• ホショード、チベット語に準じたホショトの名でも呼ばれる。 オイラト年代記である『四オイラト史』によると、ホシュートの起源はチンギス・カンの同母弟ジョチ・ハサルにまでさかのぼるという。ハサルの子孫は代々ホルチン部の部族長であったが、ホルチン部の系譜にはそこから分岐してホシ...
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  • オイラト部族連合の盟主でホショト部の部族長であったトゥルバイフ(グシ・ハン)は1637年 - 1642年にかけてツァントェ王、ペリ王、チョクト・ホンタイジ等チベット各地の有力諸侯を攻滅ぼすと、ヤルンツァンポ河流域をダライ・ラマ領としてダライ・ラマ5世に寄進し、チベット東北部の青海...
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  • 青海地方に居住していた傍系王族たちも1723年 - 1724年に清朝の征服を受け、チベット各地に保有していた権益をすべて没収され(→雍正のチベット分割を参照)、チベットに対するホショト支配は終焉を迎えた。 1637年、青海草原を平定したオイラトの盟主にしてホシ...
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  • トゥルバイフにともなわれてチベット征服に従事し、そのまま青海湖の西方にひろがるシャラ・タラの地(青海草原)に住み着いたホショト部やその他のオイラト系遊牧民たちは、青海ホショト青海オイラトと呼ばれるようになった。 グシハンの子孫たちは、1723年-24年に清朝の雍正帝...
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  • ホシュート部で内乱がおこると、オイラトのトルグート部は内乱を避けて遥かヴォルガ河畔へ避難し、これが現在のカルムィク人となる。ホシュート部の内乱を収束し、新たな部族長になったのがグーシ・ハーンであった。彼はチベット仏教のゲルク派を擁護し、施主として青海に本拠を置いた。これが青海ホショト...
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  • 地位の認定などをおこない、政治・宗教の権力・権威の頂点に立つようになった。さらにはハルハやオイラト本国、ダライラマ政権の樹立に貢献した青海ホショトをはじめとする青海オイラトなどチベット内外のモンゴル系王公たちにハン・ホンタイジ・タイジ等の称号を授与し、清朝もダライラマ5世が彼らに授与した称号をその...
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  • は、清康熙・雍正朝の漢人官僚。妹は雍正帝の年貴妃。 四川巡撫に任命されると、西藏を侵犯したジュンガル部の策妄・阿喇布坦ツェワン・ラブタン、続けて青海で叛乱を起した青海ホショト部の羅卜藏・丹津ロブサン・ダンジンの軍を撃攘し、清朝 (延いては現在の中華人民共和国) がチベットを版図に組み込むきっかけを作った。 (以下の日附はいづれも旧暦。【...
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  • 青海草原に1723年に侵攻、翌1724年までに、グシハン一族をすべて制圧した。雍正帝はグシハン一族がチベットの諸侯たちやチベットの各地に有していた権限・権益をすべて接収、80年間つづいたグシハン一族のチベット支配はほぼ完全に覆され、グシハン一族が本拠地をおいていた青海草原と直属の青海ホショト...
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  • 中国支配下のカシャク制(1951年 - 1959年) 亡命政権時期(1959年 - ) デプン寺のダライ・ラマ5世の財務監ソナムチュンペルがオイラトのホショト部の指導者グシ・ハンと結び、グシ・ハンは1637年から1642年にかけてチベットの全域を平定、チベットの中枢部(ヤルンツァンポ河流域)がダライラマ...
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