[22]

出典[編集]

  1. ^ ひまわり”. 映画.com. 2022年8月11日閲覧。
  2. ^ ロシア語版の冒頭クレジット。
  3. ^ a b c d e 茶園昌宏(NHK前モスクワ特派員) (2022年5月11日). “名作映画「ひまわり」に隠された”国家のうそ””. NHKかごしまWEB特集. 2022年5月18日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 日本封切時のパンフレット「ひまわり」(東宝事業部、1970年9月)。
  5. ^ ウクライナ情報:エピソード集(映画編)”. 在ウクライナ日本国大使館. 2015年9月30日閲覧。
  6. ^ 南條廣介「「コロナ禍」にヴィットリオ・デ・シーカ監督『ひまわり』をHDレストア上映する意味」『週刊エコノミストOnline』、毎日新聞社、2020年5月15日、2022年9月23日閲覧 
  7. ^ 日本放送協会. “「戦争とは何か」 ウクライナ侵攻で再注目の映画「ひまわり」”. NHKニュース. 2022年3月19日閲覧。
  8. ^ Amazon.co.jp ベストセラー: 外国の戦争映画 の中で最も人気のある商品です”. Archive.ph (2022年4月17日). 2022年4月17日閲覧。
  9. ^ Amazon.co.jp ベストセラー: 外国のラブロマンス映画 の中で最も人気のある商品です”. Archive.ph (2022年5月2日). 2022年5月2日閲覧。
  10. ^ 土曜シネマスペシャル ひまわり”. テレビ大阪. 2022年7月24日閲覧。
  11. ^ a b c Как Софи Лорен полгода снималась в СССР, и Почему фильм о России не понравился нашим чиновником(ソフィア・ローレンの半年間のソ連ロケ、そしてこのロシアに関する映画が我が国の役人たちのお気に召さなかった理由)” (ロシア語). КУЛЬТУРОЛОГИЯ. РФ(カルチュア・ロシア) (2020年10月27日). 2022年9月23日閲覧。筆者の toshi_djaa は1975年9月生まれの女性。大変な映画通だが、本名等は未詳。
  12. ^ Ольга Шаблинская(オリガ・シャブリンスカヤ) (2019年10月3日). “Мастроянни в Тропарёве-Никулине. Как снимаали фильм "Подсолнухи"?(トロパリョーヴォ=ニクーリノのマストロヤンニ。『ひまわり』のロケは如何にして行われたか?)” (ロシア語). АРГУМЕНТЫ И ФАКТЫ(論拠と事実). 2022年9月25日閲覧。 トロパリョーヴォ=ニクーリノは、集合住宅と寺院のある地区の現在の名称。
  13. ^ a b c d e Евгений Жирнов(エフゲーニー・ジルノーフ) (2005-03-14). “Содружество с итальянских кинематографистами - сплошное надувательство(イタリア映画人との協力‐完膚無きまでの欺瞞)” (ロシア語). Коммерсантъ Власть(コメルサント・ヴラースチ) (№10(613)). https://www.kommersant.ru/doc/554055 2022年9月23日閲覧。. 
  14. ^ a b c 「山岳兵、遺品回収に尽力 ソ連戦線、戦没者7万5000人」毎日新聞・2011年9月8日、東京本社版第6面。
  15. ^ 「伊・ソ連合作映画」 - 『マストロヤンニ自伝 わが映画人生を語る』(マルチェロ・マストロヤンニ著、アンナ=マリア・タトー編、押場靖志 訳、小学館、2002年4月) 巻末用語解説「ひまわり」(p.315)。
  16. ^ 「…イタリア=ソビエト合作のこの大作を…」 - 『イタリア ネオリアリズムの旗手 ヴィットリオ・デ・シーカを感動する』(スクリーン特別編集(スクリーン・デラックス)、近代映画社、2010年1月) 「ひまわり」(p.60-63) より p.61。
  17. ^ 封切作品紹介・伊=米映画「ひまわり」(『スクリーン』(近代映画社)1970年7月号、p.106-107)より p.106。
  18. ^ Премьеры/Подсолнухи(I girasoli, 1970) 封切/ひまわり(1970年)” (ロシア語). КИНОПОИСК キノポーイスク. 2022年9月25日閲覧。 ローマ・日本の封切年月日がピタリと合っているので、信憑性は高い。但し1970年5月25日はモスクワ封切の日付。ソ連他地域では1971年3月。
  19. ^ Подсолнухи(1970) ひまわり(1970年)” (ロシア語). КИНОПОИСК キノポーイスク. 2022年9月25日閲覧。
  20. ^ 「外に開くソビエト映画界(上)」読売新聞・1975年4月2日(夕刊)、東京本社版第7面。また1968年の1年間の延べ観客動員数は、47億1千5百万人(『今日のソ連邦』1970年3月号(第5・6号合併号)、p.57)。
  21. ^ 山田和夫「「赤いテント」とミハイル・K・カラトーゾフ監督」-『キネマ旬報』1970年9月上旬号。
  22. ^ 「「チャイコフスキー」をめぐる話題」(『キネマ旬報』1970年11月上旬号、p. 92-94)より p.93。
  23. ^ 「外に開くソビエト映画界(中)」読売新聞・1975年4月4日(夕刊)、東京本社版第7面。

外部リンク[編集]