• 泗川の戦い(しせんたたかい)は、文禄・慶長の役における合戦一つ。日本慶長3年/明万暦26年9月(1598年10月)、朝鮮半島泗川で島津義弘が率いる島津軍2千が明武将董一元率いる10万明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦いである。絶望的な戦力差があったにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した...
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  • 泗川市(サチョンし)は、大韓民国慶尚南道南部にある港湾都市である。泗川湾をかかえ、湾入口には三千浦港がある。また文禄・慶長の役における泗川の戦いなどが行われた場所でもある。市ブランドスローガンは「Rising Sacheon」。 釜山から西へ95km、光州から東南東へ105kmと、両市...
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  • ほぼ同時期に行われた、中路軍による泗川倭城攻撃(泗川の戦い)や、東路軍による蔚山倭城攻撃(第二次蔚山倭城の戦い)でも敗退しており、1598年9月末から10月初頭にかけて実施された、明・朝鮮連合軍総力を挙げて一大攻勢は日本軍反撃前にすべて失敗に終わった。 朝鮮王朝実録には、三路の戦い(第二次蔚山城の戦い泗川の戦い...
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  • ような混乱を東路軍ではおこすことなく比較的整然と撤退した。 朝鮮王朝実録には、三路の戦い(第二次蔚山城の戦い泗川の戦い、順天の戦い)において、明・朝鮮軍は全て攻撃で敗退し、これにより、三路に分かれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避準備をしたと記述されている。...
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  • 島津歳久が自害に追い込まれた際は、首が京都一条戻橋にさらされたを取り返しに行くという気骨あるところを見せている。その後文禄・慶長の役にも従軍し泗川の戦いで奮戦、忠長は100兵で10,000大軍を撃ち破り、義弘窮地を救うという神業をやってけた。これらの功績により宮之城領主に任命さ...
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  • ひさか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて武将、鹿児島藩士。薩摩島津氏分家、豊州家7代当主。伊予松山藩2代藩主・松平定頼伯父。 文禄2年(1593年)、文禄際に父朝久が朝鮮で病死すると、2年後文禄4年(1595年)に14歳で朝鮮へ渡海した。慶長の役にも参加し泗川の戦い...
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  • の戦い)。 5月、亀井茲矩軍は泗川付近に上陸し、泗川城を攻略し、さらに昆陽城と河東城を攻略した。朝鮮軍金時敏は、1千兵で泗川城に近づいたが、日本軍守備が厳重なを見て、攻撃を止めた。その後、亀井茲矩軍は日本軍上層部命令で機張城に移った。朝鮮官僚金誠一は、日本軍撤退を金時敏...
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  • 島津忠恒 (category 文禄・慶長の役人物)
    000の寡兵で明軍数万を破る猛勇を見せている(泗川の戦い)。 『絵本太閤記』によると、城に攻め寄せてきた、董一元率いる明大軍4万余りに対して、兵1千を率い、城外に討って出て、縦横無尽に槍を突き立てたり、多く兵士を切り捨てたりしたという。城を守っていた大将義弘と兵5千も、機を見て城外に討って出て、遮二無二突き破り、明人首3万を討ち取ったという。...
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  • 白村江の戦い(はくすきのえたたかい、はくそんこうたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島白村江(現在錦江河口付近)で行われた百済復興を目指す日本・百済遺民連合軍と唐・新羅連合軍との戦ことである。 日本では白村江は、慣行的に「はくすきのえ」と読まれる。「白村江」という...
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  • 泗川海戦(しせんかいせん、朝鮮語読みで泗川はサチョン)は、文禄元年5月29日(1592年7月8日)、泗川湾で行われた文禄海戦である。泗川浦海戦とも言う。亀甲船(亀船)が初めて実戦投入されたと云うが、この海戦自体について記述が日本側にはなく、詳細は不明。 この海戦は朝鮮側...
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  • 豊臣政権 (category 書きかけある項目)
    9月末から10月初めにかけて明・朝鮮軍は攻勢をかけ、日本軍順天城、泗川城、蔚山城を攻撃したがすべて撃退した。特に泗川城では島津義弘が明・朝鮮軍を大破した(泗川の戦い)。 明・朝鮮軍攻勢を撃退した日本軍であったが、既に8月18日に秀吉は死去していた(享年62)。秀吉と...
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