アウクスブルク仮信条協定(Augsburger Interim)とは、1548年にアウクスブルクの帝国議会で成立した信仰問題に関する協定。 16世紀前半よりドイツで宗教改革の動きが高まると、カトリックを奉じる神聖ローマ皇帝とプロテスタントを受け入れた諸侯の対立が深まった。...
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この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。 (過去の議論) アウクスブルク アウクスブルグ アウグスブルク アウクスブルク(ドイツ語: Augsburg [ˈa͜uksbʊrk] ( 音声ファイル), アレマン語: Augschburg)は、ドイツ連邦共和国・バイエルン州南西部に位置する郡独立市である。...
178 KB (24,742 words) - 14:42, 2 April 2024
アウクスブルクの和議(アウクスブルクのわぎ、ドイツ語:Augsburger Reichs- und Religionsfrieden)は、神聖ローマ帝国のアウクスブルクで開催された帝国議会において1555年9月25日になされた、ドイツ・中欧地域におけるルター派(プロテスタント)容認の決議である。アウクスブルクの宗教和議ともいう。...
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の間ではっきりとしたシュマルカルデン戦争が始まった。 1547年、ミュールベルクの戦いでカール5世が勝利、同盟の指導者ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒとヘッセン方伯フィリップを捕えてカトリック優位のアウクスブルク仮信条協定を結んだが、1552年にザクセン選帝侯モーリッツ(ヨハン・フリードリヒの又従...
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1547年にミュールベルクの戦いでカール5世が勝利するとカトリック優位のアウクスブルク仮信条協定が締結されたが、1552年には両派の平和共存を謳ったパッサウ条約が成立し、最終的に1555年にアウクスブルクの和議が結ばれ、諸侯はカトリックと新教(ルター派)を選択する権利が認められたことでい...
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アウクスブルク宗教平和令の雛型となった。 シュマルカルデン戦争ではプロテスタント勢力に圧勝したカール5世であったが、帝国統治において専横的な姿勢を強めたため、帝国内の諸侯から反発を招いた。1552年にシュマルカルデン戦争では皇帝支持に回ったザクセン選帝侯モーリッツが反皇帝に転じてインスブル...
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アジアへ行けなかったがドイツ(神聖ローマ帝国)へ赴任、1546年にスペイン王兼神聖ローマ皇帝カール5世の軍隊付牧師となり、帝国議会で宗教改革を巡る論争に参加したが、1548年のアウクスブルク仮信条協定に反対したためカール5世に追放されイタリアへ戻った。イタリアでも問題を起こし、1556年にイエズス会初代総長になっていたロヨラの死後、後継...
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ルーテル教会では、1548年からマルティン・ルターとメランヒトンの間にアディアフォラについての論争が起こった。アウクスブルク仮信条協定から、1577年の和協信条で論争の一応の終結を見た。アウクスブルク信仰告白でも確認されている。 福音派の指導者尾山令仁は、聖書が明瞭に命じていることについてはすべてのクリ...
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三十年戦争 (section シュマルカルデン戦争とアウクスブルクの和議)
ン同盟との間でシュマルカルデン戦争が勃発した。皇帝側が新教諸侯に勝利しカトリックに有利なアウクスブルク仮信条協定が定められたが、寝返ったザクセン選帝侯モーリッツとのパッサウ条約を経て、1555年のアウクスブルク宗教平和令が公布された。この令では、カトリックとルター派は信仰を理由とした暴力の禁止(カ...
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自身に有利な条件が整ったと感じたカール5世は同年シュマルカルデン戦争をおこし、シュマルカルデン同盟を壊滅させ、翌年のアウクスブルク帝国議会ではカトリックに有利なアウクスブルク仮信条協定が成立した。しかし、息子フェリペにドイツ・スペインの領土と帝位を継承させようとすると、ますます反発を招いてカール5世...
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ブルク条約) エルネスティン家とアルベルティン家との間で最終的な貨幣の分離が行われた。ライプツィヒの主立った場所で1485年に取り決められた共通の貨幣鋳造は廃止された。 いわゆる武装したアウクスブルクの帝国議会で劣勢のプロテスタント諸侯と諸身分はアウクスブルク仮信条協定を一方的に押しつけられることになった。...
5 KB (720 words) - 12:46, 25 June 2021